マザーリシャリフに向かう
バーミヤンから再びバスに乗ってカブールに戻り、そこからマザーリシャリフへ向かった。バーミヤンとマザーリシャリフとの間は、道路が整備されていないためにバスの定期便がなく、一度カブールに戻る迂回ルートを取らざるを得なかったのだ。
カブールからマザーリシャリフまでの所要時間は、およそ十時間ということだった。出発は午前四時半。七人乗りのトヨタ・ハイエースで四〇〇アフガニ(八〇〇円)だった。滑り出しはとても順調で、このペースで行けばお昼頃にはマザーリシャリフへ着くのではないかと思えたのだが、そんな希望的観測は出発から二時間で空しく消えてしまった。本格的な山越えにかかる手前で、道路がゲートによって封鎖されていたのである。最初は検問か何かだと思ったのだが、どうやらそういう一時的な封鎖ではないようだった。
僕が乗っていたハイエースには英語を話す人が一人もいなかったので、車を降りて情報収集をすることにした。ゲート周辺には僕らより早くカブールを出発した車が二十台以上列を作っていた。その中に片言の英語が話せる人が何人かいた。彼らの話を総合してわかったのは、この先で土砂崩れが起こったので、その復旧作業が終わるまでゲートは開かない、ということだった。
「ゲートが開くのは夕方の五時ぐらいだね」と運転手の一人が言った。
「ってことは、ここで十時間も待つんですか?」
「ああ、そういうことになるね」
運転手は腕時計を見ながら苦笑いを浮かべた。
「あんた、急ぎかい?」
「いいえ、特に急いではいませんけど」
「なら待つことだよ。それ以外に方法はない」
彼によれば、このような事故はかなりの頻度で起こっているということだった。元々崩れやすい急な山道に、かなり無理をして道路を作ったのだろう。
しかし、十時間も待たされるという異常事態にもかかわらず、文句を言ったり苛々したりする人が一人もいないのは驚きだった。アフガン男性は血の気の多い、喧嘩っ早い性格の人が多いのだが、このときばかりは「自然が相手なのだから仕方がない」とみんな諦め顔だった。
足止めを食った人々は、ゲート近くの草原に集まって、仲間内や家族でお茶を飲んだり世間話をしたりして時間を潰していた。敷物を敷いて横になり、ぐうぐうと昼寝をする人もいた。さながら日曜の午後のピクニックみたいな光景だった。気長に待つと決めたからにはのんびりと楽しみましょう、というおおらかな雰囲気は、なかなか気持ちのいいものだった。
ピクニック気分を分かち合える人達はいいけれど、話し相手もいない僕にとって、十時間はあまりにも長いアイドルタイムだった。というわけで、この界隈を歩いてみることにした。
アフガニスタンのようなインフラの整わない貧しい国の旅では、このようなトラブルは付き物であり、物事はまず予定通りには進まない。そんなときに大切なのは、起こってしまったトラブルを最大限楽しもうとする姿勢だ。土砂崩れによって十時間も足止めを食ってしまったことだって、この名前も知らない村を歩き回るチャンスを与えてもらったのだ、と前向きに捉えることだってできる。そして実際、僕はそのように考えていたのだった。
青空学校
坂道をしばらく下っていくと小学校があった。学校といっても、何もない原っぱにテントが張ってあるだけである。おそらく校舎が不足しているのだろう。子供達は狭いテントの下に机をぎっしりと並べて、窮屈そうに授業を受けていた。しかもテント三つだけでは生徒全員を収容することができないので、半数ぐらいの子供は野外で授業を聞いていた。正真正銘の青空教室である。
「青空教室」なんて言うと「サウンド・オブ・ミュージック」のワンシーンのように清々しく聞こえるけれど、現実はなかなか大変そうだった。ここは標高が高く日差しがとても強い土地なので、子供達の顔は日に焼けて真っ赤になっていた。強い風が吹けば教科書 やノートが飛ばされてしまうし、雨が降ったら授業どころではなくなってしまう。
「テントや机などの備品はユニセフからの援助によるものなんです」と中年の教師が教えてくれた。「しかし、テントの数は十分ではありません。教科書もノートも二人にひとつしか与えられないのです」
そのような厳しい環境の中でも、子供達はとても熱心に勉強していた。特にタリバン政権下では教育を受けることすら許されていなかった女の子達が、真剣な眼差しを黒板に向けている姿は、心を打つものがあった。