中国西部の辺境地帯をバスで移動する旅を続けていた僕は、夏河、合作、郎木寺、若繭蓋を経て、四川省の省都である成都にたどり着いた。若繭蓋から成都へ行く道はひどい悪路だった。バスが草原の真ん中で立ち往生してしまったので、乗客が後ろから押さなければいけないところもあった。
中国では宿探しにそれほど苦労しなかった。どんな町にも必ず中心部に安宿街があったし、部屋の汚さや便所の臭さを気にしなければ、かなり安い値段で泊まることができたからだ。
四川省の省都である成都でも、まず安宿街を探した。バスターミナルのそばを通る大通り沿いに、ホテルを示す「○○賓館」「○○飯店」という看板がいくつも並んでいたので、この中から決めるつもりだった。成都にたどり着くまで14時間もバスに揺られ続けて疲れ切っていたので、宿探しに時間をかけたくなかったのだ。
最初に入ったホテルのフロントには値段表があり、「三級単人間」(シングルルームのことだ)が40元(600円)だと書いてあった。田舎町の安宿レベルではないが、悪くない値段だった。しかし僕が中国語を話せない外国人だとわかると、フロント係の男は困った顔になって、メモ用紙に何かを書き始めた。
「この宿には外国人は泊まれない」
という内容(もちろん中国語だった)が、その紙には書かれていた。中国では外国人が泊まれる宿というのは予め決められていて(それは中級以上のホテルである場合が多い)、それ以外のホテルでは外国人お断りなのだ。安宿で外国人がトラブルに巻き込まれることを恐れているのかもしれないし、あるいは旅行者から少しでも外貨を巻き上げようしているのかもしれない。田舎町の安宿なんかだと、そんな規則は無視して泊めてくれるところも多いのだが、成都のような大都会ではそういう融通は利きにくいようだ。
次の宿でも、その次の宿でも「外国人は駄目だ」と言われた。ようやく4軒目で外国人OKのところが見つかったのだが、空いている部屋がなかった。5軒目のホテルは外国人も泊まれるし部屋も空いているのだが、一番安いシングルルームが400元(6000円)もするというので、すごすごと退散した。いくらなんでも、いつもの安宿の10倍以上もの大金は払えなかった。
それから大通り沿いの宿を全て当たってみたのだが、外国人NGか、満室か、値段が高すぎるかのいずれかだった。夜はどんどん更けていくのに宿がいっこうに見つからないことに、僕は苛立ち始めた。背中に背負った重い荷物が疲労を倍増させ、足取りをさらに重たくさせた。このまま野宿する羽目にでもなったらどうしよう。そんなことをぼんやりと考えたりもした。
疲れた体を引きずるようにして、僕は細い路地を曲がった。もちろん、そこに宿があるという確信があったわけではない。ただ何となくふらっと入ってみたのである。いかにも古い下町といった猥雑な通りだった。道の両脇にはチベット料理店や民芸品を売る店などが軒を連ね、威勢のいいおかみさんが大声で呼び込みをしていた。
屋台も充実していた。肉まんを入れたセイロからはいい匂いと共に白い蒸気が上がっていたし、焼き芋の甘い匂いや、香草の爽やかな匂いも漂ってきた。様々な匂いが絡み合い渾然一体となって嗅覚を刺激し、それがこの長い旅の最初の訪問地であった香港の街並みを思い出させた。
僕は食べ物の匂いに誘われるように、小さな食堂に入った。考えてみれば、朝からまともな食事を取っていなかったのだ。僕がテーブルに着くと、すぐに元気の良さそうな女の子が店の奥から現れて、早口の中国語で話し掛けてきた。いつものことだった。中国では僕のことを外国人だと見なす人はほぼ皆無だったのだ。
「俺はリーベンレン(日本人)なんだよ」
僕は自分の顔を指さして言った。そうすると彼女は「なんだ、そうなの」という顔をして、片言の英語に切り替えてくれた。僕はメニューの中から茄子の味噌炒めとご飯を頼んだ。それで7元(105円)だった。何はともあれ中国の食堂の安さと美味さには大満足である。その辺の汚い屋台でも、小綺麗なレストランでも、安くて美味いのは同じである。それに漢字のメニューさえあれば、だいたいどんな料理かがわかるので、いろんな味を試せるのも嬉しかった。中国では、他の国の食堂のように、いちいち厨房に行って、「これとこれを頼むよ」と言う必要がないのだ。
食堂で働いている女の子は全部で三人。みんな二十歳前後と若く、いかにも働き者といった血色のいい娘達だった。僕は彼女達と片言の英語と筆談を使って、他愛もないお喋りを楽しんだ。こんなディープな下町にひょっこり外国人旅行者がやってくることも珍しいのだろう。彼女達は若い好奇心を隠そうともせずに、わいわい言いながら僕を取り囲んだ。
「あなた、どこに泊まっているの?」と一人の女の子が聞いた。
「まだ決まっていないんだよ。この辺に安い宿はないかな?」
僕がそう言うと、女の子達は、
「すぐそこにあるわよ」
と食堂のすぐ向かいの路地を指さした。確かにそこには「旅館」とだけ書かれた薄汚れた看板があった。中国人の中でも貧しい庶民しか利用しないような、かなり簡素な宿のようだった。
「日本人でも泊まれるだろうか?」
「心配ないわよ。私たちがおかみさんに話してあげるから」
そう言うと、女の子達はすぐに旅館のおかみさんを呼んできて、事情を説明してくれた。おかみさんは40がらみのくたびれた感じの人だった。最初は突然の外国人の宿泊希望に戸惑っている様子だったが、女の子達が口々に説明すると、わかったよ、と頷いた。
値段は一泊12元(180円)。これは中国の宿の中でも最安値に近かった。もちろんシングルルームではなく、3つのベッドが並ぶ相部屋である。裸電球が部屋の真ん中にひとつぶら下がっているだけで、シャワーもトイレもない。用を足したければ、200mほど離れた街中の公衆便所に行かなければならない。はっきり言ってひどい部屋だ。
それでも僕は泊まることにした。このまま歩き回っていたら、いつまで経っても宿が見つからないかもしれない。それよりはトイレのない三人部屋でも泊まれるだけマシだと思ったのだ。
「謝々。助かったよ」
僕がお礼を言うと、三人の女の子も嬉しそうに笑った。そして最後に僕のメモ用紙にこんな言葉を書いてくれた。
「祝旅游的成功。拜拜」(旅行の成功を祈っています。バイバイ)
映画にしては不鮮明な映像
成都に到着した翌朝、すぐに荷物をまとめて宿探しをすることにした。3人部屋の激安宿も悪くはなかったのだが、共同でもいいからせめてシャワーとトイレぐらいあるところに泊まって、溜まった疲れを取りたかったのだ。
前日の夜に探したときとは違って、適当な宿はすぐに見つかった。次々とお客がチェックアウトする午前中であれば、条件の良い宿でも部屋が空いていたのである。
僕は新しい宿のフロントで一泊分の部屋代を払い終え、ロビーにある古びたソファに腰を下ろして、つけっぱなしになっていたテレビの画面を何の気無しに眺めた。テレビ画面には高層ビルに飛行機が突っ込んで大破するというシーンが繰り返し流されていた。映画にしては不鮮明な映像だった。ハリウッドの特撮映画なら、もっと迫力のあるシーンが作れるだろうに。いったいこれは何なんだろう、と不思議に思った。
それが4日前の9月11日に起こった「本物」のニュースであり、その現場がニューヨークにある世界貿易センタービルだとわかったのは、そのすぐ後のことだった。テレビニュースの音量を大きくすると、「タリバン」「アルカイダ」という単語が繰り返されていることがわかった。それはこのテロがイスラム過激派によって行われたことを示唆していた。
それが現実に起こったテロ事件だとわかった後も、僕にはそれを事実として受け入れることがなかなかできなかった。遠くの山で起こっている雪崩をただ呆然と眺めているような、そんな気持ちだった。それは僕が日本からもアメリカからもアフガニスタンからも遠く離れた、中国の山奥を旅していたせいでもあっただろう。そして事件が起こってから4日も後になって初めてそのニュースを知ったという、タイムラグのせいもあっただろう。
僕は現実感を欠いたニュース映像をしばらく呆然と眺めていた。そして自分がこの事件に対してあまり驚いていないということに逆に驚いた。僕は心のどこかで「これは起こるべくして起こったのだ」と考えていた。そういう予兆のようなものを、旅の間に感じ続けていたのだ。
ロビーの古いソファーに深くもたれながら、僕はこの旅で出会った何人ものムスリムの顔を思い出した。まずパキスタンのペシャワールで出会った、タリバンの一員だという武器商人の男の鋭い眼光を思い出した。そしてバーミヤンの石仏が爆破されたことを喜んでいた、パキスタン人の若者の顔を思い出した。イランの大学生は、自分達がアメリカ文化を拒絶する理由を「文化的植民地化を阻止するためだ」だと説明した。そしてヨルダンで出会ったパレスチナ人青年は「戦争はいつ終わるんだろう?」と僕に問いかけた。
確かにイスラム諸国の間で、反米のエネルギーが高まっていることは感じていた。テロに結びつく種は既に蒔かれていたのだ。でも、それがどうしてこのような悲惨なかたちで噴出しなければならないのか、僕には全く理解できなかった。
テレビ画面には、相変わらずビルに突っ込む飛行機の姿が繰り返し流されていた。
成都動物園のパンダは自由すぎる
僕がパンダを初めて見たのは、小学校に入学する年の春休みのことだった。その当時、日中友好の親善大使としての役割を担った2匹のジャイアントパンダが上野動物園にやってきたばかりで、日本中がパンダブームに沸いていた。
春休みの上野動物園は凄まじい人出だった。ただでさえ人が多い春休みに、パンダブームが重なったのである。それは僕のそれまでの人生(といってもたかだか6年なのだけど)の中で目にした最大級の人混みだった。パンダよりもまず人の多さに圧倒されてしまった。
パンダの檻の前には当然のごとく長蛇の列ができていて、僕らはかなりの時間待たされることになった。しかし、ようやく目にすることができたパンダは、何だかさえなかった。ガラスの向こうのパンダは笹を握り締めたまま古タイヤに身を寄せて、微動だにしなかった。残業に追われてくたくたになった状態で終電に乗った中年サラリーマンといった風情だった。
僕はパンダのあまりにもやる気のない姿にがっかりして、動物園をあとにした。あんなのは本物のパンダじゃない、と6歳の僕は思った。でも今になって振り返ってみれば、繊細な動物であるパンダがあれだけ大勢の人間に囲まれて、一日中歓声やらフラッシュを浴びせられ続けていれば、自閉症気味になってしまったとしても無理もないのではないかと思う。カンカンやランランは、何も好き好んで東京に来たわけではないだろうから。
上野動物園でやる気のないパンダを目にして以来、本物のパンダを見る機会は一度もなかったのだけど、成都動物園でようやくパンダとの再会を果たすことができた。四川省はパンダの故郷であり、その州都である成都の動物園にも当然のことながらパンダがいたのである。
動物園は平日ということもあってガラガラだった。子供連れの若い夫婦や、田舎から出てきたお年寄りグループ、それに明らかにおのぼりさん状態のチベット人の一家などがいるだけだった。客より動物の数の方がずっと多かった。
入場料は大人8元(120円)で、子供は無料である。面白いのは無料になる条件で、看板には「身長110cm以下は無料」と書いてある。年齢に関係なく、とにかく小さければ無料というのは潔くていいと思う。
中国ではジャイアントパンダのことを「大熊猫」と表記する(レッサーパンダは「小熊猫」である)のだが、「大熊猫」という漢字だけを見ると、かなり不気味な動物を連想してしまいそうだ。僕は日本におけるパンダ人気の要因のひとつが、「パンダ」という語感のファンシーさにあるのではないかと思っている。これがもし「大熊猫」として日本に紹介されていたら、状況は違っていたのではないか。
成都動物園の「熊猫館」は入り口の一番近くにあり、一応この動物園のメインアトラクションであるのだが、客の数は予想外に少なかった。パンダ檻はいくつもの遊具を備えた大きなものだったが、それを囲んでいるのはわずか3,4組の家族だけだったし、足を止めて熱心に見ている人もいなかった。きっと中国人(特に成都の人)はパンダなんて見慣れているのだろう。
しかし、終始ぐったりとしていた上野のパンダとは対照的に、成都のパンダはやたらとアクティブだった。3頭いるパンダの中でも、若い2頭はとても仲が良く、じゃれあったり、噛み付いたり、相手のお腹の上に乗ってみたりと、とにかくユーモラスに動き回っていた。実は背中にジッパーがついていて、中に人間が入っているんじゃないかと本気で疑ってしまうほど、人間的で愛嬌のある動きだった。パンダはおとなしい動物であるという僕の認識は、どうやら根本から修正しなくちゃならないみたいだった。
僕は檻の前のベンチに座り込んで、長い間パンダたちの姿に見とれていた。愛くるしいパンダの動きは、いくら見続けても飽きなかった。しかしそんな風にパンダに魅了されている客は、僕以外にはいなかった。むしろ大型の熊や猿の檻の方がパンダより人気があるぐらいだった。これぐらい注目度の低いパンダは世界でも珍しいのではないかと思った。
偽札は「ババ抜き」のババ
成都の空はいつも鉛色をしていた。ただ分厚い雲が空を覆っているだけではなく、空気そのものが汚れていて、少し遠くにあるビルディングも不透明に霞んで見えた。中国の大都市ではどこも大気汚染が問題となっているのだが、周囲を山に囲まれている成都の場合は、汚染された空気が風に流され難いために汚染が深刻化しているという。
成都は人口960万を抱える大都会であるにもかかわらず、地下鉄や路面電車といったクリーンな交通機関は存在せず、市民の足は自転車かバスに限られている。しかもこの10年あまりの間に、急激に自動車の数が増えたために、排気ガスが街を覆い、道路の慢性的な渋滞を引き起こしていた。
近代化に伴う都市環境の悪化はどこの国にも共通してみられる現象だったが、人口規模が桁違いに大きい中国の都市では、それが顕著に表れているのだった。
経済発展を続ける中国で新たに問題となっているのが、大量に出回っている偽札である。実際、僕が買い物の支払いに100元(中国で発行されている最高額紙幣)を使おうとすると、時間をかけて入念にチェックされることが多かった。中には偽札判別機のようなものを使って確認する店まであった。
成都のバスターミナルでバスを待っているときに、2枚の100元札を念入りに見比べている乗客がいたので、「何をしているんだ?」と訊ねてみると、「持っている札が偽物か本物かを確かめているんだ」という答えが返ってきた。
果物の行商をしているという中年の男が筆談で教えてくれたところによると、今朝の売り上げ金の中に混じっていた100元札の中の1枚がどうも偽物のようだという。100元の偽札は中国国内にかなりの数出回っていて、その作りもかなり巧妙らしい。行商人の偽札を調べていたバスの運転手によれば、偽札の特徴は次の三点であるという。
1)透かしの部分に描かれた毛沢東の顔が不鮮明
2)毛沢東の肩のあたりを指で触ったときの感触が違う(本物の方はザラザラで偽物はつるつるである)
3)本物のお札を斜めから見ると「100元」と印刷された部分の色が変わるのだが、偽物は変わらない
結局、行商人が持っていた100元はその三つの特徴をいずれも満たしていたために、偽物だとわかった。100元というのは中国ではかなりの大金である。日本での1万円ぐらいの価値があると考えればいいだろう。それが偽札だということがわかって、行商人の男はさぞかしショックを受けているのだろう思ったのだが、彼の表情はいたって普通だった。
「その札をどうするんだい?」
と僕が訊ねると、男は「誰にも言うなよ」と口元に人差し指をあてて、その偽札を自分の財布の中にしまった。たとえ偽札だとわかっていても、そのままどこかで使ってしまえばいい、ということのようだった。
中国において、偽札というのは「ババ抜き」のババみたいなものなのである。引いてしまった奴が悪い。だからこそ、商店主は偽札を掴まされないように念入りにチェックしているわけだ。そして運悪くババを掴まされてしまった者は、素知らぬ顔をして次なる犠牲者にそっと渡すのである。
平凡で退屈な大都会
成都は僕にとって久しぶりの大都会だった。街の中心地には百貨店やオフィスビルが建ち並び、大通りは人で溢れていた。百貨店には外国製の化粧品やブランドものの洋服などが、日本と変わらない様子で並んでいた。
ショッピング街は平日の昼間にもかかわらず、多くの客で賑わっていた。中でも一番人気なのは家電売り場で、大型平面テレビとDVDプレーヤーのコーナーには人だかりができていた。中国人の平均収入から見れば決して安くはないこれらの商品の売れ行きからも、この国の消費ブームが本物であることが窺えた。
ショッピング街の地下にあるCDショップには日本人歌手のコーナーが設けられていた。宇多田光、安室奈美恵、倉木舞、浜崎歩(もちろん名前は全て漢字表記だ)など、日本のポップシンガー達は中国でも人気があるようだった。ビデオCDショップでも日本の作品が目立った。ドラゴンボール、スラムダンク、美少女戦士セーラームーン、新世紀エヴァンゲリオンなどのタイトルがずらりと並んでいた。
夜の町をぶらぶらと歩いているときに見つけたのは「成人用品」という看板だった。その店の中を覗いてみると、予想通り「大人の夜の営みのための各種グッズ」がずらりと並んでいた。もっとも、中国ではポルノの規制は厳しく行われているようで、本や雑誌も際どいものは全くと言っていいほど見かけなかった。しかし、今後欧米や日本からの情報が流れ込むに連れて、性についてもオープンになっていくことは間違いないだろう。
「防脱生髪」という看板を掲げた店もあった。直訳すれば「抜け毛を防ぐ店」ということになるのだろうか。店内には肘掛け椅子が三つほど並び、その正面に大きな鏡が置かれている。雰囲気としては理髪店と同じなのだが、従業員がお客の頭髪をクシのようなもので「叩いている」という点が大きく違っていた。どうやらここはハゲが気になる男性の毛髪を「つけて叩いて何百回」の要領で再び生やそうというお店のようだった。
これと同じようなサービスは、おそらく日本でも行われていると思う(アデランスとかアートネーチャーとかそういうところで)。しかしもし日本でやるとしたら、このように繁華街のど真ん中の、しかも通行人から丸見えのガラス張りの店の中ではやらないだろう。薄毛は成人男性にとって極めてナイーブな問題なのである。
しかし中国の薄毛男性はあまり人目を気にしないのか、僕のような外野の視線など全く意に介していない様子で、とても気持ち良さそうに頭を叩かれていた。僕の見る限り、彼の毛髪は「もはや手遅れ」というレベルではあったが。
成都の街を歩いていて一番驚いたのは、道行く女性が都会的でとても綺麗だったことだ。ファッションも髪型も化粧法も、僕が今まで通り抜けてきた田舎町とは比較にならないぐらい洗練されていた。若い女性の格好だけを見れば、ここが日本なのか中国なのかわからないぐらいだった。
しかし成都の街全体から受ける印象は、凡庸で退屈なものだった。僕はこの街を丸二日ほど歩き回ったのだが、いくつかの面白い商店を除けば、好奇心を刺激するようなものに出会うことはほとんどなかった。
確かにモノは豊富にある。女の子は小綺麗で洗練されている。しかしそれだけだった。とりわけ美しいものも、とりわけ醜いものもない。おしなべて平坦なのだ。どこまで行っても「成都にしかないもの」というのがなかなか見えてこなかった。
まるで空を不機嫌に覆っているスモッグのように、成都の街はぼんやりとしていて捉えどころがなかった。都市化が進んでいくと、見えてくる風景はどこも似たようなものになっていく。日本でも中国でもそれは同じことなのかもしれない。