「彼は死んだよ」
僧侶は僕が持ってきた写真に目をやりながら、呟くように言った。「せっかく来てくれたのに、残念だけど」
僕には彼が何を言っているのか、すぐに理解することができなかった。彼が死んだ?
「ウィザヤは死んだ。それは確かなんですか?」
僕はひとつひとつの単語をゆっくり発音して質問し直した。
「イエス。二年前に死んだんだ。肺の病でね」
僧侶は悲しそうに顔をしかめた。
「でも僕がウィザヤに会ったのは三年前のことなんですよ。その時はとても元気だったのに」
「我々もウィザヤが亡くなったと聞かされたときは本当に驚いたよ。彼はこの僧院ではなくて、故郷であるパテインという町で亡くなったんだ。医者の話では、チョークの粉をたくさん吸い込んだのが肺の病気の原因ではないかということだった。彼は僧侶になるまでの二十年間、ずっと教師をしていたからね」
信じられなかった。チョークの粉の吸い過ぎで肺の病気に罹ったという話も信じられなかったし、三年前にあれほど元気だったウィザヤがもうこの世にはいないという事実も受け入れがたいものだった。しかし目の前の僧侶が嘘をつく理由はなかった。
「我々僧侶は出家するときに新しい名前をもらうんだ」と僧侶は言った。「古い名前を捨てて、新しい人生を生き始めるためにね。『ウィザヤ』というのも、僧侶になったときに彼がもらった名前なんだ。『静かな人』という意味がある。彼は物静かな男だったからな」
「ええ、よく知っています」と僕は頷いた。
確かに「静かな人」というのは、僕が会おうとして会えなかった男に相応しい名前であると思う。ウィザヤは深い海の底に座っているような、穏やかで思慮深い人だった。
すべてを捨てて出家した男
ウィザヤはミャンマーでも有数の聖地であるポッパ山で修行する僧侶だった。三年前、僕がこのポッパ山を初めて訪れたとき、いくつかの偶然が重なって、僕と彼は話をするようになった。もともと教師だった彼はかなりうまく英語を話したし、ちょうど修行の合間の暇な時間だったこともあって、親切に僧院の中を案内してくれたのだった。
ウィザヤは四十六歳だったが、とても若々しかった。無駄な肉付きは一切なく、肌にも張りがあったので、彼に年齢を教えてもらうまで三十代半ばぐらいだろうと思っていたほどだ。
「規則正しい生活と、シンプルな食事、それに適度な運動。ここでの生活はとても健康的なんです」とウィザヤは穏やかな微笑を口元に浮かべて言った。
ウィザヤは岩山の麓にある小さな洞穴で暮らしていた。大人一人が横になれるぐらいの広さしかない洞穴に、木戸を取り付けて個室にしていたのだ。部屋の中は極めて質素で、寝具や調理道具以外の私物はほとんどなかったが、奥にある仏壇だけは特別に豪華だった。
ウィザヤは僕に瞑想のやり方を教えてくれた。目を閉じて、鼻を通る空気の流れに意識を集中し、なるべく深く長く呼吸する。
「瞑想をしているときは、何かを考えようとしてはいけません」と彼は言った。「心を無にすることが重要なのです。瞑想を続けると欲望がなくなり、悲しみや怒りや興奮が静まります。深い海の底に座っているようなものです」
僕らは宿坊に置かれたちゃぶ台に向かい合って、様々なことを話した。教師だったウィザヤが出家を決意したのは2年前のこと。「本当の豊かさとはお金で買えるものではなく、自らの心の中に見つけるものだ」と気付いた彼は、仕事を辞め、故郷を捨てて、ポッパ山の洞窟にやってきたのだ。それ以来、瞑想と修行を続ける日々を送っている。
ウィザヤの唯一の望みは涅槃に辿り着くこと。
「涅槃とは何もない世界です。体も心も欲望も、全てが無くなる世界です。そこに辿り着けるのは、本当に一握りの人間だけです。ほとんどゼロだと言ってもいいかもしれません」
「それでも、あなたは修行を続けるのですか?」
「ええ。そう決めたのです」
仏陀とは「目覚めた人」という意味だという。ゴータマ・ブッダは「修行を積み現世への執着を捨て去ることができれば、誰でも涅槃に辿り着くことができる。誰にでも仏陀になる道が開かれている」と説いた。ウィザヤが「目覚めた人」になれるのか僕にはわからない。おそらく本人にもわからないのだろう。
それでも彼は瞑想を続ける。薄暗い洞穴の中で、自分の心と向き合い続ける。強い信念を持ち、ストイックな暮らしを貫きながら。
彼は涅槃に辿り着けたのだろうか?
ウィザヤが死んだことを教えてくれたのは、ウーピンニャーという五十二歳の僧侶だった。彼はウィザヤと同じように英語が上手く、僧院におけるスポークスマンのような役割を果たしているようだった。
「ウィザヤはここではなく、パテインで死んだ。そう言いましたよね?」と僕はウーピンニャーに言った。
「そう。病気の母親を見舞うために、彼は三年ぶりに故郷に帰ったんだ。でも皮肉なことに病気の母親ではなく、彼の方が死んでしまった」
「三年前、彼は『もう二度と故郷に帰ることはないだろう』と言っていました。そうすることが自分の修行に必要なのだと。それがどうして急に心変わりしたのか、僕にはよくわからなかった。でも、ウィザヤという人間を思い出してみて、こう思ったんです。ひょっとしたら、彼には自分の命が長くないことがわかっていたんじゃないかって。だから彼は生まれ故郷に帰ったのかもしれないって」
ウーピンニャーは僕が言ったことについて、しばらく考えていた。
「真実は私にもわからない。ウィザヤはパテインに帰って間もなく肺を悪くして、高熱を出して倒れ、数日後に病院で息を引き取った——そういう手紙が届いただけだからね。しかし君の言う通りかもしれないな。彼には自分が死ぬことがわかっていたのかもしれない」
僕らはそれっきりしばらく何も話さなかった。ウーピンニャーは僧衣の中から噛み煙草「コオン」を取り出して口に入れ、何度か噛んでから、口にたまった唾を吐き出した。コオンを噛んでいるときの唾は赤い色をしている。血のように真っ赤な色だ。
「彼は涅槃に辿り着くことができたのでしょうか?」と僕は訊ねた。
「それは私にもわからない」と彼は言った。「涅槃がどういうものであるのかも、誰も知らない。しかし私が想像する涅槃の姿、というものはある」
彼は僕が膝の上に置いていた一眼レフカメラを手に取って、ファインダーを覗き込んだ。そして机の上に置かれた茶碗に焦点を合わせようと、フォーカスリングを左右に回した。
「このカメラはレンズの『絞り』によって光の量を調節する。そうだね?」
「よく知っていますね」と僕は感心して言った。
「これでも僧侶になる前は、専門的な仕事に就いていたんだ。エンジニアだったんだよ。私のウーピンニャーという名前には『知恵のある者』という意味がある。それはまぁいいとして、涅槃をカメラの構造に置き換えて説明すれば、君にもわかりやすいだろう。我々が生きている世界を、レンズの『絞り』が開いた状態だと考えることにする。『絞り』が開いていると、光がたくさん入ってくるから、シャッタースピードは速くなる。ところが涅槃に近づくと、レンズは絞り込まれていく。入ってくる光の量は少なくなり、シャッタースピードは遅くなる。レンズの『絞り』が無限にまで絞り込まれると、入ってくる光は無限に小さくなる。したがってシャッター・スピードは無限に長くなる。そのような状態が涅槃というものではないかと私は考えている」
「無限に小さな光と、無限大の時間が、涅槃というものだと?」
「そういうことだ」
わかりやすくもあったし、同時にわかりにくくもある話だった。一般的に形而上的なたとえ話にはそのような傾向がある。バケツに入った中身のわからない液体を、別のバケツに移し替えているような感じだ。
僕は涅槃について話しているときのウィザヤの澄んだ目を思い出した。それは星の光しか見えない暗闇の中で、じっと遠くを見据えているような目だった。彼は天の川の中の一粒の星、あるいはそれ以上に暗い点をはっきり見定めようと目を凝らしている。僕はそのように感じた。
無限小に絞られた光と、無限大に引き延ばされた時間。ウィザヤは本当にそんな場所に行ってしまったのだろうか。暗闇の中で、彼は目的の光を見つけることができたのだろうか。
僕がウィザヤと一緒に過ごしたのはたった一日だけだし、それ以降連絡を取り合ったわけでもなかった。それでも、彼がもうこの世には存在しないという事実は、僕に大きな喪失感をもたらした。そのダメージはボディーブローのように、あとからじわじわと効いてきた。
毎日洞穴に籠もり、自分の心と向き合いながら瞑想を続けるウィザヤの暮らしと、毎日違う町を歩き違うベッドで眠る僕の旅暮らしは、全く対極にあるものだった。それでも、何かを探し求めているという点で、僕らの間には確かに通じ合う部分があった。
ウィザヤと別れてからも、僕は何度となく彼のことを思い出した。旅を続ける途中で、嫌なことや腹の立つことがあるたびに、「海の底に座っているように」平静であろうと努力してみた。僕はウィザヤのように我慢強くはないので、その試みはあまり上手く行かなかったけれど、遠い国の洞穴の中で旅の無事を祈ってくれている彼の存在によって、僕はいつも励まされた。
それは友情と呼べるものではなかったかもしれない。でもウィザヤは僕にとってとても大切な人だった。その大切な人にもう二度と会うことができないというのは、辛く哀しかった。
パテイン川を流れる黄色い花束
ミャンマーには全部で四週間いた。まず首都のヤンゴンに空路で入国し、バスを使って北中部の町を転々としたあと、再び首都のヤンゴンに戻り、最後にパテインの町を訪れた。パテインはウィザヤの故郷であり、肺の病で亡くなった場所でもあったが、残念ながら彼の生家とお墓を訪ねることはできなかった。ポッパ山の僧侶ウーピンニャーにも、彼の実家の住所はわからなかったからだ。
パテインは居心地の良い町だった。ミャンマー第四の都市ということだったが、ヤンゴンやマンダレーのような大都会ではなく、自転車を借りて回るのにちょうど良いぐらいの大きさの町だった。郊外には豊かな田園地帯が広がっていて、田んぼと田んぼの間にはいくつもの水路が走り、そこを小さなボートが往来していた。パテインは水も土壌も豊かで、米作りにはうってつけの土地であるようだった。
パテインを離れる前日に、僕は町の中心を流れるパテイン川に行った。堤防の近くで黄色い花を買い、それを手に持って夕陽が沈んでいく様子を見守った。タマナーという名前の花なのよ、と花売りの少女が教えてくれた。
夕方のパテイン川はラッシュアワーを迎えていて、貨物船や小型の手漕ぎ船などが忙しく行き交っていた。船着き場からはフェリーの到着を知らせる汽笛の音が聞こえてきた。そんな川面の喧噪をよそに、夕陽は何かを確かめるようにゆっくりと沈んでいった。それは「こうして一日が終わるんだ」という実感がこもった夕暮れだった。夕焼けに紅く染まった空を背景にして、カラスの一団がねぐらに向かって飛んでいく。きっとウィザヤもこんな夕暮れを何度も眺めたのだろう、と僕は思った。
パテイン川は様々な生活ゴミがたくさん浮かぶ汚れた川だったが、水面に夕陽が反射してオレンジ色に輝く一瞬だけは、言葉にならないほど美しかった。
「僕はこれからも死を恐れるだろうし、数多くの煩悩を抱えたまま生きていくことになると思います」僕は心の中でウィザヤに語りかけた。「あなたが仏陀になるための道の途上にあったように、僕もまた旅の途中なのです。これからどこへ行くか、何が見つかるかは、僕自身にもわかりません。でもこのパテイン川のようなゆったりとした流れに身を委ねていれば、きっとどこかに辿り着けるだろうと信じています」
僕は夕陽が完全に沈みきったことを確かめてから、川に花束を投げ込んだ。黄色い花束は川の流れに乗り切れず、しばらく落ちた場所に留まっていたが、やがてどこかへ流れ去っていった。
「さようなら」
と僕は声に出して言った。それに答えるように、汽笛の音が風に乗って聞こえてきた。