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ヒンドゥー寺院では、ダサインの日に多数の山羊と鶏を殺す。この男たちは朝から150頭の山羊と、数千羽の鶏の首をはねたのだそうだ。 |
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僕は以前、モンゴルの遊牧民が羊を解体する場面を間近で見たことがあるのだが、その様子はダサインにおける山羊殺しとは大きく異なっていた。
モンゴル人は草原に一滴の血も落とすことなく解体作業を行っていた。実に手際が良く、無駄な動きは何ひとつなかった。小さな刀だけで、一匹の羊がたちどころに骨と肉とに切り分けられていく様は、洗練された職人芸を見ているようだった。
ネパールのダサインにおける山羊殺しは、ひとことで言えば「血の儀式」である。家の庭や壁も、人々の手や顔も、みんな山羊の体から噴き出る鮮血で赤く染まる。「ダサインにおいて最も重要なのが、新鮮な血なのだ」と村の長老は言う。流れる血はヒンドゥーの神様へ捧げられる供物なのである。
これがヒンドゥー教徒にとっての神聖な儀式であることは理解できたが、このような光景を見慣れていない僕にとっては、やはりショッキングだった。血を見るのが苦手な人なら、目を背けたくなるだろう。欧米の動物愛護家なら、非難の声を上げるかもしれない。
ネパール人の中にもこの儀式から目を背ける人がいた。それがガイドのアルンだった。
「だって可哀想じゃないですか。とても見ていられないですよ」と彼は顔をしかめた。
「子供の頃からずっと見てきたんじゃないのかい?」
「それはそうですけど。でも子供の頃から嫌だったんです。おとなしい山羊に向かってナタを振り下ろす人の気持ちがわからない」
しかしそう言うアルンが、解体され、調理された山羊の肉をむしゃむしゃと頬張っているのは、どう考えても変だった。殺しの現場は残酷だから目を背けるが、その肉は美味しいから食べるというのは、明らかに矛盾しているように思えた。
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首を落とされた山羊は、すぐに毛をむしられて解体される。熱いお湯をかけたあとに毛をむしっていく。 |
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解体が終わると切り分けた肉をはかりに載せて、等分にしていく。 |
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生きているものが一瞬のうちに命を奪われ、どくどくと赤い血を流しながらのたうち回る場面を、平常心で見つめるのは難しい。日常の中に潜む暴力が露わになる残酷な儀式を目の前にして、心がざわめかない人はいないだろう。けれどその肉を食べる当事者が、この場面から目をそらすのはフェアーではない。僕はそのように感じていた。
僕らは誰かの命を奪って生きている存在である。別の命によって生かされている。たとえベジタリアンであっても、植物の命を食べていることには変わりない。僕らが動物である以上、そのような現実から決して逃れることはできない。
僕らは生きるために殺し続ける。そうである以上、残酷さから、罪深さから、血の赤さから、目を背けるべきではない。現実をあるがままに受け入れ、罪深さを認めることによって、食べ物となる他者に対する感謝の気持ちが生まれてくるのだから。
日本人はネパール人以上に大量の肉を食べているが、一部の人を除いて命を奪う現場を目にすることはない。肉はシステマティックに解体され、スライスされ、パックされた状態でスーパーの棚に並ぶ。しかし、それらは紛れもなく「僕らが」奪った命なのだ。
ともすれば忘れてしまいがちになるその事実を、山羊殺しの儀式は僕に改めて突きつけてくれたのだった。
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普段の献立はご飯と豆スープ(ダルバート)、野菜のカレー(タルカリ)、漬け物(アチャール)である。 |
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首を切り落とされた山羊は、すみやかに解体され、調理される。親戚や近所の村人をもてなし、一緒に肉を味わい酒を飲むというのが、ダサインの主たる目的なのである。
ネパールの山村では、肉は毎日食卓に上るものではない。普段はご飯と豆スープと野菜カレーに、せいぜいミルクか卵が付くぐらいである。だから、肉をお腹一杯食べることができるダサインは、それだけで特別なハレの日なのである。
「ミトー・チャイナ?」
僕が山羊肉のカレーをひとくち頬張ると、すかさず奥さんが訊ねてきた。これは「美味しくありませんか?」という否定疑問文である。
「ミトー・チャ!」
美味しいですよ、と僕が答えると、奥さんはほっとしたように顔をほころばせる。このようなへりくだったものの言い方というのは、日本語とも共通しているものである。「美味しいですか?」「はい、美味しいです」というやり取りは直接的なので敬遠され、「美味しくないでしょう?」「いえいえ、とても美味しいです」というやり取りが、丁寧な言い方だとされているのである。
ネパール語は日本語と同様に敬語の種類が豊富である。上下関係がはっきりしている村社会では、年長者を敬うという秩序が大切にされているのだろう。しかしカトマンズのような都会では、上下関係はそれほど重要視されていないので、敬語を使う機会は減っているという。
敬語というものは、敬う相手がはっきり認識できて初めて効果を発揮する。最近、日本でも敬語が乱れていると指摘されているけれど、これも日本社会において以前よりも上下関係が曖昧になってきたことが原因のひとつなのではないかと思う。
奥さんたちの手前、「美味しいですよ」と答えたものの、正直なところ山羊肉は僕の口には合わなかった。ネパールでは山羊肉があらゆる肉の中で最も高価で美味しいとされているのだが、食べ慣れていない僕にとっては、クセが強くて脂っぽく感じられ、あまり美味しいとは思えなかった。
村人たちの食卓にもっとも多く上る(つまり安価である)のは鶏肉なのだが、こちらの方が僕の好みに合っていた。雑穀や残飯などをついばみ、あちこち歩き回りながら気ままに育った鶏には、ブロイラーとはまったく違う味の奥行きがあった。
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