2年間のブランクを経て、2度目の長旅へ
ユーラシア大陸を一周する長旅から帰ってきた僕は、ホームページ「たびそら」を立ち上げ、長い旅をひとつのストーリーにまとめる作業に取りかかった。
最初、「たびそら」は文章主体のページだった。写真もそれなりにたくさん(約9000枚)撮ってきたけれど、それだけで何かを伝える強い力を持っているとは到底思えなかったからだ。写真はあくまでも旅行記を引き立てる脇役。そう考えていた。
ところが実際に「たびそら」を立ち上げてみると、文章よりも写真の方がはるかに反響が大きいことに驚かされた。書いては直し、また書いては直しという作業を何日も続けた末にようやく完成した文章よりも、一瞬の表情を切り取った写真の方が強い印象を残すことがあるのだ。僕は写真という表現手段が持つ豊かな可能性に改めて気付かされた。
もちろんホームページを更新しているだけでは何の収入にもならないし、それで生きていくことはできない。そこで京都にある小さな編集プロダクションでライターの仕事をするようになった。ガイドブックや情報誌の取材だ。一日に湯豆腐屋を6件も回って、その感想 (といっても豆腐なんてどれも大して味は変わらないんだけど)を書くという仕事もあった。京都の三大祭りを取材したり、新撰組ゆかりの地を訪ねたりした。こだわりの蕎麦屋、女の子が好む雑貨屋、京町家を改装したドッグカフェなんかにも行った。ひとつひとつの仕事は面白かったが、「これをずっとやり続けることはできないなぁ」と感じてもいた。そもそも僕自身がそうした情報誌的情報を欲してはいなかったのだ。
幸いにして「たびそら」は「@niftyホームページグランプリ2002」で準グランプリを受賞し、それがきっかけになって2003年4月に笹塚で初めての写真展を開催することになり、そして2003年12月には写真集「アジアの瞳」を出版した。写真家としてのキャリアを始めるスタートラインに立ったわけだ。「もう一度旅に出て写真を撮りたい」という気持ちが芽生えてきたのは、ちょうどその頃だった。
本物の写真家になるために
2004年1月、僕は二度目の長旅に出発した。行き先はやはりアジアだった。初めて訪れる場所で、初めて出会う人々と笑顔を交わし、一瞬の表情をカメラで切り取る。そんな驚きと興奮に満ちた日々をまた味わいたかったのだ。
この旅では「自分が写真家として生きていけるのかどうか」を見極めるつもりだった。写真集を出版したことで、一応「写真家」という肩書きを名乗りはじめたのだが、内心では「自分はまだ本物の写真家ではない」と思っていた。写真を専門的に学んだこともなければ、仕事として撮影をした経験もない自分などが「写真家」と名乗るなんておこがましい、という気持ちが常に心のどこかにあったからだ。
確かに2001年の旅では、印象的な写真を何枚か撮ることができた。しかし、それは様々な幸運が重なり合った結果に過ぎなかった。はっきり言えば「ビギナーズラック」だった。何も知らない素人が撮ったからこそウケたのだ。
「たまたまの幸運」を「本物の力」に変えるために、もう一度旅をする。そして今度こそ「自分の実力でつかみ取った一枚」を撮ろう。僕はそう心に決めた。
関空からシンガポール航空でバンコクへ飛び、カオサン通りの旅行会社でカンボジアのシェムリアップへ向かうバスを手配した。東南アジア独特の粘りつくような湿った空気は不快指数100%だったが、僕の足取りは軽かった。未知なるものへの好奇心が気持ちを高揚させていた。2年というブランクによって「旅に向かう新鮮な気持ち」を十分に蓄えられていたのだろう。
どんなチャンスも逃すまいと、僕は大きく目を見開いて町を歩いた。どのような角度で被写体に向き合えばいい表情になるのか、いい光が得られるのかを常に意識しながらカメラを構えた。
そんな日々の中で、僕は気付いた。この世界には無限のシャッターチャンスがあり、撮るべきものはいくらでもあるということを。だからこそ、本物の写真家になるために必要なのは、無限の可能性のうちどれを選び取るかという「取捨選択の目」を鍛えることであり、目の前の現実をどのように切り取るかという「想像力」を養うことなのだと。
こうして僕は写真家になるための第一歩を踏み出したのだった。
笑顔のデパート
シェムリアップ郊外の村に住む少女・レアはとにかく表情が豊かだった。痩せっぽちの女の子が、マジシャンがシルクハットから沢山の国旗を引っ張り出すみたいに次から次へといろんな笑顔を見せてくれると、思わずこちらの顔もほころんでしまった。笑顔のデパート。そんな形容詞がぴったりだった。
最初にレアと出会ったのはちょうど3年前、2001年1月のことだった。カンボジアの農村でたまたま立ち寄った結婚披露宴に飛び入りで参加したことがあったのだが、その飲めや踊れやの宴会で大いに盛り上がる大人達を不思議そうな顔で眺めていた女の子がレアだったのだ。
カンボジアの結婚披露宴は、日本のように形式張らない——言い換えれば、ずいぶんいいかげんな——ものだった。僕らが飲んだり食ったりしている間、誰一人挨拶に立つ人はいなかったし、場を取り仕切る司会者らしき人物も見当たらなかった。
宴会の席で振る舞われていたのは「ビールのスプライト割り」という奇妙な飲み物だった。冷蔵庫なんてどこにもない土地で、ぬるいビールを飲むためにこういう飲み方を編み出したのかもしれないが、味の方はひどかった。ビールの苦みとスプライトの甘みが渾然一体となった、予想通りのマズさだった。
料理の方はなかなか豪勢だった。野菜入りビーフンから始まり、牛肉の炒め物、骨付きチキンの甘辛煮、豚肉と野菜の炒め物などが、次から次に運ばれてきた。普段はあまり食べられない肉類をこの日だけは目一杯食べようという晴れがましさが伝わってくるメニューだった。
宴会の開始から二時間。並べられた料理が全て食べ尽くされてしまうと、庭に並んだテーブルが片づけられ、人の輪ができた。一緒に踊ろうや、と僕の手を引っ張ったのは、真っ黒に日焼けした陽気なおじさんである。おじさんの知っている英語は「ノープロブレム」「オーケー」「アイムソーリー」の三つだけなのだが、それでも何となく意志が通じてしまうのは、お互いに酒が入っているからでもあるのだろう。
「ノープロブレム」のおじさんは僕の向かい側に立って、ツイストみたいな妙なステップで踊り始めた。仕方がないから僕も彼の真似をして、手を振り、腰を振る。すると周りで見ている女達が大口を開けて笑い出す。僕は決してリズム感が悪い方ではない(少なくとも自分ではそう思っている)のだが、それでも僕とおじさんのダブル・ツイストがよほど可笑しかったのか、女達の笑い声はどんどん大きくなっていった。
飲んで踊って騒いで、とにかく楽しい宴会だった。はっきり言って新郎新婦なんてそっちのけだったが、そのいい加減さが面白かった。それは僕にとって初めて経験する「旅先での温かい歓待」だったから、なおさらこの出来事が忘れがたいものになった。
「ほんと、あのウェディング・パーティーは面白かったわね」
とモムは懐かしそうに言った。彼女は偶然通りかかった僕を結婚披露宴に引っ張り込んでくれた張本人であり、「笑顔のデパート」レアの姉でもあった。最初の出会いから三年ぶりにモムの家を訪ねてみたのだが、彼女はあの日の出来事をよく覚えていた。でも残念なことに、妹のレアは僕のことをすっかり忘れていた。
「三年前、この子はまだ六歳だったから・・・」
モムは申し訳なさそうに言った。
「それはいいんだよ」僕は首を振った。「僕だって旅先で出会った人全員を覚えている訳じゃないからね。レアのようにはっきりと覚えている子の方が珍しいぐらいなんだ。だからレアが僕のことを覚えていないのも無理はないよ」
九歳になったレアはより女の子らしい顔立ちに変わっていたが、それでもとびきり大きな瞳と艶やかな黒い髪の毛は三年前と全く同じだった。レアは女ばかり四人姉妹の末っ子なので、両親からも姉たちからもかわいがられていて、のびのび育っているという印象を受けた。
「この子は絵を描くことのが何よりも好きなの。将来は学校の先生になりたいんだって。学校の成績だって悪くないのよ」
モムはそう言って妹の頭を優しく撫でた。レアはなんだか照れ臭そうに下を向いていた。