チャンマニャン村に朝の訪れを告げたのは、いろいろな生き物の声だった。まず雄鶏の甲高い声で鳴き、次に水牛がもったりと間延びした声を上げ、犬が誰かに吠えかかり、赤ん坊が泣き出し、女達が笑い合う。しばらくすると、階下の食堂のかまどに火が入り、白い煙が二階の部屋まで昇ってくる。賑やかな朝だった。
外に出て見晴らしのいい丘に登ってみると、朝日を受けたヒマラヤの峰々を見ることができた。しかし、雪に覆われた一番高い峰(おそらくガネーシャ山だ)の稜線は、白い靄と解け合ってぼんやりとしか見えなかった。この時期のネパールは雲や霞が多いので、山をはっきりと見ることができるのは三日に一度ぐらいなんだ、とサンタは言った。
僕らはドーナツと卵焼きとチャ(ミルクティー)という朝食を食べて、再び山を歩き始めた。寒暖の差が激しいネパールでは、朝方はきりりと冷えていても、日が高く昇る頃にはTシャツ一枚でも汗ばむような陽気になる。ただし空気は乾燥しているので、シャツが汗でべとつく程ではない。トレッキング初心者の僕にとっては、ベストコンディションだった。
ネパールと聞いて、誰もがまず最初に思い浮かべるのが、8000m級の山が連なるヒマラヤ山脈だろう。険しい峰々、降り積もる万年雪、薄い空気――僕もネパールを訪れるまでは、そういう場所なのだろうと漠然と想像していた。
でも実際には、大半のネパール人が暮らしているのは標高2000mに満たない土地である。4000mを超えるような高地には作物がほとんど育たないし、遊牧で養うことができる人口はごく僅かだからだ。
僕が一週間歩いたのも標高1000~1500mほどの村々で、そういうところには冬でも雪は降らないのだそうだ。地図を見ればわかることだけど、ネパールの緯度は沖縄と同じぐらいで、低地では亜熱帯に属する場所なのだ。亜熱帯だから、バナナやパパイヤの木も生えているし、畑の真ん中に大きなサボテンが伸びていたりもする。ヒマラヤ山脈とサボテンというのも、なんだか奇妙な取り合わせにも思えるのだけど。
老人は歌うようにお経を読んだ
最初の休憩で、サンタの古くからの知り合いだという農家に入った。僕らがチャを飲みながら休んでいると、家主の老人が一冊の本を大事そうに抱えて部屋から出てきた。その本は尋常じゃないぐらい古びていた。まるで火災現場から持ち出したみたいに、本の周囲が黒く焦げてボロボロになっていた。
「それは何の本ですか?」
僕は老人に聞いた。彼は英語がわからないので、サンタが訳してくれた。
「ヒンドゥー教の教典だ」と老人は答えた。
「何年前の本ですか?」
「70年。私より少し若い」
老人は短く答えた。彼はそれよりも5年前、つまり75年前に生まれたという。老人は本を日の当たる場所に広げて、一行一行指で追いながら音読していった。これが彼の日課なんだ、とサンタは僕に言った。
老人は歌うようにお経を読んだ。抑揚のある声と独特のリズムだ。僕らは黙ってチャを飲みながら、老人のお経に聞き入った。70年前に印刷された文字と、それを追う75歳の老人の指とは、離れがたく調和していた。こうやって毎日毎日読み続けられるうちに、本は黒く汚れていったのだろう。
しばらくすると、老人の小指に二匹のハエが止まってせわしない交尾を始めたが、そんなことには頓着せずに、彼は悠々とお経を読み続けた。何十年もの間、彼はこうして毎日の日課を欠かすことなく続けているのだろう。
結婚式は歌い踊り、そして食べる
トレッキングをしている間、僕は何回か結婚式の行列に出くわした。暑くも寒くもなく、休耕期で仕事の少ない3月は、ネパールの農家にとって一番の結婚シーズンなのだ。
結婚披露宴は、花嫁の実家と花婿の実家の二回に分けて行われる。まず花婿の一族が行列を作って花嫁の実家に行く。そこで宴を開き、今度は花嫁と花婿の行列がひとつになって、花婿の実家へと移動する。行列の先頭には「ナルシン」というホルンに似た弓形の楽器を抱えた男が立ち、その後ろに花嫁を乗せた輿が続く。花嫁は色鮮やかなドレスを着て、真っ赤な傘を差し掛けられている。普段は静かな村も、この行列が通るときだけは華やいだ空気に包まれる。
「もし、お互いの家がいくつも山を越えたところにあったらどうするの?」と僕はサンタに訊ねた。
「それでも歩いて行きますよ」とサンタは言った。「ときには2日3日かかる場合もありますが、それが決まりだから歩きます」
いくら歩くのには慣れているネパール人でも、3日もおみこしを担いで歩き続けるのは決して楽ではないはずだ。それにその間、一族の人間はみんな仕事を放り出さなくてはいけなくなる。だからこそ、休耕期に式を挙げるのだろうが。ちなみにサンタの場合は、奥さんが同じ村の出身だったから、楽ちんだったらしい。
行列が山を越えて移動する間、花婿の実家では一足早く宴が開かれていて、歌って踊りながら新郎新婦の到着を待つ。実際に僕はこの宴の輪に参加したのだけど、なかなか面白かった。
それは一日の移動を終えて宿に荷物を置き、一人で村の中を歩いていたときのことだった。遠くから太鼓の音が聞こえてきたので、その音に誘われるように谷をひとつ越え、急な斜面に作られた段々畑を登っていくと、一軒の農家の庭先で宴が開かれているのが見えた。
50人ほどが集まった賑やかな宴だった。男達が太鼓でリズムを作り出し、女達が輪になって踊っている。子供や年寄りは踊りの輪を取り囲み、手拍子を打ちながら声を合わせて歌っていた。
「ナマステ」と挨拶をして近づくと、太鼓の音が止み、村人の視線が僕に集中した。一瞬、これはまずいときに声を掛けたのかなと焦ったが、すぐにカタコトの英語が喋れる若者が、「ウェルカム」と招き入れてくれた。
「あんたはアメリカ人か?」と若者は僕に訊ねた。
「いいえ、日本人です」
「そうか。どこの村から来たんだ?」
「谷の向こうの村です。太鼓の音を聞いて来たんですよ」
「俺たちはこうやって踊りながら、新郎と新婦が来るのを待っているんだ。あんたも一緒に踊っていきなよ」
彼は「レッツ・ダンス!」と陽気に言うと、僕の手を強引に引っ張って、踊りの輪の中心に立たせた。女達は楽しそうに笑い、周りの子供から歓声が上がった。そして改めて太鼓が鳴らされ、女達が歌い出した。年輩の女が僕の前に立ち、見本を示すかのように踊る。ここで踊らなければ、ただでは帰してもらえないような雰囲気になってしまった。
僕は見よう見まねでネパール風ダンスを踊った。両手を大きく広げ、腰をくねらし、小さな円を描くように回る。しかし女達は僕のぎこちない踊りに大いに不満げな様子で、口々に野次る。たぶん「そこの手はもっとひねらなきゃ」とか、「太鼓と足のステップが合ってないわ」などと言われているんだろう。でも、そんなにいっぺんに注文されてもできるわけがない。元々、踊りは得意じゃないのだ。
20分ほど踊って(踊らされて)、女達の盛り上がりが少しおさまったのを見計らって、僕は踊りの輪を脱出した。顔にたっぷりと汗をかいたので、それをTシャツで拭っていると、おばさんがチャを持ってきてくれた。今まで飲んできた甘いミルクティーと違って、塩の入ったバター茶だった。ネパールでもチベットでも山岳民はバター茶を飲む習慣があるというのは聞いていたが、実際に口にするのは初めてだった。それは何とも形容しがたい複雑な味と匂いのするお茶だった。お茶というよりはどろどろのスープに近いもので、塩が利きすぎていてなかなか喉を通らなかった。
そのバター茶と一緒に勧められたのは、冷えてコチコチに固まったドーナツだった。これはひとことで言うなら乾いた紙粘土のような食感を持つ重い黒パンというような代物で、もちろんお世辞にもうまいとは言えないものだったが、村人の注目を一身に浴びているのがわかるから、残すわけにもいかないし、まずい顔をすることもできなかった。
「ベリー・グッド! デリシャス!」
なんとか全て平らげた後に、僕は作り笑顔で言った。我ながらなかなかの演技だと思ったが、それがいけなかった。
「あらまー、うまいってよ。それだったらば遠慮せんと、もうひとつどうぞー」
と喜んだおばさんが、さっそくお代わりを持ってきたのだ。しかも、ドーナツはさっき食べたのよりも一回り大きくなっているし、バター茶もいくぶん増量されている。サービスしてくれる気持ちは有り難いのだけど、味が味だけに気持ちは複雑だ。
でも、こうなったら食べるしかない。今までだって、変わったものは食べてきた。カンボジアではヘビを食べたし、ラオスでは鹿の肝を食べたじゃないか。そう自分に言い聞かせながら、僕はドーナツを口に入れた。今回はゆっくり味わうのではなく、ドーナツを無理矢理バター茶で喉に流し込む強行突破作戦をとったのだけど、それが裏目に出てしまった。お茶を吸い込むことで、乾いたドーナツの嵩が増え、喉に詰まって一瞬息ができなくなったのだ。
僕は焦りながらも胸をどんどんと叩き、ようやくドーナツを全部飲み込んだ。バター茶の匂いが胃をぎゅっと締め付けて、中のものを戻しそうになるが、それもぐっと堪えた。そして最後に思い出したように、笑顔を付け加えた。平均台から落ちてからも演技を続けた体操選手の着地の時のような笑顔だ。
もちろん、おばさんはそれを見て「さぁもう一杯だよ」とばかりに、コップにお代わりを注ごうとするのだが、今度ばかりは右手でコップに蓋をした。そして、サンタに教わったネパール語を思い出して叫んだ。
「プギョ!プギョ!(もう十分です!)」
僕は何度か繰り返し、さらに満腹なんですという身振りを加えると、おばさんはようやく諦めてくれた。この「プギョ」は、ネパールを旅する人が覚えておくべき単語のひとつである。
この村が貧しいことは、聞くまでもないことだった。ハレの日だからといって、特別に豪勢な料理を作る余裕はないのだろう。ドーナツも小麦ではない雑穀から作られたものだった。
それでも彼らは用意できる最高のもので、飛び入りの客をもてなしてくれた。一緒に歌って踊ることで、言葉にできないものを少しでも通じ合わせることができた。そのことがとても嬉しかった。
料理がうまいかどうかなんてことは、たいした問題じゃない。でも、あのコチコチドーナツだけは、もう二度とごめんだけど。