質問:なぜ写真を撮るのか?

アメリカに単身留学中です。
質問の内容は、カメラのファインダー越しに覗いた風景。自分の目で実際に目の当たりにした風景。どちらのほうが美しいですか?また、なぜですか?
 
このように考えるに至った理由は、留学をしていることによって圧倒的な風景に飲まれる。そう言葉に表すのが一番しっくりくる、そんな体験をしたからです。今までも日本にいたときに、この風景が綺麗だな。いつかまた思い出せたらいいな。そんな感想を抱いたことは何度かありました。富士山に登ったとき、何気なく田舎の田園風景を眺めているときなどです。しかし、圧倒的自然にのまれる、という体験は今まで一度もありませんでした。おそらく他人にとっては気にも留めない風景であったと思います。英語も分からず、勉強に励む一方でたまたま気分転換に散歩に出る。そんなときに見かけた見渡すかぎりのトウモロコシ畑。気がつけば10分では足りないほどの時間をいつの間にか過ごしていたと思います。なんでか携帯で写真を取って、いつまでも手元に残そうとは思いませんでした。その後、幾月が経ち日々の忙しさにその思い出が埋没しつつあったとき、ふとその光景を思い出しました。鮮明でした。美化も少なからずされていたと思います。でも、そんな頭の風景に没頭できる。初恋で失恋をした彼女の顔より鮮明だっかもしれません。頭に浮かぶ風景、あるいは写真として切り離された風景。どちらも自分の記憶の中の風景と比べられ、様々な感情を想起させるのだと思います。叶わなかった初恋の彼女を思い浮かべて、自分を笑ったり、嬉しかったり、悲しかったりするように。ここまで話を伸ばすつもりは無かったのですが、長くなってしまいました。
 
ファインダー越しの風景と、目の当たりにしている風景。どっちのが美しいですか?というこの質問。もし、目の当たりにしている風景をより美しい。そのように感じるならなぜ、写真で風景をとるのですか?という質問につながると僕は思います。おそらく、自分のためではなく、他人のために、自分の感じた感動の欠片でも感じてもらえたら。そのような答えを何処かで聞きました。今は精一杯で、自分のことに必死です。だから、他人と自分の得た感動を共有したい。というよりは、箱庭のように独り占めしたい。そう考えてしまいます。
 
考えながら書いていると、自分言いたいことがまとまらないことがよくあります。考え事やまとめることは苦手というよりは、むしろ好きなのですが。回答をよろしくお願いします。

 
 

三井の答え

 ご質問の趣旨がちょっとわからない部分があるのですが、あなたはおそらく「実際に目にした風景と、写真に撮った風景のどちらが美しいか?」という質問をなさりたいのだと思います。「ファインダー越し」と「ファンダーなし」を比べたら、そりゃ一も二もなくファンダーなしの方が美しいに決まっています。あんな小さなのぞき穴から風景を眺めるよりは、そのままじかに見た方がいいのは誰の目にも明らかです。
 
 なので以降は「実際に目にした風景と、写真に撮った風景のどっちが美しいか?」という質問への答えを書くことにします。
 
 あなたも指摘しているとおり、実際に目にした風景は、記憶され思い出となる過程で美化されていくものです。あなたがいま想起できるトウモロコシ畑は、実際に目にした風景とはかなり違ったものになっているはずです。でもそのときに感じた圧倒的な美しさ、心を激しく揺り動かされた記憶は、以前よりも鮮明になっている。
 
 記憶とはそういうものです。目にした風景を細部まで精密に記憶できる人はいません(サヴァン症候群の人の中にはそういう能力を持つ人がいるようですが、それはまた別の話です)。記憶とは実際に目にしたものから不必要な情報を削り、大事だと思う部分を強調したもの、つまりきわめて主観的な編集作業の結果なのです。
 
 しかも記憶された風景には、イメージだけではなく、そのとき感じた匂いや音、風が頬を打つ感触なんかが一緒に記憶されている。だから「写真」と「記憶」とが主観的な美しさを巡って争ったとしたら、「記憶」が圧勝するのは確実です。
 
 しかし、あなたの記憶はあなただけのものであって、誰とも共有することができません。いくら言葉で説明しても、あなたが感じた圧倒的な風景の美しさは、それを目にしていない人には伝わらない。実際、僕にはあなたが目にしたトウモロコシ畑の美しさがわからないのです。
 
 それに対して、写真には「伝える力」があります。シャッターチャンスを選び、対象を絞り、構図を限定することによって、伝えたい主題をより明確にすることができます。一瞬を切り取ることによって、その前後に流れている時間を想像させることもできます。
 
 そして写真は保存することができます。デジタルデーターとして記録された写真は、理論上まったく劣化せずに、半永久的に残すことができる。時空を超えて、百年後の人にもその風景を伝えることができるのです。それが僕が写真を撮る理由のひとつです。
 
 僕が今年旅したバングラデシュもミャンマーも、非常に大きな変化のただ中にいます。街の様子も、そこで生きる人々の姿も大きく様変わりしつつある。だからこそ、かけがえのない「今」を残したいのです。今ここにある姿を、後世に伝えたいのです。
 
 僕が自然や建物や遺跡などではなく、主に人を被写体に選んでいるのは、それがとても移ろいやすいものだからです。人は成長し、老い、やがて死んでいくし、表情はそれこそ刻一刻と変化します。いま目の前にいる人のこの表情は一回限りのものであって、二度と同じものには出会えないのです。
 
 目の前の風景はいつか必ず失われてしまうもの。だから今残さなければ。
 そういう思いがあるから、僕はファインダーを覗いてシャッターを切るのです。