「私にはね、イラン人の妻がいるんだよ」とイーさんは言った。「十年前に結婚したんだ。息子もいる。ほら、これが写真だよ」
彼は上着のポケットから一枚の写真を取り出して、僕に見せた。そこにはイスラムのチャドルを被った色の白い女性と、彼女に似た男の子が写っていた。それでも僕は、彼の言っていることを半分は疑っていた。イーさんはどちらかと言えばお調子者タイプで、しかもかなり酒に酔っていたからだ。だいたい、南ラオスの小さな町に住む男とイラン人女性とが、どこでどう結びついたのだろうか?
「彼女は美術の勉強をするために、ビエンチャンにやってきたんだ」とイーさんは説明した。「映画みたいな運命的な出会いだったよ。僕らはすぐに恋に落ちた。言葉の壁? そんなものは関係ないさ。彼女は頭がいいから、英語はかなり上手だったけど、私は今も昔もあまり上手くはなかった。でも、一番大切なのはハートだ。そうだろう?」
二人はすぐに結婚し、子供も生まれたのだけど、彼女は仕事の都合でイランに帰ることになった。イランの大学で美術を教えているのだという。
「会えるのは、だいたい一年に一度。私がイランに行ったら、次は彼女がラオスにやってくる。息子は会うたびに大きくなっていく。それを見るのが一番の楽しみなんだ」
「でも、イランは遠い国ですね」と僕は言った。
「ああ、すごく遠いよ」
そう言ったきり、彼はしばらく何も言わなかった。
メコン川沿いの町パークサン
イーさんと出会ったのは、ビエンチャンから北東に150kmほど行ったパークサンという町だった。メコン川沿いに開けたパークサンは、明るくのんびりとした雰囲気の町だった。同じラオスでも北部の山岳地帯と南部とでは気候も違うし、人々の暮らしぶりも違う。北部の人々の生活は、余分なものを持たないつつましいものだが、メコン川の恵みを受けた南部の暮らしは、カンボジアやベトナムと同じようにゆったりとしていて、人々の表情にも余裕がある。子供達は幼い弟や妹を抱く代わりに、自転車に乗って学校に通い、若者は昼下がりにビリヤードを楽しんでいる。
しかし、根っからの宴会好きというのは、南部ラオス人にも北部ラオス人にも共通しているらしく、ここでも町の中を歩いていると「おい、そこの外国人の兄ちゃん、俺んちの宴会に寄っていかないか?」と声を掛けられて、またまたお邪魔することになったのだった。宴会を開いている家の主であるマハボンさんは土木関係の業者で、日本の援助団体とも繋がりがあるのだという。
「君はJICAの関係者か?」と聞かれたので、「ノー」と答えると、マハボンさんは少し残念そうな顔をした。仕事で来た人間が、Tシャツと短パンにサンダル履きというラフすぎる格好で町をうろうろしているはずはないと思うのだけど。
「もし君がJICAのスタッフだったら、仕事をお願いしようかと思ってね」
冗談とも本気とも取れるような表情で、マハボンさんは言った。
「今、ラオスの景気はあまり良くないんだよ。もっとも良かった時期なんて、今までにあったのかどうか・・・」
ラオス経済が停滞していることは、旅行者の視点からでも十分にわかった。インフレは今でも進行中だし、人々の現金収入が少ないわりに物価は高かった。人口が500万人と少なく、自前の製造業というものがないに等しいから、ほとんどの工業製品を中国やタイからの輸入に頼らざるを得ないのだ。もちろん、大型の土木事業をラオス政府が行える余裕はないので、外国(特に日本)からの援助頼みとなっている。
その援助事業の象徴とも言えるのが「ナムグム・ダム」である。このプロジェクトの巨大さは、ダムが作り出した人口湖が琵琶湖の半分の大きさにもなるという事からも窺える。このダムで生み出される電力の大半は隣国タイに売られているが、その一方で、自国の北部の町に送電されるのは、一日のうちのわずかしか数時間でしかないという矛盾した状況も生まれている。この国は、それほど切実に外貨を必要としているのだ。
「この町にも三人の日本人が住んでいたんだよ」とマハボンさんは言った。三人のうちの二人は看護婦としてやってきた女性で、一人はODA関係でやってきた技術者だという。僕を含めた多くの日本人にとって、ラオスという国は実際の距離以上に遠い存在だけど、ラオス人は援助を通じて日本人に意外なほど親近感を持っているようだった。
イラン人の妻を持つイーさんも、その宴会に呼ばれた客の一人だった。彼は井戸やお墓を作っている小さなコンクリート会社の社長だった。井戸とお墓――かなり奇妙な取り合わせである。
「人は水を飲まないと生きていけない。そして人は必ず死ぬ。死んだら、みんな墓に入るだろう?」
とイーさんは妙に説得力のある口調で言う。確かに、どちらもまず需要のなくならないモノである。
「父親の会社を継いだんだけどね、まぁお金はあるんだよ」
こんなことをさらっと言ってのけるラオス人に会ったのは、もちろん初めてだった。
宴会の後、ほろ酔い気分のイーさんが「いいところに連れて行ってやるよ」と言って向かったのはディスコだった。潰れた映画館や閑古鳥の鳴くボウリング場といった他の娯楽施設とは違って、ディスコは大盛況だった。もともと歌って踊るのが大好きなラオス人の国民性に、ぴったりはまっているのだろう。
店内は予想以上に広かった。テーブル席が20ほどあり、奥にはダンスフロアとバンドステージがあった。ステージ上には4人編成の生バンドがいて、ディスコ風にアレンジされたラオスポップスや演歌調のナンバーを演奏していた。決してヒップとは言えないけれど、ノリはよかった。フラッシュライトが曲に合わせて点滅し、天井にはミラーボールが回っている。30年ぐらい前の日本のディスコも、たぶんこんな様子だったのだろう。
客は全部で100人近くいて、年齢層は幅広かった。もちろん若い男女が多いのだが、イーさんのような中年男性の姿も目立った。そして中年男性の多くは、若くてケバい女性を伴っていた。
「この町で一番楽しい場所だね」
イーさんはビールを飲みながら上機嫌で言った。歯で栓を開けていた北ラオスとは違って、ここではちゃんと栓抜きを使う。なんだ、ラオスにもちゃんと栓抜きがあるんじゃないか。
イーサンはどこかから二人の女の子を連れてきて、一人を自分の隣に、もう一人を僕の隣の席に座らせた。女の子の年齢は僕と同じぐらいに見えたが、やたらに化粧が濃く、きつい香水の匂いを漂わせていた。今まで目にしたラオス女性とは、明らかに違うタイプの女の子である。どうやらこのディスコは、単に踊るだけではなく、男性客に女の子があてがわれるというキャバレーのようなシステムも取り入れているらしい。
「もし彼女のことを気に入ったんなら、一緒に寝ることもできるんだ」
イーさんはニヤニヤしながら言った。このディスコは売春斡旋の場にもなっているらしい。ディスコの中で気に入った女の子と話をまとめてから、連れ込み宿に行ってコトを行う。その連れ込み宿というのが、実は僕が泊まっている安宿なのだという。チェックインしたときから、暇そうな女性従業員がロビーにたむろしている怪しい宿だとは思っていたが、そういう仕組みになっていることは、イーサンに教えてもらうまで知らなかった。
そんな、裏の顔を持つディスコではあっても、歌って踊ってみんなで楽しむという点では、キャンプファイアーのフォークダンスみたいに健康的だった。客が踊っているのも伝統舞踊の延長みたいな盆踊り風のものだったし、チークタイムでも(そういうのもちゃんとあるのだ)男女があからさまに抱き合うというようなことはなかった。
連れ込み宿に泊まる
「今晩は、このダーリンと泊まるんだ」
イーさんはそう言って、隣に座っていた女の腕を取って意気揚々とディスコを出た。彼は気持ち良く酔っ払っていて、鼻歌を歌っていた。「ダーリン」と呼んだ女性とは、長い付き合いなのだという。
「いつもここに泊まっているんですか?」と僕は訊いた。
「いつもじゃないさ。まぁ週に3、4回かな」
「タフなんですね」
半分嫌味のつもりで言った。なにしろ40近いおっさんである。
「タフなのは、あの草をたくさん食べているからさ」
と言って、イーさんは思わせぶりに笑う。
彼の言う「あの草」とは、宴会の席で僕も勧められた薬草のことである。「これは何ですか?」と僕が訊ねると、周りの男達はニヤニヤしながら自分の股間を指差し、「ナニがアレすんだよな」みたいな手振りをした。要するに、これを食べれば精力が増進する「ラオス版バイアグラ」とでも言うべき薬草だというのだ。
ラオスの男にとっても「ナニがアレする」のは最大の関心事なのである。ちなみに、その草の味はかなり苦く、一枚だけ口に入れたあとは遠慮させてもらった。とてもイーさん達のように、ばかばかと食べられるものではない。というわけで、精力増進の効果の程はよくわからなかった。
「君も若いんだから、気に入った子がいたら声を掛ければいい。ほら、あそこに座っている子は、みんな暇にしているんだ」
イーさんはロビーのソファに座っている女たちを指差した。僕が見ると、彼女達ははしゃいだ笑い声を上げた。
「一人で寝ますよ」と僕は言った。
宴会でもディスコでも飲み続けていたし、最後はイーさんの演奏するギターに合わせて踊ってくたくたに疲れていたので、とてもそんなことをする気にはなれなかった。イーさんはもったいないなという風に首を振ると、僕の部屋よりも1ランク高い部屋に「ダーリン」と共に消えて行った。
コツコツとドアをノックする音が聞こえたのは、午前0時を回った頃だった。ドアを開けると、さっきまでディスコで一緒だった女の子が立っていた。
彼女はまったく英語が話せないのだが、なぜ僕の部屋をノックしたのかは、その表情からわかった。イーさんは女の子と部屋に消えた。自分はどうなんだ、というわけだ。
「そういう気にはなれないんだ。帰ってくれ」
僕は身振りで彼女に説明し、部屋の中に入ろうとする彼女を押し出してドアを閉めた。それでも、しばらくするとまたドアがノックされた。ドアを開け、断り、またノックされる――そんなやり取りが何度繰り返されたのかよく覚えていないのだが、最後にはもうどうでもよくなってきて、次にドアがノックされたら、彼女を部屋に入れてあげようと思った。
でも幸いなことに――残念なことにと言うべきかもしれないが――それを最後に、朝までドアがノックされることはなかった。
次の朝7時半にノックしたのは、イーさんだった。ラオス人はどんなことがあっても早起きなのだ。
「昨日は楽しめたかい?」と彼は陽気に言った。僕が眠い頭をぽりぽりと掻きながら「イーさんはどうでした?」と聞くと、彼は指を二本立てて笑った。
それが二時間を意味するのか、二回を意味するのか、あるいはピースサインなのかは、改めて聞く気にはなれなかった。どちらでも一緒だ。
「奥さんは知っているんですか?」と僕は聞いた。
昨日の話を聞いただけなのに、奥さんに対して同情的になっている自分も、変だとは思ったが。
「だいたいは知っていると思うよ。もちろん、私は彼女と息子を一番愛している。でも、それとこれとは別なんだ」
世の中には様々な家族の形があるし、愛情の形があるのだろう。だけど、こういうときの男の台詞というのは、何故かどこでも同じように聞こえるものだ。
「もし、私がムスリムだったら、絶対に許されないだろうけどね」
イーさんは目じりに皺を寄せて笑った。
「そうでしょうね」と僕は頷いた。