声優・大塚明夫さんの記事が興味深かった。「仕事にあぶれる声優」が多いのは、声優の数が増えすぎたからだ、というのだ。300脚の椅子をつねに1万人以上の人間が奪い合っている状態だという。競争が激しすぎる椅子取りゲームだ。

 写真の世界にも同じことが言えると思う。デジカメの普及とネット上に発表の場が増えたことによって、写真家になりたい人は増えたが、仕事の量は増えていないどころか、むしろ減っているのが現実だ。

 声優と写真家に共通しているのは「何の資格も要らないし、誰も身分を保障してくれない」という点。そしてそれは「私でもなれるんじゃないか」と思う人が増えることに繋がる。写真なんてカメラさえあれば誰にでも撮れるだろうし、声優も日本語さえ上手に話せてアニメ声を出せたら私にもなれるだろう。そんな気がしてしまうのだ。参入障壁がとても低いのである。

 僕も実際に「三井さんの写真って、高いカメラがあれば誰にでも撮れるものですよね」と面と向かって言われたことがある。原理的にはその通りだし、あえて否定はしなかった(もちろん肯定もしなかったけど)。

 なかなか信じてもらえないんだけど、これは実話だ。しかも「高いカメラさえあれば誰でも撮れる写真だ」と言われたのは、銀座のキヤノンギャラリーで開いていた僕の個展会場だったのだ。普通だったら喧嘩になるかもしれない。でもならなかったのは、彼には悪意が一切ないことがわかっていたから。イノセントな人なのだ。彼は本当に「一眼カメラを持ってインドに行けば、これは誰にでも(自分にも)撮れる写真だ」と思っていたのだ。

 で、このやりとりがあった2年後に彼と再会した。そのとき彼は僕にこう言った。
「僕も一眼レフを持って数ヶ月インドを旅したんですが、やっぱり三井さんのようには撮れませんでした」
「なぜそう思ったの?」
 僕は訊ねてみた。すると彼は、涼しげな表情でこう答えたのだった。
「カメラだけじゃなくて、フォトショップとかも使いこなせないとダメじゃないですか」
 それを聞いて、ずっこけそうになった。今度はそう来るのか。斬新な発想だなぁと思った。

 

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 高性能のカメラを使い、フォトショップとライトルームを駆使して写真の質を高めるのは、写真家として基本中の基本だ。しかしもちろん、それだけでは不十分だ。プロとして食っていくためには「カメラの性能ではない何か」を写す必要がある。機材の性能を超えたものを表現し、伝えていかなければいけないのだ。

 もちろん同じ場面を撮るんだったら、高価なカメラ・高価なレンズで撮った方が絶対にいい写真が撮れる。しかし実際には「その場面」に辿り着けるかどうか、見つけられるかどうかの方がずっと重要だ。構図の力というのは「ありふれた日常の中に美を見出す発見力」なのだ。

 

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 ・・・ということをツイッターに書いたら、これを読んだ人から、こんなリツイートが寄せられた。
「俵万智さんの『サラダ記念日』以降、猫も杓子も歌を詠みたくなったけど、理由はおそらく「簡単そうに思えた」からだろう。つまり、自然に見えるくらい完成度が高かったということ。写真も簡単に撮れたように見えるものほど、素晴らしい。言った本人は分かっていなくても、褒め言葉と受け取っていい。」

 それに対して、僕はこう返信した。
「いや、さすがに「褒め言葉」じゃないでしょう。俵万智さん本人に「あなたの短歌って誰でも書けるものですよね」と言った人がいたとして(いないだろうけど)、それを俵さんが「これ、褒め言葉ね」と受け取るとは到底思えませんから。けなすつもりはないけど、まったく褒めてはないですよね。」

 彼が放ったひとことが褒め言葉だったのかどうかはさておき、人を褒めるのが下手な人ってけっこういると思う。女性より男性に多い気がする。去年開いた写真展の会場でも、僕の写真とは直接関係ないマスコミ批判と自慢話を延々と15分ぐらい続けた後(ほとんど聞いてなかったけど)、最後の最後に「でもあなたの写真は素晴らしい」と言われて、「えぇ!褒めてたんや」とのけぞったことがある。

 写真を撮ることと、人を褒めることは、似ているのかもしれない。どちらも「人が見逃すような小さな美点に注目して、それをうまく切り取る」ということだから。でも写真家がみんな褒め上手かというと・・・まぁ全然そんなことはないなぁとも思う。

 写真家は「褒めの力」をシャッターに込めている、と言えるのかもしれない。「この表情、この光、この構図が素敵だ」と感じた瞬間を、言葉ではなくて、写真に記録するという行為を通じて表現するのが、写真家の仕事なんじゃないだろうか。

 

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