「あなたはどうしてバングラデシュに来たの?」
そう聞かれると、僕はいつも「ツーリズム」と答えた。空港のエントリーカードにもそう記入したし、どこの国でも、「ああ、そうかい。観光客なんだね」と納得してくれた。しかしバングラ人は、不思議そうに首をひねるのだった。
「それじゃあ、何を見に来たの?」
バングラデシュに旅行者が見るべきものなんて、本当にあるのか。あるんだったら教えてもらいたいぐらいだ、という顔をして聞くのである。そのたびに僕は曖昧に言葉を濁した。
「だからですね、ダッカの汚い街並みとか、スリモンゴルの田舎の風景なんかを見に来たんですよ」
と言ったところで――それが本当のことだとしても――誰も理解してはくれないからだ。
クミッラという町では、珍しく観光地に行ってみた。町外れに「サルバ・ヴィハラ」という仏教遺跡があるというので、ローカルバスに乗って出掛けたのだ。有名な遺跡だと宿の人間が勧めるので行ってみたのだけど、予想通り「がっかり遺跡」だった。
そこは高さ2mほどのレンガ造りの壁が、200m四方に積み上げられているだけの場所だった。一応英語の看板が立っていて、遺跡の成り立ちやら宗教的な意味が書かれているのだけど、仏教の歴史にさほど興味がない僕のような人間には、ただの古い壁にしか見えなかった。
おまけに、遺跡からの出土品を展示しているという博物館は、定休日で閉まっていた。明日にまた来なよ、と売店の男が声を掛けてきたが、もちろん出直す気なんてさらさらない。たまに旅行者らしいことをしてみると、このザマだ。やはりこの国はツーリズムには向かない国なのだ。
シンプルなレンガ工場
遺跡からクミッラの町まではおよそ8kmあったが、歩いて帰ることにした。基本的にはスリモンゴルと同じように田んぼの緑が広がる田舎の景色だったが、それ以外にはレンガ工場の煙突がたくさん目に付いた。地元の人はこの辺りのことを「ブリック・フィールド」と呼んでいるということだった。
レンガ作りはそれほど複雑な工程を要するものではない。近くの砂山を切り崩し、集めた砂に水を混ぜて型に入れ、しばらく天日で乾かす。それを炉の周りに積み上げて、石炭の熱で焼き固めると完成である。おそらく数百年間ほとんど変わらない製法なのだろう。
煙突の近くをうろうろしていると、親方らしきおっさんが、「ほれ、これが完成品だ。ひとつ持って帰れ」とお土産に出来立てのレンガをくれたが、そんなもの貰ってもどうしようもないので大変困った。漬け物石にでもすればいいのかもしれないが、旅人の身には邪魔なだけである。親方には悪いけど、レンガはしばらく行った先の路傍に置き去りにさせてもらった。時が流れれば、また元の砂に戻るだろう。
古い工場もあった。歴史の教科書に載っている明治時代の「富岡製糸工場」のようなレンガ造りの立派な外見である。実はこの工場も紡績工場なのだ、と通りがかりの男が教えてくれた。
「でも今は使われていません。30年前バングラデシュが独立した頃に、経営が上手く行かなくなって、閉鎖されたんです」
割れたガラス窓から中を覗き込むと、薄暗い中に灰色の無骨な紡績機械が何十台も並んでいる様子を見ることができた。機械は茶色く錆び付き、床には破片のようなものが散乱してはいたが、完全に死に絶えたようには見えなかった。何かの拍子で30年の眠りから覚め、また働き出すんじゃないかという気がした。
紡績工場の歴史を教えてくれたハビブという男は、かなり上手な英語を話した。立派な口髭を蓄えているので30歳ぐらいかと思っていたら、実際はまだ25歳で僕よりも年下だった。バングラ男は老け顔が多いのだ。
昼食はハビブ君の家に招かれて、ご馳走してもらうことになった。父親が薬屋をやっているので、将来はハビブ君が店を継ぐことになるのだという。父親の職業を息子が継ぐというのは、商売をしている家でなくても、ごく当たり前のことなのだそうだ。
昼食はチキンのカレーと青バナナのカレー、たまねぎとジャガイモの団子、卵焼き、ご飯、それにマンゴーの漬物。なかなかのご馳走だった。
バングラ人は右手だけを使って食べる。チャパティやナンといったパン系のものが主食のときはもちろん、ライスを食べるときもスプーンなどは使わない。でも僕はこの習慣になかなか馴染めないでいた。汁物とご飯を混ぜて手づかみで口に運ぶということに、どうしても抵抗感があった。だから、食堂でもスプーンを出してもらっていた。
「それじゃ、試してみてください」とハビブ君は僕に言った。「バングラデシュの料理は、手で食べた方が美味しいですよ」
「わかったよ」と僕は言った。「何ごとも試してみなきゃね」
しかし手で食べるのは、見た目よりずっと難しい作業だった。こっちの米はぱさぱさだし、カレーも水っぽいものなので、上手くすくってやらないと口に運ぶ前にぼろぼろとこぼれてしまう。最初は、初めて一人で食事ができるようになった幼児みたいに、みっともない食べ方しかできなかった。もちろんハビブ君も彼の家族にも笑われた。
でも何度か口に運ぶうちに、コツが掴めてきた。まずご飯とカレーを指で捏ねて、ある程度粘り気を持たせる。そして、親指を除いた4本の指で、上手くすくって口まで運ぶ。慣れてしまうと、これはこれで面白く、抵抗感も次第に消えていった。
食後にはミルクを出してくれた。この家の裏庭には5頭の牛が飼われていて、その乳をたった今搾ってきたのだという。日本では当たり前に飲める牛乳も、バングラではなかなか売っていない。パック詰めや瓶詰めの牛乳を販売するためには、迅速な流通と保冷車が必要になるからだろう。だから茶屋で出されるミルクティーには、缶詰のコンデンスミルクが使われていた。
久しぶりの牛乳は美味しかった。思ったほどコクはなかったが(きっと痩せた干草ばかり食べているからだろう)、新鮮な裏庭の味だった。
汗が滲んだ白いバンダナ
ハビブ君一家に別れを告げてしばらく歩くと、一人の少年とすれ違った。やせっぽちの少年は、短パンに上半身裸という格好ながら、頭には白いバンダナを巻いていた。ちょうど昔のジャニーズ・アイドルみたいな格好だ。
「それ、かっこいいじゃない」
僕は彼に日本語で話し掛けてみた。少年は戸惑ったような表情を浮かべたが、しばらくするとバンダナを褒められていることがわかったらしく、嬉しそうに顔をほころばせた。こちらが笑うと、向こうも笑う。言葉以前のシンプルなコミュニケーションだけど、それが言葉以上に重要なんだということを、僕はこの国で学んだ気がする。つかの間の出会いかもしれないけど、通じ合うものはある。
ニコニコと笑顔を交わしたことで、少しハッピーな気持ちになって、僕はまた歩き始めた。すると少年が後ろから追いかけてきて、僕の手に何かを握らせた。それは彼の巻いていた白いバンダナだった。
「これを僕にくれるの?」
僕が身振りで訊ねると、彼は大きく頷いた。
「ドンノバッ!(ありがとう)」
僕らはもう一度笑顔を交わした。旅の中で、子供にモノをねだられることはしょっちゅうだったけれど、モノを貰ったことは一度もなかったから、正直言って驚いた。理由はよくわからないけれど、彼は自分のアクセサリーを会ったばかりの外国人にプレゼントしてくれたのだ。それが汗の染み込んだ白いレース布の端切れだったとしても、言葉にできないぐらい嬉しかった。
宿に帰ってから、貰ったバンダナをバックパックに括り付けることにした。僕はお守りとかジンクスとかを信じるたちではないけど、この白い布は特別な意味を持つ「しるし」になるだろうと感じたのだ。
チッタゴンの宿で娼婦の少女と出会ってから、僕は気の重い旅を続けていた。親切な人に出会っても、新鮮な景色を目にしても、どうしても心が弾まなかった。一体、俺はここで何をしているのだろう、ここに何をしに来たんだろう、という疑問がずっと頭を離れなかった。
でも、汗の染み込んだ白いバンダナを結びつけていると、この国を旅している理由がぼんやりとわかってきた。触ること――そこにあるものにじかに触って、その感覚を記憶に刻みながら歩くこと。それが、バングラを旅している理由であり、目的なんじゃないだろうか。
バングラは手応えのある国だった。目や耳や舌が感じる以上に、触覚にダイレクトな刺激があった。僕は出来立てのレンガのざらついた温かさを感じ、娼婦の少女に渡した100タカ札のかさついた感触や、次々に握手を求めてくる働く男達のごつごつとした手の力強さや、手ですくい取った青バナナカレーのうまさや、バンダナに染み込んだ汗の湿りを、手のひらで受け止めた。
その皮膚感覚は、素晴らしい遺跡や雄大な自然の眺めを見ることよりも、僕にとってはずっと重要なことだった。
「どうしてバングラに来たんだ?」
という質問に、今ならこう答えることができる。
「この国に触るためだ」
それから何ヶ月もの間、バンダナは僕と一緒に旅を続けることになる。埃を吸って真っ黒に汚れながらも、日本に帰るまでずっとバックパックに結びつけられていた。結果的に、それは旅のお守りのような役割を果たすことになった。