東南アジアを旅していると、思わぬかたちで「あの戦争」に出くわすことがある。
それはけっして生々しい記憶ではない。終戦から60年以上もの月日が流れて、戦争の記憶自体は確実に色褪せている。「語り部」と呼べる人の数もごくわずかになってしまった。それでも記憶の一部は、語り継がれることを求めていた。たとえそれを経験した人が、この世からいなくなってしまった後でも。
ヘイタイサンの思い出
ミャンマー中部にあるメイッティーラという町で出会ったドンニュイさんは、片言の日本語を話すことができた。日本軍の兵士に日本語を教えてもらったという。しかし現在も記憶している単語はごくわずかだった。
「コニチハ・・・アリガト・・・・ヘイタイサン・・・・・ケンペイタイ」
それだけの言葉を思い出すのに、ずいぶん長い時間がかかった。それはたくさんの鍵を使って、古い錠前をひとつずつ開けていく作業に似ていた。
「・・・ワカラナイ・・・ワスレタ」
彼女は少し照れ臭そうに微笑んだ。笑うと、顔全体に深い皺が広がった。
「おばあさんには戦争中に知り合った日本人の恋人がいたのよ」と孫娘のスーレーマが教えてくれた。
「日本語は彼から教わったらしいわ。もちろん、おばあさんが結婚する前の話よ。でも出会ってから数ヶ月で日本軍が降伏して、その兵士も日本に帰ってしまったの。おばあさんは彼のことが好きだった。彼もおばあさんのことが好きだった。でもどうすることもできなかった。それっきり、二人は二度と会うことはなかったそうよ」
「その日本人は何という名前だったんですか?」と僕は訊ねた。
「ナカタサン」
ドンニュイさんはすぐに答えた。他の言葉以上にはっきり記憶に残っているようだった。
「ヘイタイサン。ナカタサン。ヘイタイサン。ナカタサン・・・」
彼女は何度かそう繰り返した。しかし彼女の表情からナカタさんに対してどのような想いを抱いているのかを読み取ることまではできなかった。悔恨のようなものがあるのか、それとも青春時代のひとつの思い出なのか・・・。
ドンニュイさんは安楽椅子にもたれたままの姿勢で、しばらくのあいだ目を閉じていた。眠ってしまったのかと思ったが、そうではなかった。彼女は時々薄く目を開けて、光が射し込む入り口の方を見つめた。細い記憶の糸を懸命にたぐり寄せようとしているようにも見えた。
「ナカタサンはどんな人だったんですか?」
と僕は訊ねてみた。ドンニュイさんは黙って目を閉じてから、ゆっくりと口を開いた。
「・・・・ワカラナイ・・・ワスレタ」
彼女は日本語でそう言うと、再び照れ臭そうに笑った。本当に忘れてしまったのだろうか。それとも、その気持ちだけは自分の胸の内にしまっておくつもりなのだろうか。それは僕にもわからなかった。
歴史の一部だよ
フィリピンのタクロバンに住むジミーさんの家は、80年以上前に建てられたという二階建ての広々とした木造家屋だった。家具や調度品などもアンティークもので統一されていた。ジミーさんのおじいさんは地元の名士で、太平洋戦争前まではかなり羽振りが良かったらしい。
80年以上前に建てられたというジミーさんの家
「60年前、日本軍がフィリピンを占領していたとき、この家は下士官の宿舎になっていたんだ」とジミーさんは言った。「当時の日本軍にはひどい兵士もいたそうだ。略奪やレイプといった蛮行があったという話は聞いている。でも私の祖父母に対しては、非常に礼儀正しかったそうだ。一階が下士官の宿舎になっていて、二階には祖父母たちが住んでいたんだけど、兵士たちは『絶対に二階には上がるな』と命令されていたそうだ。ある日、若い士官がその命令を破って二階に上がったことがあった。彼は二階に置いてあるピアノが弾きたかったらしい。日本の曲でも演奏したんじゃないかな。しかしそのことはすぐに上官に知られてしまい、命令違反を犯したということで、その若い士官はひどく殴られたそうだ。それぐらい規律正しかったってことだね」
60年前と変わらない部屋
下士官が弾いたピアノは当時のままの状態で部屋に置かれていた。今はもう弾く人がいないアップライトのピアノにはうっすらと埃が積もっていた。その隣には時代物のソファと古いフランス人形が収められたキャビネットがあった。どちらも60年前からずっとここにあるのだろう。この部屋にいると、時間の進み方が少し遅くなった気がした。
「あなたは日本軍のことをどう思っているんですか?」と僕は訊ねた。「フィリピン人も彼らに苦しめられた。そうですよね?」
それはかつてこの国を占領していた日本人の子孫として、どうしても聞いておかなくてはいけないことだった。
「歴史の一部(part of the history)だよ」とジミーさんは静かに言った。「日本軍がこの島で戦ったのは事実さ。もちろん戦争中には多くの人が死んだし、フィリピン人だって苦しんだ。でもそのことで今の日本人を憎んだり責めたりする人はいないはずだ。少なくとも私はそうだよ。我々は友達だ。だから君が負い目を感じることはないんだよ」
彼はそう言うと僕の肩をポンポンと叩いた。そして笑顔でこう付け加えた。
「この家を案内したのは、君が日本人だからだよ。我々が生まれる前にも、ここを訪れた日本人がいた。彼らがどういう人で、どういうことをしたのかは、この家が知っている。そのことを君にも知ってもらいたかったんだ」
もちろんジミーさんの意見は全てのフィリピン人を代表したものではない。僕が全ての日本人を代表しているわけではないのと同じように。しかし既に起こってしまった出来事を「歴史の一部」として正当に位置づけようとする客観的な見方は、今のフィリピン人の多くに共有されているようだった。
赤く錆びついたヘルメット
パプアニューギニアのラバウルは日本軍が占領し、堅牢な要塞を築いたことで知られている。そのラバウルから四駆で3時間ほど進んだ密林の中に、旧日本軍が捨てたというヘルメットが残されていた。
65年ものあいだ雨風にさらされてきたためにヘルメットは赤く錆びつき、穴だらけになっていた。しかし手に持ってみると意外なほど重量感があった。
ヘルメットは全部で20個近くあった。1945年8月に日本軍が無条件降伏したあと、武装解除の命令を受けて出頭する前に、小隊がこっそり隠したもののようだ。どうせすべての武装は連合国軍に没収されてしまうのだから、せめて苦楽を共にしたヘルメットだけでもこの土地に残しておこうと思ったのだろうか。それとも万が一情勢が変わった時に備えて、もう一度戦うために隠したのだろうか。
いずれにしても、その重みのある赤茶けた金属は、暗く湿ったジャングルの中に不思議なほど馴染んでいた。あと数十年もたてば、跡形もなく土に還ってしまうだろう。それが当時の軍人たちが望んだことなのかはわからないが、たぶんそれでいいのだと思った。
村の子供がふざけて錆びたヘルメットを頭に被り、錆びた機関銃を構えて「ダッダッダッダ」と叫んだ。
かつてそれが何の目的で使われていたものなのか、この子もちゃんと知っているようだった。
帰らなかった日本兵
インドネシアのスマトラ島では、元日本軍兵士の子孫に出会った。インドネシアに進駐していた兵士のほとんどは敗戦後日本に帰ったのだが、中にはインドネシアにとどまり、インドネシア人として生きることを選んだ人もいたのだ。
「私の父は日本がアメリカに負けたことをとても恥じていた」と兵士の息子ノリハッサンさんは言った。「軍人として誇りが大きく傷つけられたんだろう。東京が焼け野原になり、広島と長崎に原子爆弾が落とされたと聞いて、日本の未来に絶望してもいたらしい」
ノリハッサンさんの父キタオカさんは敗戦後日本に戻らず、インドネシア軍の兵士となり、オランダ軍との独立戦争を戦い、イスラムに改宗してインドネシア人の女性と結婚し、インドネシアの市民権を得た。結局、1993年に75歳で亡くなるまで、一度も日本に帰らなかった。
ノリハッサンさんは日本語がほとんど話せないので、僕らの会話は英語で行われた。キタオカさんは家族の前でさえ全く日本語を使わなかったのだ。日本という国を捨て、インドネシア人になりきろうとしたのだろう。
「父が日本語を口にしたのは、昔の戦友と話すときだけだったよ。とても楽しそうに話している姿をよく覚えている。その戦友たちも、もうこの世にはいない」
アジアの側から戦争を見つめること
僕の祖父も南方戦線で戦った一人だった。ボルネオ島の密林の中で絶望的な行軍をさせられ、病や飢えによって仲間が次々と倒れる中、九死に一生を得て、日本に帰ってきた。その祖父も10年以上前に亡くなったので、僕のまわりには戦争の話を聞ける人が誰もいなくなってしまった。
しかしだからこそ、アジアを旅しているときに思いがけないかたちで太平洋戦争の記憶の断片と出会うことは、とても貴重な経験になった。
日本人の側からではなく、アジアの側から戦争を見つめること。そこで何が起こったのかを知り、それを記憶し続けること。そうすることによって、遠い過去の出来事でしかなかった戦争が、今の自分に繋がるものとして、確かなかたちを取り始めたのだ。
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