どうしてこんなにもかわいいんだろうか。
 我が子の真っ黒い瞳を見つめながら思う。
 
 完全な親バカである。
 でもこの「この子は特別にかわいい」って感情は、娘の顔を見るたび尽きない泉みたいに次から次にあふれてくるのだ。どうしようもなく。
 すごいな。これが「赤ちゃん力」を前にした親の気持ちってやつなんだ。
 

 

 
 リキシャの旅をはじめて1ヶ月後に生まれた娘は、まもなく7ヶ月を迎える。
 病院では小ザルのようにひ弱だった体も、ごくごくと母乳を飲み続けたおかげでしっかりと太くなり、病気ひとつせずにすくすくと育っている。リキシャの旅を終えて以来ずっと頭痛が続いている僕よりも体調が良さそうに見える。
 
 髪の毛は相変わらず薄くて、ブルー系の服を着せると男の子にしか見えないのだが(不思議なことに白やピンク系の服を着ると女の子っぽく見える)、性別を超えた「赤ちゃん的キュートさ」とでも呼ぶべきものを備えているように思う。
 
 この「赤ちゃん的キュートさ」の威力というのはすごくて、たとえば僕らがベビーカーを押して街を歩いていると、杖をつきながらよたよたと歩いていたお年寄りがそれまでの動きからは予想もできないほどの素早さで娘のそばに駆け寄ってきて、「あらー、かわいいわねぇ!」と満面の笑みで言ったりするのである。恐るべし「赤ちゃん力」。
 


 
 リキシャの旅を終えてから、僕は多くの時間を娘と一緒に過ごしていた。もちろん最初は泣かれた。旅で家を空けていたあいだに父親の存在なんてすっかり忘れていて、抱き上げらえるたびにおいおいと鳴き声を上げたのだった。
 
 何とか父親として(あるいは母親以外の庇護者として)認知してもらったのは家に帰ってから1週間を過ぎた頃だった。それからお風呂に入れたり、おむつを替えたり、粉ミルクを与えたりするうちに、徐々に僕と一緒にいることにも慣れてきたようだ。
 
 自分が子供を持つことの喜びや、日々の成長を見つめることの楽しさは、実際に子供と一緒に過ごすまではわからない。それが僕の実感だ。
 
 もちろん僕はこれまで世界中の子供たちにカメラを向けてきたし、子供をテーマにした写真集も出版してきたから、僕なりに子供の笑顔が持つ力や魅力をわかっているつもりだった。
 
 けれど親にとって我が子の笑顔というのは理屈を越えたもので、他に比べようのない圧倒的なものなのだと知ったのだった。その感情は僕のこれまでのボキャブラリーにはないもので、だから今でもうまく言葉にすることができない。
 
 腹の底からせり上がってくるようないとおしさ。
 いったい何なんだろう、これは。
 


 
 子供を持つことが、これからの僕の写真や旅に影響を与えるのは間違いない。なぜなら旅も写真も僕の人生の一部であって、「仕事」としてクールかつテクニカルに切り離せるものではないからだ。人生に対する見方が変われば、旅に対する姿勢も写真への取り組み方もおのずと変わってくる。変化することは自然であり、それを恐れる必要はない。
 
 今回の「リキシャの旅」で僕が見たのは、今の日本のありのままの姿だった。
 リキシャを通して見つめた日本は、美しくもあり、ときに醜くもあった。
 
 そんな旅が、娘が生まれた年に、次の世代への「命のパス」を繋げられた年に行うことができて、本当に良かったと思う。
 
 何年後になるかわからないけれど、娘にも僕が見た日本を、僕が出会った日本人の姿を伝えられるときが来るだろう。
 
 そのとき彼女が「日本に生まれて良かった」と思ってくれたら。それはきっと最高の喜びになるだろう。