日本人の若者が海外旅行に行かなくなった、という記事を見かけた。若い世代には現状肯定感が強く、日本の生活に不満を抱いていないから、わざわざ面倒な海外旅行をしなくなったのでは、という分析だ。なるほど、一理ある。
日本の若者を外国で見かけなくなったという印象は確かにある。インドでも韓国人や中国人を見かけることはあっても、日本人にはなかなか会わない。しかし「それが問題か?」と聞かれると、考え込んでしまう。行きたくない人を無理に旅に連れて行ったって、特に得るものはないだろうから。
「グルメだ、エステだ、買い物だ」って煽りに乗せられて海外旅行に行った人が、「なんだ、グルメもエステも買い物も、日本の方が質が良いし安いじゃないか」って気付くのは当然の成り行きだし、そういう人はもともと旅を必要としていなかったのだから、無理に誘う必要はない。
旅人は「旅先でしか経験できないこと」を求めて旅をする。当たり前だ。日本に代替品があるのに、わざわざ外国に求める必要はない。モノや情報では満足できない人だけが、異国を歩く。旅とは昔からそういうものだったし、これからもそうであり続けるだろう。
20代前半まで、僕は旅に一切興味がなかった。パスポートすら持っていなかった。でも26歳の時にふとしたきっかけで長旅をするようになって、それが今の仕事に繋がっている。その「ふとしたきっかけ」が何だったのか、自分でもうまく説明できないけれど、未知の異国に対する漠然とした「憧れ」のようなものがあったのだと思う。
2001年当時、バングラデシュに関する情報なんて全然なくて、ガイドブックもなかったんだけど、どうしても行ってみたかった。そこには何か自分にとって素晴らしいものがあるような予感があった。そして実際、あったのだ、そこには。
情報過多が旅先への「憧れ」をスポイルしているのだとしたら、ガイドブックは閉じた方がいい。スマホの電源を切り、Wikipediaは読まない。まっさらな気持ちと、一片のイメージだけを持って、異国に降り立てばいいのだ。本当の旅は、そこから始まる。
ガイドブックには載っていないもの、本当の旅でしか目にすることができないものを求めて、今日もインドの田舎道を走っている。
たとえばそれは、インドの働き者たちの流す汗であり、鍛冶屋の熱気や、おがくずの匂いだ。ありのままのインドの暮らしに触れる旅を、これからも続けよう。
スキやクワなどの農具を作る村の鍛冶屋。炉に風を送るふいごには、自転車の車輪とペダルを再利用していた。
橋の上から川に網を投げる男。3センチぐらいの小魚が捕れる。
収穫した米を牛に踏ませて脱穀する人々。棒を使って稲藁を広げ、その上を牛が歩き回る。
古くなった布団を直す職人。硬くなった中綿を棒で叩いてほぐして、元のふかふかの布団にするのだ。