日本の治安が悪化している?
バングラデシュ滞在も1ヶ月近くになり、そろそろインドに向けて旅立とうかと考えているところです。今はダッカの下町のど真ん中にある安宿に泊まっています。この宿は350タカ(500円)とダッカにしては安い部類にもかかわらず、さほどうるさくはないし、ほどほどに清潔だし(あくまでもバングラレベルでは)、ベッドも柔らかい。何よりテレビでNHKワールドが見られるのが嬉しかった。すごく久しぶりに日本の生の情報に触れることができ、日本語を聞くことができたのです。
NHKのニュースでは、子供の体力低下が話題に上っていました。小学5年と中学2年を対象に行われた運動能力のテストの結果が、過去最低のレベルだったというのです。
子供の運動能力が落ちていることについて、様々な原因が挙げられています。運動能力が田舎で高く、都会で低いことから、子供が外で遊ばなくなったことが主原因であることは確かで、テレビゲームの普及、塾通い、少子化、都市化などがその背景にあるようです。つまりこれは社会的な裾野の広い問題で、「体育の授業時間を増やす」といったことで簡単に解決できるものではないということです。
子供の運動能力がピークだったのが昭和60年だそうで、それはちょうど僕らの世代です。確かに僕らが小学校の頃は、毎日遅くまで外で遊んでいました。校庭でサッカーをしたり、鬼ごっこをしたり、裏山を駆け回ったりした。塾や習い事をやっている子もいたけれど、少数だったように思います。ファミコンが登場したのは僕が小学生の頃だったけど、その影響はまださほど大きくはなかった。
ニュースでは八王子に住む僕と同年代の主婦が、子育ての不安を訴えます。
「私たちが子供の頃は外で遊ぶのは平気だったけれど、今は治安が悪いから子供を公園で遊ばせるのは怖い」
一主婦のまっとうな意見だというふうに思えるし、事実NHKはそのような文脈で彼女の主観を伝えているわけだけど、僕は強い違和感を感じました。
本当にそうなの?
本当に治安は悪化しているのでしょうか? 僕らの子供時代と比べて、本当に子供を狙う犯罪が増えているんでしょうか? そこに定量的なデーターの裏付けはあるのでしょうか? もしないのだとしたら、それはメディアを通して語られる犯罪情報の量に左右された「思い込み」なのではないでしょうか?
実際、僕らが子供だった頃にも「変な人」はいました。痴漢も誘拐犯もいたし、性犯罪者もいた。でも今ほど話題にはならなかったのです。そういう「変な人」は社会に少数ではあるけれど含まれていて、でも滅多には遭遇しないという暗黙の了解があったのだと思います。
変わったのは治安ではなく、犯罪を受け止める社会の側なのです。滅多に起こらない異常な犯罪が、メディアを通じて詳細に伝えれ、恐怖が増幅され、憎悪が反復され、強迫観念となって社会全体を覆っている。
その結果として「次はうちの子が狙われるんじゃないか?」と親が考えはじめ、「子供の安全のためにできる限りのことをするのが親のつとめだ」として、市役所から送られてくる犯罪者情報を携帯電話で受信しながら、眉をひそめて子供たちの遊びを見守ることになる。
子供のことを大切に思う親が増えたのでしょう。子供に手をかける時間を持てる親が増えたのでしょう。それは基本的に良いことだと思うけれど、あまりにも行きすぎているのだと思う。真昼の八王子の児童公園で「性犯罪者が子供たちを狙っているのではないか」という恐怖に怯えているのって、「そりゃ変だよ」と思うのです。同じ八王子市民の僕としては。
ゴミの山で遊ぶ子供
バングラデシュの首都ダッカの子供は、あらゆる意味で東京の子供とは対極の状況に置かれています。
たとえばこの写真。これはダッカの南を流れるブリゴンガ川の河岸に積もっているゴミの山なんです。この付近にはプラスチックの工場がたくさんあって、こうして一時的に集められたゴミを原料にして、ビニール袋やプラスチック家具なんかを作っているのですが、とにかく今はただのゴミの山です。
それに向かって子供たちがジャンプをしていました。コンクリートで固められた斜面を一気に駆け下りて、ゴミのクッションの上にダイブ。ずぼっと頭だけがゴミの山に突っ込むと、友達に足を引っ張って抜いてもらう。とても楽しそうです。子供って本当に遊びの天才で、何でも遊び場に変えてしまう能力があるのです。
ダッカの線路沿いにはこんな光景もありました。線路沿いにはボスティと呼ばれるスラム街が広がっていて、最底辺の人々が寄せ集まって暮らしているのだけど、そこではごく普通にガンジャ(マリファナの一種ですね)を乾かして売買している人たちがいる。バングラでもガンジャは違法なのだけど、まぁ警察も見てみないふりをしている。お酒が飲めないイスラムの国なので、飲酒代わりに酩酊できるということで需要があるらしい。
昼間からガンジャでハイになった若者が「ねぇ、あんちゃんも買わない?」と絡みついてくる。ちょっと不穏な雰囲気も感じる。でもそのすぐ横を、リュックを背負った小学生たちが楽しそうにお喋りをしながら通り過ぎていくんですね。わりとまともな服装をしているから、ボスティの住民ではなさそうです。実は線路の上というのは、一般の道路よりもはるかに安全なんです。道路は交通ルールなんて無視のひどい混沌状態だけど、列車はちゃんとレールの上だけを走るから。だから通勤通学のために線路の上を歩いている人は結構多いのです。
ダッカには東京の何百倍もの「変な人」がいます。見るに耐えないような凄まじい物乞い、頭がすっかりおかしくなっちゃった人、なぜか全裸で中央分離帯の上を歩く男、ガンジャの売人、コソドロ。「子育てにいい環境だ」なんて口が裂けても言えない。バングラ人だってそう思っている。
にもかかわらず子供はちゃんと育っているんです。日本人の目から見て「まともに」育っているかどうかはわからないけれど、大多数の子供たちがたくましさと、ある程度の常識と、ありあまる好奇心とを備えた大人になっている。ゴミの中でもちゃんと子供は育つんです。
おそらく、今の日本の子供たちに自由な遊びを取り戻させてやるためには、親の側の「諦め」とか「放任」とかが必要なのでしょう。そして成り行きや偶然に任せる。
しかしそれは今の日本人がもっとも苦手としていることです。ニュースでは「原因究明に全力を注ぐべきです」とか、「再発防止策を講じるのが急務です」といった言葉が常套句になっていて、「子供のことはある程度放っておきましょう。成り行きに任せた方がいいんです」なんて言ったら、「そんなの無責任だ」の大合唱になるに決まっている。
でも「無責任上等」なんですよ。
だって子供なんてどう育つかわからないんだもん。ゴミの山見つけて、「おお、これは使えるぞ」ってさっそくダイブしてみる。たまに着地に失敗して頭にコブを作ることもあるかもしれない。イテテ。でもその失敗から何かを学んでいく。子供の自由な遊び心ってそうやって育っていくものでしょう?
授業で跳び箱が跳べないから、お金を払って体育専門の塾に通わせるなんてナンセンスですよ。滑稽ですよ。
そこに箱があるから飛び超える。壁があるから乗り越える。あるいは壁の上を歩いてみる。そういう自由意志とか、ジャンプ力とかって、本来は誰もが備えているものだよ。
その力を摘み取っているのは親の過剰な心配と関わりであるってことを、きちんとアナウンスするべきときなんじゃないか。僕はそう思っています。
それは強迫観念ではないのか?
前回のブログ「子供の遊び心と体力低下」には、いつになく多くのコメントが寄せられました。賛否両論ありましたが、その中のひとつ(賛否でいえば「否」なのだと思いますが)を取り上げて、それに対する僕の意見を書いてみようと思います。
Posted by ふじこ
子を持つ親の気持ちがあなたにどれほどわかるのか。かっこいい事が書いてあるけど、大人が見てみぬ振りをする希薄な社会で自分の子供を安心して外で遊ばせられるというのでしょうか。
子を持つ親の気持ちが、僕にどれほどわかるのか。そりゃわかりゃしませんよ。
あなたは「子を持つ親の気持ち」と一括りにしているけれど、結局のところそれは「この私の気持ちがわかるのか」ということでしょう? そんなもの僕にわかるわけがない。あなたのことはまるで何も知らないんだから。
それとも、あなたは「すべての子を持つ親の気持ち」が同じで、それがあなたにはわかるが僕にはわからない、ということがおっしゃりたいのでしょうか? あなたと、吉田くんのお母さんと、竹中さんのお母さんが同じ気持ちだというのですか? そんなはずないでしょう?
そもそも個人ひとりひとりが抱えている悩みや葛藤の全てなんて、誰にも理解できないんです。そんなの当たり前じゃないですか。
僕らの住む社会というのは、「他人の気持ちはわからない」ということを前提にしています。それが近代化が終焉した成熟社会というものです。我々は「他人の気持ちはわからない」というところからスタートして、「しかしわかりあえる部分もあるはずだ」と信じながら、ときには想像力も駆使して、謙虚にコミュニケーションを取り続けるしかないのです。
僕が問題だと思うのは、あなたが「私の気持ちがあなたにわかるものか!」という誰にも反論のしようがない正論を錦の御旗のように振りかざして、「母親という立場」という自分の小さな城の中に立てこもっていることです。それは確かに正論ではありますが、空虚です。後ろ向きであり、非建設的です。
僕はあなたが自分の子供を大切に思っていることを信じて疑いません。そしてあなたのような優しい親が増えていることを前提にして、今回の記事を書きました。
あなたは優しくて責任感の強い人です。なるべく他人に迷惑をかけずに、自分の家族のことは自分の力で守ろうと努力している。子供のために自分が今何をするべきなのか。いつも積極的に情報を取り入れたり、人の話を聞いたりしてアンテナを張っている。新聞に幼児誘拐の一報が出ると、真っ先に読まないわけにはいかない。登下校の途中も心配だから、防犯用に携帯電話を持たせているかもしれない。
しかし逆説って言ったらいいのかな、子供のことを心配するあまり、それが結果として子供の自由を奪ったり、過剰な束縛を強いることになっているのではないか。僕はそのことを危惧して今回の記事を書いたのです。
オブセッション(強迫観念)というのは、それにとりつかれている当事者にはなかなかわからないものです。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉にあるように、不安を抱いている人はどんなに些細なことにも恐怖するのです。ススキが風に揺れるのが幽霊に見えるのです。
大切なのは自分の抱えている恐怖が本当に正当なものなのか、強迫観念なのか、バランスよく考えることです。そのためには広い視野からものを見ることが必要です。自分一人の経験や、揺れ動く感情や、日々浴びているマスメディアからの情報だけに囚われていては、ものごとの本質は見えません。
もしあなたが「私の気持ちがあなたにわかるものか!」式に他人の意見を頭から排除し、自分が築いた小さな城の中に閉じこもってしまったら、オブセッションは今よりずっと悪い影響をあなたに及ぼすでしょう。
なぜなら、オブセッションというのは常にあなたの心の内側からわき上がってくるものだからです。それは何か具体的な対策を講じたからといって解消されるものではありません。ひとつ対策を講じれば、必ずまた別のところから不安がわき出してきます。枯れることのない泉です。終わりがありません。
最近、「ゲーテット・コミュニティー(富裕層向きの塀で囲まれた高級マンション)」というものが日本にも作られているそうですが、これは心の平安を得ようとして塀を高くするオブセッション式思考がとてもわかりやすいかたちで具現化されたものだと思います。
でもゲーテットコミュニティーの中にいる人は、本当に安心感を得られているんでしょうか?
僕にはとてもそうは思えません。今度は「塀をよじ登るやつがいるのでは?」とか「ゲートの外で襲われるのではないか?」といった不安が頭をよぎるのではないでしょうか。
監視カメラを張り巡らせて、それで「安全が買える」という社会はやはりどこかおかしい。狂っているとまでは言わないけれど、そのおかしさがおかしさとして感じられないような麻痺状態に陥っているのが今の日本社会ではないかと思います。
このような果てしなき「オブセッション社会」「不安駆動社会」が抱え込んでいる緊張を、どのようにしたら和らげることができるのか。そのことについて僕はずっと考えています。
ひとつの方法が「無責任」のススメです。ここでいう「無責任」とは、何も考えていない単なる責任放棄とは違って、責任ある「無責任」(これじゃ意味が通らないですね)です。
つまり遠くから子供を見守ってはいるけれど、細かいことはおおらかでいいと考える。自分一人で全てを背負い込むのではなくて、もっと社会と他人を信頼する。「なんとかしなきゃ」ではなくて「なんくるないさー」。ゲーテットではなくて、オープンマインドです。
そうなるためには、ある程度の「諦め」が必要になります。自分自身の人生においても、我が子の人生においても、常に自分の思い描いた通りにことが進むとは限らない。ときには理不尽で不幸な出来事が襲ってくるかもしれない。でも自然の成り行きに委ねるべきときには、潔く諦める。
ここでいう「諦め」とは決して消極的なものではありません。心に余裕と強靱さがなければ生まれないものです。「諦め」とは自分の力の限界を知り、偶然に支配されたこの世界の前で謙虚であろうとする姿勢です。
僕らは常日頃から「諦めるな」「責任を持て」というプレッシャーを過剰に受けています。そして真面目な人ほどそれを真に受けて「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」という焦燥感に囚われている。だから「無責任」や「諦め」を持つというのは簡単なことではない。それは僕にもよくわかっています。
僕もかつてはオブセッションに縛られていました。いろんなものごとに対して「こうでなければいけない」という思い込みが強くあった。いい大学に行かなければいけない。就職しなければいけない。残業しなければいけない・・・。
人は本来もっと自由なものだ。そう気付いたのは、会社を辞めて旅に出てからです。自分を縛っているのは自分自身なのです。そしてその呪縛を解くのも自分にしかできないことなのです。
僕には子供はいないけれど、僕だってかつては子供だったし、旅先でたくさんの子供たちを見てきました。これはそのような一旅人からの意見です。もしかしたら、今の日本人の考え方の主流とはずれているのかもしれない。たぶんずれているでしょう。でも少しはそういう意見があっていいと思う。
僕にはあなたの気持ちはわかりません。でも僕なりに想像力を働かせて書きました。
参考になれば幸いです。
旅は現実逃避なのか
前回コメントを引用したふじこさんから、二通目のコメントが届きました。
Posted by ふじこ
煽るような釣りコメントですみませんでした。
>それとも、あなたは「すべての子を持つ親の気持ち」が
>同じで、それがあなたにはわかるが僕にはわからない、
>ということがおっしゃりたいのでしょうか?
いえいえ、子を持つ親の気持ちは、あなたにだって少しはわかるはずです。
子供がいなくても、親の気持ちを想像することは出来ると思うからです。
だからこそ、自分の意見をブログで書きつつも、たとえば最後のくだりに一筆、「そうは言っても、現実に犯罪は起きているし、仮に自分の子供が被害者になった時のことを考えると、簡単には言えないな。」 という旨の文書があれば、どんな読者とも謙虚にコミュニケーション可能な、双方向性に配慮のあるブログになると思いますよ。
ちょっと論点がずれてきているように思いますね。
僕は「子を持つ親の気持ち」一般と、あなたが個人的に抱えている悩みや不安は必ずしも同じではないと言ったのです。そりゃ子供がいない人よりも、いる人 の方が理解しやすい気持ちというのもあるでしょうけど、子を持つ親がみんな今の日本社会を「子供を安心して遊ばせることのできない危険な場所」だと認識しているわけではありません。あなたが親であるからといって、子を持つ親の意見を代表できるとは限らないのです。
凶悪な犯罪が今の日本でも起こっていることは、もちろん僕も知っています。去年の秋葉原の通り魔事件が起きたときも衝撃を受けたし、それから間もなく起こった八王子の通り魔殺人は、僕が住んでいるマンションのすぐ近くで起こった出来事でした。
それでも昔に比べて凶悪犯罪の件数が増えているという事実はありません。そこのところは正しく認識しておかなければいけない。少年犯罪については 特にそうです。今の日本が世界でもまれに見る「少年が犯罪を犯さない」社会であることは、あらゆる統計が示しているところです。
にもかかわらず、我々の安全への要求は以前にも増して高まっています。なぜか。それは犯罪を犯す側の問題ではなくて、それを受け止める社会の側が変化したためだと僕は考えています。
犯罪がゼロになるなんてことはありません。そんな社会は逆に気持ち悪い。何もかもが予測可能な管理社会、非常に厳しい相互監視社会が実現しないと、犯罪がゼロになんてならないはずです。
いくら手を洗っても決して細菌がゼロになることがないように、この社会から犯罪がなくなることはありません。そうだとしたら、どの程度まで許容するのか、どの程度で「諦め」ることができるのか。それが今我々に問われていることだ。それが前回の内容です。
わが子が犯罪に遭うかもしれない。それが不安だという気持ちはよくわかりますよ。でもね、僕が思うにあなたの不安は根拠を欠いたオブセッションによるものだから、仮に犯罪が今の10分の1に激減したとしても、不安な心理状態は変わらないと思うのです。
>「そうは言っても、現実に犯罪は起きているし、仮に自分の子供が被害者になった時のことを考えると、
そんなこと言っていたら、何も変わらないよ。もしオブセッションの呪縛から逃れたいのなら、そういう言い訳を排除していかなきゃダメです。石橋を叩いて叩いて、それで頑丈な石橋を壊していてはどうしようもないでしょう? あなたの言っていることはそういうことですよ。
今の世の中には情報がすごくたくさん溢れているから、「やらないことの言い訳」「自分を変えないことの言い訳」なんていくらでも簡単に作り出せるんです。
先日、インドのカルカッタで旅行代理店を経営している男から、
「最近、日本人が急に少なくなったんだ。なぜだ?」と聞かれました。
「ムンバイのテロの影響だろう?」と僕が答えると、
「たぶんそうだろう。でもヨーロッパ人は減っていない。なぜ日本人は来ないんだ?」
と言うのです。確かに僕の目から見ても、カルカッタの安宿街サダルストリートを歩く日本人の数は以前よりも減っています。韓国人ばかり目立っているという状態。
テロや政変などがあると、旅行者が渡航を控えるようになるのは当然の成りゆきではあります。でも「日本人だけが目立って減っている」なんて言われると、 「うーむ」と考え込んでします。僕も日本人だから、なるべくなら日本人の肩を持ちたいのだけど、この件に関しては「チキンだよなぁ」としか言いようがなくて、ちょっと情けない。
テロが起こったのは西部のムンバイなんです。東部のカルカッタからはすごく遠い。地図を広げてみればすぐにわかります。インドってものすごく広い国だから、感覚的には外国みたいなものです。危険なムンバイ行きを控えるのはわかります。でもインド全体の治安が混乱しているわけではないのだから、カルカッタ にもバラナシにもデリーにも行かないというのは明らかに過剰反応です。バランスを欠いています。
「日本人というのは、何かが起こるとすぐにビクっと頭を引っ込める亀のような存在だ」
と外国人から思われるのは、あまり愉快ではありません。
>どんな読者とも謙虚にコミュニケーション可能な、双方向性に配慮のあるブログになると思いますよ。
この部分にもちょっと引っかかるんです。だって「どんな読者とも謙虚にコミュニケーション可能な、双方向性に配慮のあるブログ」なんてもの現実にはないですよ。そんなブログ見たことがあります? もしあったとして、それは読んでいて面白いブログですか?
(ごめんなさいね。ふじこさんのコメントひとつひとつに反論するみたいな格好になっているけど、それはあなたのコメントの「引っかかり具合」が僕にとってとても示唆的だということなんです)
日本語で書かれたブログであれば、日本語が読める人なら誰でも読むことができる。そういう開かれた場にあって、「全ての読者に配慮する」なんてことはそもそも不可能なんですよ。
その意見がユニークであったり鋭かったりすれば、反感を持つ人や異議を唱える人が必ず出てきます。不快になる人、傷つく人もいる。ブログってそういうものだよ。あるいは誰かの意見表明というのはそういうものであると言ってもいい。
人が自分のオリジナルの立場から本音で意見を言うときには、必ず誰かと衝突するものなのです。それは避けようがありません。逆に言えば、誰とも衝突しない当たり障りのない意見なんて、あえて声を大にして言う必要はないのです。
あなたのような立場の人が反論を送ってくれることは、このブログにとってマイナスではありません。いろいろな反応があってはじめてブログには価値が出るのです。世の中には、読者の反応を気にするあまり、本当に言いたいを見失っているブログが多すぎるように思います。
有名芸能人のブログだったら、つまらない揚げ足取りや、くだらない「炎上」なんかにも気を配らなきゃいけないんだろうけど、そうではない普通のブログ(もちろんこのブログもそうです)はもっと自由であっていいと思う。いや、自由であるべきだと思う。
さて、ここでもうひとつ別の方(Lovely Marieさん)からのコメントにもお答えしようと思います。
前回の記事、今回の記事、興味深く読みました。三井さんのおっしゃること、まったくもって、同感、賛成(特に、オブセッションの部分)なのですが、ふじこさんの気持ちも、ちょっとはわかるような気がします。現実のさなかに立っていると余裕を持つって、難しいし、それに比較して、三井さんは”現実=本来の 住むところに居る自分の生活・毎日”から、旅に出ることによって、逃避しているような印象を持ってしまう、というのも、ありえる気がします。家族がいないからできること=旅、ということでしょうか。
このコメントを読んで、ずいぶん前にもらった一通のメールを思い出しました。それは僕が2001年に初めての長旅に出ているときに、会社で同期だった友人からもらったメールでした。
「お前がいつ現実に気が付くのか心配している」
そう書かれていました。僕はこのメールをどこかのネットカフェで読んですごく違和感を感じたんです。もちろんサラリーマン生活を送っている彼から見れ ば、会社を辞めて日本からドロップアウトして何ヶ月もアジアをうろうろしているような人間の生き方は「非現実」だと映るでしょう。それは僕にもわかる。
「自分探しなんて、なに気取ってやがる。いつかはお前だってこの『現実』に戻ることになるんだぜ」
そういうニュアンスが含まれていたようにも思います。
でもそのときの僕にとっては、旅こそが「現実」そのものだったのです。すごくリアルで、手応えがあって、自分が今生きているという実感に溢れている日々だった。もしこれが現実でないのだとしたら、現実の持つ価値なんてなんぼものだ。そう思っていた。基本的には今でもそう思っています。
そのときに抱いた違和感が、その後の僕の人生を変えていくきっかけになったのではないかとも思います。つまり「旅が現実ではないというのなら、現実をこっち(旅)の側に引き寄せてやろうじゃないの」。
僕は今、旅をしながら写真を撮って、それで生計を立てています。職業写真家です。それをもう何年も続けています。全くのゼロから、自分の手で「現実」を 作り上げてきたのです。それは決して簡単な道のりではありませんでした。あんまり大きな声で言っても仕方ないから普段はあまり言わないけど、「全然」簡単ではない。
だから「逃避じゃないか」なんて言われると、ちょっと困っちゃうんですね。別に腹は立たないけど、困ってしまう。ああ、やっぱりわからない人にはわからないのかなぁって。
あなたの目にどう映っているかはわからないけど、僕にとって旅とは向かい合うべき現実世界です。ハードでソリッドなリアルワールドです。そこは僕の主戦場であり、日々の格闘の舞台です。
そして旅を通して得たものを、僕は本や講演会やブログなどを通じて他の人に伝えています。それが僕の今の仕事というか果たすべき役割になっています。支 えてくれる人がいます。その人たちのおかげで、また旅に出られるのです。そういう大きな輪っかの中に、僕の旅は含まれているのです。決して逃げ込む場所などではないのです。
その辺が作家の下川祐治さんの立ち位置とは違うところですね。彼の旅は「逃げ込める場所があっていいんじゃないの」というスタンスで、それはそれでとても面白くて新鮮で、僕も彼の本を読むのは好きなんだけど、僕自身が旅するときには下川さんのように「ビルマで昼寝ばかりしていた」なんてとてもできないので す。これはもう個人的な資質の問題だと思います。
とにかくまぁ、僕は今こうしてインドの安宿のベッドの上でこれを書いています。窓は少し開いていて、天井のファンがゆっくり回っている。蚊取り線香の匂いがする。壁にはヤモリの親子がいる。この部屋にはテレビもなくて、夜は静かにゆっくりと更けていきます。
そんな長い夜に、こうしてパソコンに向かってブログを書いているのです。
そろそろ切り上げて眠ります。
明日はまた、バイクに乗ってどこかの町に移動します。
それでは。
そしてブッダは城を出た
前回の記事に対しても、多くの反響がありました。「たびそら」を立ち上げてから、もうかれこれ7年以上になりますが、このあいだに僕が積み上げてきたものは、決して無駄ではなかったなと感じています。
>ごんざさん
私は、三井さんが見ている景色が、かなり好きです。
被写体の中に見いだしているものは、”人間でよかった”という何かだと思えるんです。
まだ人間にもこの星で生きていく力があるんだなあ、っていう希望が湧きます。
ありがとう。とても嬉しいコメントです。
そしてとても素敵な言葉ですね。
>Ochaさん
日本のワイドショーやニュースは必要以上に不安を煽ったりします。テレビだけではなくて、本や雑誌も。インド旅行の前に某ガイドブックを購入して下調べし ていたのですが、「こんな犯罪にあいました」などの不安材料がたくさんかかれていて、真剣にチケットキャンセルしようかと思ったほどです。
ガイドブックのトラブル欄は話半分、じゃなくて9割引ぐらいで目を通しておけばいいんです。あんなものをまともに読んでいたら、誰だって不安になるはず です。もしあれが旅行者を必要以上に不安がらせるためのものではないのだとしたら、きっとガイドブックの編集部のエクスキューズなのでしょう。もしトラブ ルが起こったときに「ほら、うちでもこういう風に言っていたでしょう」という言い訳です。
もちろんタイに詐欺師がいたり、ベトナムに強盗がいたり、インドでテロが起こったりするのは事実です。でも事実の細部を逐一記すことが、はじめてその国を訪れる人(ガイドブックというのは初心者のための本ですから)にとって本当に有効な情報になるのかは大いに疑問です。
ごくたまにしか起こらない犯罪に対して過剰に心配する。この構造は「子供を外で遊ばせることができない」という不安と非常によく似ています。
英語のガイドブックには「情報は情報として書いておくけど、あとは自己責任でな」という姿勢が明確に貫かれています。旅とは本来そういうものだと思います。もし自分が犯罪に遭ったとしてもガイドブックは何の責任も取ってくれないのですから。
今ではどこかに旅行に行く前に、インターネットから情報を仕入れるのが当たり前になっていますが(そうやって「たびそら」にたどり着いた方も多いと思います)、事前に知識をぱんぱんに詰め込んでしまったら、実際の旅がつまらないものになるのではないかと思います。
地図を持たずに歩き始めた、という「深夜特急」ばりのストロングスタイルで臨めとは言いませんが、情報はほどほどでいいんです。大切なのは自分の五感を使ってその土地を感じることです。予期しないトラブルに見舞われても、それに対処できる自分を発見することです。それこそが旅の醍醐味なんですから。
だから「たびそらを見て、次はバングラデシュに行こう!と思った」というコメントはとても嬉しいのです。単なる情報に終わらなかったということですから。
僕はバングラデシュについてポジティブなこともネガティブなことも両方書いてきましたが、それを読んで「なんだか面白そうだ」と感じてくれたこと、「それじゃ自分で行ってみよう」と旅心を刺激できたことが、何よりも嬉しいのです。
旅においても、人生においても、ある程度のリスクはつきものです。リスクを完全にヘッジすることなんてできない。それは今回の金融危機で慌てふためいて いる金融工学の専門家たちを見てもわかることです。CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)という倒産のリスクさえもヘッジできるかのような金融商品 を作り上げて売りさばいてはみたものの、実際の恐慌の前にはなす術がなかった。人の感情の動きや、この世界の偶然性というものを完全に予測することなんて誰にもできないのです。
それに、細心の注意を払ってリスクをヘッジする人生が送れたとしても、人はいつか必ず死ぬんです。それは避けようがありません。
だったら、覚悟を決めた上でリスクを取って、未知の世界に飛び込んでいく。そういう人生の方が面白いじゃありませんか。僕が一貫して言い続けているのはそういうことです。
高い塀に囲まれたお城の中で、安全で快適だけれど退屈な人生を送るのか。塀の外に出て、自分を現実の世界の前にさらすことを選ぶのか。決めるのはあなたです。ブッダは後者を選びました。僕は仏教徒ではありませんが、ブッダという一人の人間が歩んだ人生には、どこか共感を覚えるところがあります。たぶん同じ旅人して。
僕の人生を「あんなのアリとキリギリスのキリギリスだ」と馬鹿にする人がいたって全然構いません。確かにみんなが共感できるような生き方ではないでしょう。
このメッセージは誰か(そう、今この文章を読んでいる「あなた」です)に届けばいいんだ。
僕はそう思って書いています。