できれば、その人の中にある魂のようなものを写し取りたい。魅力的な被写体を前にすると、いつもそう思う。
もちろん、それは簡単なことではない。生きている人を相手にしているのだから(しかも写真に撮られた経験がほとんどない人を撮ろうとするのだから)、自分の思い通りに事が進むわけがないのだ。試行錯誤の末、結局失敗に終わることの方が圧倒的に多い。
それでも、トライする価値はある。良い光と良い構図の中に素晴らしい表情を写し取れたとき、僕は自分の試みが間違いではなかったと知る。
一歩ずつでもいいから前に進んでいる。その実感をより確かなものにするために、僕は日々インドを歩き回っている。
ただそこにいるだけで、絵になる男がいる。「なんで俺を撮るんだい?」と彼は訊く。「あんたが美しいからだよ」と僕は答える。「俺は男だ。男が美しいなんて事があるもんか」と彼は笑う。それがあるんだよ。みんなが、じゃない。あんたが特別なんだ。
「カッコいいとはこういうことだ」とラバリ族の牧民は教えてくれる。言葉ではなく、立ち居振る舞いとスタイルで。伝統の赤ターバンを巻き、背中に斧を背負って、彼は羊を追う。口笛を吹くと、羊の群れはノロノロと動き出した。
その大きな瞳はまっすぐ僕を見つめていた。これほど強い目力を持つ少女はなかなかいない。彼女は驚いているようでもあり、戸惑っているようでもあったが、最後まで視線をそらせることはなかった。
まだ幼い子供が下の子の面倒を見る。インドの山奥では、ごく当たり前に目にする光景だ。少女の瞳には、ある種の覚悟が宿っている。将来、自分が母親になることへの覚悟のようなものが。
村のお葬式で泣くのは女性だけだった。男は泣かない。その代わり、女たちは声を上げて盛大に泣く。本当に悲しいのか、「泣くことになっているから泣いている」のかはよくわからない。一人残された寡婦は潤んだ目で家の前に座っていた。
存在感の強い被写体がいるときは、シンプルな背景を選ぶ。シンプルであればあるほど良い。その人そのものが闇の中に浮かび上がってくる、そんな一枚を目指してシャッターを切るのだ。
俺の工場は24時間操業で、12時間ごとに昼勤と夜勤が交代するんだ。休みなんてのは、金曜日の礼拝の日ぐらいだね。あと、停電で機械が止まったときには、しばらく休める。この町じゃ、これが当たり前だよ。だって働かなきゃ、食ってけないだろう?
遊牧の民の末裔は、今でもインド各地に住んでいる。山羊や牛を連れて、草地から草地へと移動しながら、テントを張って暮らしているのだ。遊牧民たちは素朴さと狡猾さを併せ持ったような、不思議な色合いの目をしている。常に「よそ者」として生きざるを得ない人々の悲哀が表れているのかもしれない。
働く男は飾らない。飾らないままが美しい。暗くて暑い染色工場で働く男の表情に、特別な「何か」が宿る瞬間を捉えた。窓から射し込む一筋の光が、職人としての誇りを浮かび上がらせたのだろう。