3月11日に起こった大地震の後、ずっと息を詰めて家のテレビを見つめていました。
 仕事はまったく手に付かなかったし、外を出歩く気にもなれなかった。あと1ヶ月で1歳を迎える娘を抱きながら、次々に明らかになる惨状に言葉を失っていました。

 南相馬市や仙台市や八戸市は、去年の夏にリキシャで通った街でした。
 猛暑日の中、大量の汗をかきながら国道6号線をひた走っていたのをよく覚えています。そこが大津波に飲み込まれ、変わり果てた姿になっている。ショックでした。

 夜、布団を被って目を閉じても、眠気はなかなか訪れません。これまでに目にした数々の光景がフラッシュバックしてくるのです。
 大学2年のとき、阪神大震災で目にした無慈悲な破壊の跡。
 津波に襲われた町で祈るスリランカの少女。
 僕らが実はとても脆い土台の上で暮らしているということを、改めて思わずにはいられませんでした。

 2005年2月。スマトラ島沖大地震が起こってから2ヶ月後に、僕はインドネシアのアチェ州にあるムラボーという町を訪れました。報道カメラマンとしてではなく、一介の旅人として。
 ムラボーはバンダアチェと並んで津波によって最も多くの死者を出した町で、完全な廃墟と化していました。倒壊した建物と瓦礫が延々と続く様は、さながら空襲を受けた直後の町のようでした。通りを歩く人の姿もほとんどありません。完全なゴーストタウンでした。

 ところが、ムラボーの中心部から数キロ離れたの町や村に行くと、状況が一変したのです。そこには活気に満ちた表情で働く人々の姿がありました。
 川では、津波によってなぎ倒され、流れをせき止めている椰子の大木を、十人ほどの男が力を合わせて引っ張っていました。
「1、2、3、それ!」
 と掛け声をかけ、綱引きの要領で一斉に引っ張るのですが、椰子の木は予想以上に重く、何度引っ張ってもびくともしません。それでも諦めずに引っ張っていると、先っぽだけがすぽっと抜けてしまい、その勢いでみんなが尻もちをついてしまいました。すると泥の中に腰まで浸かった男達から大きな笑い声が起こったのです。まるで子供の頃に絵本で読んだ「おおきなかぶ」の一場面のような光景に、僕も思わず吹き出してしまいました。

 復興現場には絶えず笑い声が響いていました。どの顔も生き生きとしていたのです。
 僕は人々の明るさと、背後にある凄まじい破壊との途方もないギャップに困惑しました。彼らの中には子供や親兄弟を失った人も大勢いるし、ほとんどの人が住む家を失い、仕事を失っています。そのような悲惨な現実があるのに、なぜ彼らはこれほど明るいのか。僕にはよくわからなかったのです。

 その笑顔の理由を知りたくて、ムラボー周辺を歩き回りました。そこで徐々にわかってきたのは、人々の笑顔の源に「働くこと」がある、ということでした。

 幸か不幸かアチェの復興には重機がほとんど使われておらず、瓦礫の除去も道路の補修も人の手に頼らざるを得ません。大変な重労働だし、復興までにはとてつもない時間がかかることでしょう。
 しかし彼らはその重労働によって、復興への確かな手応えを感じていたのです。「自分の手と足で、最悪の状況を少しでも良くしている」という実感が、必死の思いで流した汗が、ポジティブなエネルギーを生み出していたのです。

「昨日よりも今日の方が、今日よりも明日の方が、ほんのわずかでもプラスになっている」
 そう思えるのなら、たとえどんなに厳しい状況にあっても、人は笑顔になることができるのだと感じました。

 人間にはどんな境遇にあっても、たくましく生きていく力が備わっている。
 深い悲しみの中にも、喜びの種を見出すことができる。
 アチェの人々が僕に教えてくれたのは、そんなシンプルな事実でした。

 東北大震災の被災者の方々は、いま茫然自失の状態にあるのだと思います。そこから立ち直るためには、まだまだ多くの時間が必要でしょう。悲しみは癒えていないし、不安も取り除かれてはいない。

 でもいつか必ず、人々は立ち上がります。
 力強く前を向いて。おそらくは笑顔とともに。

 そのときにできる限りの支援をすること。痛みと、復興への手応えを、被災者と共に分かち合うこと。
 それが直接被害を受けていない僕たちがこれからすべきことだと思います。