メリチェとの再会
公園は予想以上の賑わいだった。遠足に来ている小学生の団体はもちろん、若者のグループや家族連れ、それに中年のおじさんだけのグループなどが集まって、初夏のピクニックを楽しんでいた。それぞれがバーベキューセットを持ち込んで、羊肉のケバブを焼いているので、公園全体に肉の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。ムスリムだけにお酒はないものの、賑やかな雰囲気は日本のお花見を思わせるものだった。
警官のおっちゃんが率先して探してくれたおかげで、メリチェのクラスはすぐに見つかった(何しろ聞き込みに関してはプロなのだ)。引率の教師は、警官と少年二人から事情を聞くと、すぐに友達と遊んでいるメリチェを呼んできてくれた。
「君たちのおかげで、やっとメリチェに再会できるよ」
僕は少年二人と握手を交わした。路地裏で彼らと偶然に出会わなければ、おそらくここまで辿り着くことはできなかっただろう。まさに「結果オーライ」の典型みたいな展開だった。
メリチェは周りの友達に冷やかされながらやってきた。髪の毛をふたつに結び、青いパーカーを着ていた。
「君がメリチェなんだね? この写真のことは覚えている?」
僕は彼女に三年前の写真を見せた。彼女は何度か頷き、何度か首を振った。どうやら彼女は写真を撮られたことは覚えていないのだが、ここに写っているワンピースは自分のものに間違いない、と言っているらしい。これで本当にメリチェが写真の少女だということがはっきりした。
しかし、メリチェを前にした僕が感じていたのは、彼女を見つけた喜びよりも、戸惑いの方だった。目の前に現れたメリチェは、三年前の写真とはがらりと雰囲気が変わっていたのである。
三年前の写真の少女は、小さいながらもそこはかとない色気のようなものを持ち合わせていた。「少女」と「女」との境目で綱渡りをしているような、不思議な魅力を持っていた。しかし、目の前のメリチェからは、そのような色気は全く感じられなかった。写真を撮った頃よりも、むしろ幼く見えるほどだった。
写真はときとして嘘をつく。一瞬の表情を切り取って固定させるのが写真というものの本質である以上、それが一人の少女の実像——連続した時間の中での実体——とはかけ離れている場合もある。僕自身、そのことは身に染みて理解していたつもりだったが、メリチェの場合はそのギャップがあまりにも大きかったのだった。
とにかく元気なトルコの子供
「ホワッチュア・ネーム?」
メリチェのクラスメートが、興奮気味に訊ねてきた。好奇心旺盛なトルコの子供達が三十人以上も集まっているところに、見知らぬ外国人がひょっこり訪ねてきたわけだから、黙っていられるはずがないのである。
僕はメリチェのことを考えるのを後回しにして、ひとまず子供達の相手をすることにした。
「マイネーム・イズ・マサ」
僕がそう答えると、子供達は「オー、マサ! マサ!」と嬉しそうに繰り返した。「マサシ」という名前はトルコ人には発音しにくいらしいので、いつも「マサ」と短く名乗ることにしていた。トルコ語で「マサ」というのは「机」を意味しているので、すぐに覚えてくれるのも良かった。
「ホワッチュア・ネーム?」
すかさず別の誰かが質問する。さっき答えたばかりじゃないか、と思っても無駄である。
「マイネーム・イズ・マサ」
と僕は答える。すると、また別の誰かが「ホワッチュア・ネーム?」と叫ぶ。これを延々と五十回ぐらい繰り返すのである。いやはや、トルコの子供というのは本当にしつこいのだ。しつこさでは定評のある(?)バングラデシュの子供達だって、トルコ人に比べたらまだ慎み深いと思う。
この「ホワッチュア・ネーム?」の無限ループからようやく抜け出すと、次は子供達の遊び相手をすることになった。まず女の子達のバレーボールの輪に加わり、男の子達とサッカーボールを蹴り合い、トルコ式ビー玉遊びにも参加した。運動が苦手らしい女子グループが縦笛の演奏を始めたので、それにパチパチと拍手を送っていると、別のグループが近くの原っぱで摘んできた菜の花をプレゼントしてくれた。僕の両手が花束でふさがってしまうと、上着のポケットにまで菜の花を押し込まれてしまった。
そのあとに待っていたのは、サイン責めだった。一人の女の子が手の平を差し出して、「ここに名前を書いて」と言ったのが全ての始まりだった。言われるがままにボールペンで、「まさし」と書いてあげると、彼女は「やった!」と素直に喜んだ。そんな屈託のない姿は本当にかわいいのだが、他の子供達がそれを見過ごすはずもなく、たちまち「わたしにもサインちょうだい!」と手を差し出す子供達に囲まれてしまったのである。それはそれは熱狂的なものだった。自慢するわけじゃないけど、デビッド・ベッカムだってこれほどパワフルなサイン責めにあったことはないと思う。
「わかったよ。サインはみんなにしてあげるから、並んで。ほら、並びなさいって!」
いくら声を張り上げても、もはや誰も僕の言うことなんて聞かない。乾季の山火事のように、一度火がつくと手の施しようがないのが、トルコの子供なのである。僕は右手にボールペンを持って、なすすべもなく立ちすくむしかなかった。
しばらくすると、その様子を見かねた担任の先生が、大声で怒鳴りつけてくれた。そのおかげで、ようやく秩序が回復し、僕はアイドルのサイン会みたいに一人ずつ順番にサインを書いていった。しかしどういうわけか、書いても書いてもいっこうに列が減らないのである。おかしいなぁと思って注意して見ると、何と右手にサインをもらった子が、再び列の後ろに並んで、左手にサインをもらおうとしていたのである。これには「オー・マイ・ガ!」と呆れるしかなかった。そこまでしてサインが欲しいのか? 韓流スターでもない、ただの日本人のサインを?
トルコで歌う「サザエさんの歌」
子供達がようやく僕の存在に慣れ、クラスが落ち着きを取り戻した頃、先生が全員を整列させた。これから公園の周りを歩いて一周するのだという。小さな公園だから歩いたってたかが知れているのだが、子供達の有り余るエネルギーを発散させるには、歩かせるのが最もいい方法なのだろう。
僕も子供達の後について歩いたのだが、行進している間もトルコキッズたちのテンションの高さは変わらなかった。誰かが知っている歌の出だしを歌うと、全員がその後について合唱する。そうやってずっと歌い続けていたのである。
子供達が持ち歌を一通り歌い終わると、クラスのリーダー格らしい背の高い女の子が「マサ! ジャポン・ソング! ジャポン・ソング!」と声を張り上げた。あなたも日本の歌をうたってよ、というわけだ。もちろん、一人がそう言えば、クラス全員が「ジャポン・ソング!」「ジャポン・ソング!」の大合唱である。やれやれ、ここまで盛り上がってしまえば、歌わないわけにはいかない。しかし日本の歌といっても、何を歌えばいいのだろうか。君が代? 演歌? ・・・まさかね。
とっさに口をついて出たのは、「サザエさんの歌」だった。「お魚くわえたドラ猫・・・・」である。その選択に、深い意味はない。子供向けのアップテンポな歌を思い出そうとして、ふと頭に浮かんだのが「サザエさん」だったという、それだけである。
しかし意外なことに、「サザエさん」はトルコの子供達に大いに受けた。その後しばらく、「トルコ対日本歌合戦」は続き、僕は「赤とんぼ」や「ふるさと」や「上を向いて歩こう」などを次々と披露したのだが、いちばん反応がよかったのは、「サザエさん」だった。
みんなはちきれんばかりの笑顔だったし、空は気持ちよく晴れ渡っていた。まさに「サザエさんの歌」の通りだった。子供達は二列に並んで、隣の子と仲良く手を繋ぎ、大きく口を開けて歌をうたう。どの顔にも、邪気というものが全くなかった。初夏の午後のピクニックを心から楽しんでいた。
遠足って、こんなに楽しいものだったっけ。僕は自分の小学生時代を振り返ってみた。弁当を作ってもらい、近所の駄菓子屋でおやつを三百円分買い、どこかの山にてくてく登って、頂上でお弁当を広げる。それが小学生時代の遠足だった。もちろん学校を出て違う場所に行くというイベントが楽しくないわけはないのだが、トルコの子供達のようにクラス全員で同じ歌をうたったり、手を繋ぎあって笑いながら歩いたという記憶はなかった。たぶん、そういうのは幼稚なことだ、と思っていたのではないかと思う。
シヴァスの子供達は、三十人全員が心の底から笑っていた。「遠足なんてつまんねーよ」と斜に構えている顔はひとつもなかった。どこをどう切っても笑顔が出てくる、「笑顔の金太郎飴」状態だった。
こんなに幸せそうな集団は、今までに見たことがなかった。どの顔も喜びに満ちていた。どの腕も目一杯振られていた。どの足も地面を力強く蹴っていた。美味しいものを食べ、青空の下で遊び、大声で歌う。それだけで人は幸せになれるのだ。そんな集団の中にいると、僕までも幸せな気持ちになることができた。笑顔は周りにも伝染するのだ。
こんなに元気な子供は見たことがない
公園をぐるりと一周し終わると、一緒に来ていた生徒の母親達に呼ばれて、昼食をご馳走になった。羊の挽肉をこねたハンバーグ風のものを分厚いパンに挟んで食べるトルコ風サンドイッチは、肉の旨味がぎゅっと濃縮されていて、本当に美味しかった。サンドイッチを三個も頬張り、食後のチャイを飲んで一息ついていると、一人の奥さんが遠慮がちに話しかけてきた。彼女は以前に外国人のいる職場で働いていたことがあるので、英語が話せるのだという。
「ピクニックを楽しんでいますか?」と彼女は僕に訊ねた。
「ええ、もちろんですよ」
僕は頷いた。子供達のしつこさには辟易させられるけれど、楽しいピクニックであることは間違いなかった。
「しかし、どうしてトルコの子供はこんなに元気がいいんでしょうね? 僕はいろんな国を旅してきましたが、こんなに人懐っこくて、元気のいい子供は見たことがないですよ」
「あなたが急に現れたのが、よっぽど嬉しかったんじゃないかしら」と彼女は言った。「それに、トルコ人の親は子供のことが本当に好きなのよ。愛しているの。だから『子供は元気すぎるぐらいがちょうどいい』と考えているのかもしれない」
確かにトルコの子供が、両親に愛されているのは事実だろう。母親だけでなく、父親も子供のことを本当に大切にする。なんたって家族が一番大切だよ、とみんな口を揃える。しかし、我が子を愛しているのはトルコ人だけではない。日本人の親だって気持ちは同じだろう。
「私たちの子供の頃は、きょうだいの数がとても多かったの。私も六人きょうだいだった。でも、今は違うわ。子供は二人か三人というところが多くなったの。その分、子供は親にかまってもらえるのよ」
「だから元気がいい?」
「そうね。でも私にもわからないわ。だって、子供ってああいうものじゃないの?」
結局、僕らがいくら話したところで、トルコキッズの元気のもとは突き止められそうになかった。ひとつだけはっきりとしているのは、このピクニックを心の底から楽しんだという子供達の記憶は、大人になってからも彼らの心を温め励ましてくれるに違いないということだ。そんな彼らのことを、僕はとても羨ましく感じた。
トルコ式の別れの挨拶
元気いっぱいの三十人の中で、メリチェだけは例外的におとなしい子供だった。みんながバレーボールやサッカーに夢中になっているときも、彼女はその輪の中に入ろうとはしなかった。友達がいないわけではないのだが、大勢で何かをするよりも、一人でいるのを好んでいるようだった。
英語が話せる奥さんが教えてくれたところによると、メリチェの父親は五年前からサウジアラビアに出稼ぎに行っていて、家に帰ってくることはほとんどないのだという。トルコは「主な輸出品は出稼ぎだ」という話もあるくらい、出稼ぎの盛んな国である。特にドイツには二〇〇万人ものトルコ系住民が住んでいる。近年はヨーロッパだけではなく、サウジアラビアなどの中東の産油国にも出稼ぎ先は広がっているという。
「でも、どうしてメリチェなの?」
奥さんが僕に訊いた。
「確かにメリチェはかわいいわ。でも、他の女の子だって彼女と同じぐらい綺麗だわ。それなのに、どうしてあなたはメリチェを撮ったの?」
彼女が不思議がるのも、もっともなことだった。今のメリチェはクラスの中でも目立たない存在であり、外国人がわざわざ会いに来るような子だとは、到底思えないだろうから。
「僕にとって、三年前のメリチェは特別だったんです」
しばらく考えた後に、僕は言った。三年前のメリチェには、他の子にはない独特の雰囲気があった。普通の子は、カメラを向けられると、はしゃいだり逃げ回ったりするものなのだが、メリチェだけは自然体のままレンズを見つめ返してきたのである。その静かなたたずまいは、彼女がいつも一人でいることと、関係があるのかもしれない。
ひょっとしたら、三年前と同じように、メリチェが路地裏に一人でたたずんでいるときにカメラを向ければ、特別な表情を見せてくれるのかもしれない。ふと、そんな気がした。しかし今となっては、それは確かめようのないことだった。
五時になると、公園の前に迎えのバスがやってきた。僕らはそれに乗って学校に戻った。バスの中でも子供達のテンションが下がることはなく、「トルコ対日本歌合戦」の延長戦が行われた。そんなこんなで、バスが学校に到着した頃には、僕はすっかり疲労困憊していた。僕には小学校の先生なんて半日も勤まらないだろうな、と思った。
校門の前で、僕はメリチェにお別れを言った。彼女は最後にトルコ式の別れの挨拶をしてくれた。彼女は僕の右手をそっと握り、手の甲に唇をつけた。そして、そのまま僕の手の甲を自分の額に押し当てた。
これは目上の人に対する一般的な挨拶なのだが、そうとわかっていてもドキッとさせられる、素敵な仕草だった。