このあいだ、NHK教育の「新日曜美術館」で、石田徹也という画家の特集を放送していた。去年、今の僕と同い年の若さで亡くなった画家である。
 
 彼の絵は、現代社会に生きる不条理や、組織の中で抑圧される個人を描いたものばかりだ。学校の校舎に閉じ込められたまま動けなくなった男や、ファストフード店で同じ食べ物を「給油」される男たち。独特のユーモアの中に、ひりひりとさせる現実が描き込まれている。
 
 放送の直後に、僕の友達が生前の石田さんと面識があったということを聞いて驚いた。人付き合いが下手で、周囲との人間関係がギクシャクするようなタイプだったそうだ。アクの強い、我が道を行く性格だったのかもしれない。
 
 石田さんはいくつかの賞を受賞し、これからの作家活動を期待されていた若手だったそうだが、それでも絵だけで食べていくことはできず、踏切事故で亡くなる直前までアルバイトを続けながら制作に没頭していた。毎日カップラーメンを食べ、生活費の大半を絵の具代に費やして描き続けていた。
 
 番組の最後では、彼の遺作集が評判となり、国際的なオークションにも出品されることになり、おそらくは高値が付くのではないかと匂わせていたけれど、それを聞いてゴッホのことを思い出さずにはいられなかった。生前、たった1枚しか絵が売れず、絶望の中で自ら命を絶った画家。今では一枚が何十億円で取引されているという皮肉。
 
 もちろんずっと誰にも評価されないよりは、死んだ後でも評価された方がずっとマシだ。作者は死んでも作品は永遠に残る。作家の魂は救われる。でも・・・何とも切ない話だ。
 
 特に石田さんの場合には、「若くして亡くなった」こと自体が話題となり、作品の評価を上げるきっかけになっているようだから、なおのことその切なさを強く感じる。
 
 写真家にも「食えないアーティスト」が多い。というか写真家を名乗る人の大半は、写真自体で生活できていないんじゃないのか。そんなことを、知り合いの写真家と話したことがある。たいていの人は、カメラマンとしての仕事をこなしながら自分の好きな写真を撮ったり、副業で稼いだお金を撮影費用に回している。
 
 石田さんと同じように一生アルバイトを続けながらでも、作品を撮り続ける気概がある人が、写真家として認められるのかもしれない。鬱屈した思いが、諦めと開き直りとルサンチマンが、新しい芸術表現を生み出すのかもしれない。
 
 だけど僕にはそんな生き方は無理だ。食えないのだったら、何とか食う方法を見つけるか、あるいは別の道に進むことを考えるだろう。
 
 たぶん僕はひとつのことにそれほど没入できるタイプではないのだと思う。どこか醒めた目で自分の置かれた状況を見てしまう。それが僕の強さでもあり、弱さでもあるのだと思う。