シェムリアップに滞在している間、僕は貸し自転車であちこちを回って写真を撮る一方で、毎日のようにモム達の家を訪ね、彼女の仕事場であるバコン遺跡の売店にも顔を出した。遺跡の前には観光客相手の売店が五軒ほど並んでいるのだが、そこに行けば片言の英語を話す女の子が何人かいたし、彼女達を相手に他愛もないお喋りをするのはなかなか楽しかったのだ。

 バコン遺跡はアンコールワットからは十キロ以上離れた場所にあるので、それほどたくさんの観光客が訪れるわけではない。知る人ぞ知る隠れた名所、という扱いなのだ。

 お客が少ないだけに、売店の売り子達の客引き合戦は凄まじいものだった。観光客の姿が遺跡の出口に現れるやいなや、売り子達は100メートル走のスタートダッシュのような勢いで一斉に駆け出していく。ミニバスに乗り込むまでの僅かな時間で商談を成立させなければいけないから、みんな必死なのだ。

 売り子達は右手にコカコーラを持ち、左手にはココナッツを抱えて、お客の元へ駆け寄る。相手が欧米人だと「Do you want cold drink?」と声を張り上げ、日本人に対しては「オニイサン ツメタイ ノミモノ イカガデスカ?」と話し掛ける。他にもイタリア語、中国語、ドイツ語の挨拶までマスターしているのだからたいしたものである。


 もっとも、物売り達の話す英語のレベルには、かなりのばらつきがある。日常会話を問題なく話せる子もいれば、挨拶と数字ぐらいしか理解できない子もいる。日常会話程度なら問題なく話せるモムにしても、英語での読み書きとなると全くのお手上げである。学校で習ったわけではないからだ。彼女達にとって英語というのは、外国人観光客と交渉する中で身に付けていった職業的スキルなのである。

 売り子の大半はモムのように近所に住む農家の若い娘であり、普段はおとなしい感じの子が多いのだが、いざ商売となったときには圧倒的な押しの強さを発揮する。押して押して押しまくる。買って買って買っての大合唱である。しかしそのような懸命の売り込みにもかかわらず、観光客の財布の紐はなかなか堅く、売り上げは伸び悩んでいるようだった。


「売り上げのほとんどは1200リエル(40円)のココナッツ・ジュースか、1000リエルのミネラルウォーターなのよ。これってもともとが安いものだから、あまり儲からないの」
 と教えてくれたのはリナという女の子だった。二十一歳のリナは売り子仲間の中でも一番元気がよく、一番流暢に英語を話すことができた。

「このバコン遺跡はアンコールワットから離れた場所にあるでしょう。だから旅行者がやってきたとしても、ほとんどが最終日なのよね。みんなお土産は既に買っているから、ここでは何も買わないのよ」
 リナはそう分析する。彼女の言う通り、ここに来る観光客は既に他の遺跡で物売りの洗礼を充分過ぎるほど受けているので、物売りを軽くあしらう術を身に付けてしまっているようだった。

「ほかの場所で商売するわけにはいかないのかい?」
「それはダメね」とリナは首を振る。「アンコールワットに行けば、もっとたくさん売れるってことは知っているのよ。でも私の家はこの近くだし、ここで商売をするしかないのよ」
 リナによると、売店をどこに構えるかという縄張りのようなものは既に決まっていて、今から変えるのは難しいということだった。

 しかし売り上げが伸びない原因は、場所の悪さだけではないように思う。アンコールワットの観光開発が進み、大きな利潤をもたらすようになったにもかかわらず、遺跡の周りの売り子達が売る土産物は以前とまったく同じものなのだ。遺跡のシルエットがプリントされたセンスの悪いTシャツ。どうやって使ったらいいのかわからない竹の笛。質の悪い絵はがき・・・。よほどの物好きか、押しに弱い人でなければ買わないだろうというチープな品々ばかりである。

「これはどこで仕入れてくるの?」
 僕はリナがいつも右手に抱えている「クロマー」という名前のカンボジア式スカーフの束を指さした。彼女には悪いけれど、生地もデザインもいかにも安物臭いものだった。

「シェムリアップの市場で買ってくるのよ」
 リナは青マンゴーの細切りを囓りながら、ぶっきらぼうに言った。スカーフの売値は一枚一ドルだが、卸値はもっと安いという。しかし「安かろう、悪かろう」が通用するのはお金のないバックパッカーに対してだけであって、今やアンコールワットを訪れる大部分は、安さよりも質の良さを求めている裕福な観光客なのである。その辺を考えて売り物を工夫すれば、まだまだ売り上げが伸びる余地があるように思う。実際、シェムリアップの町には、質の良いシルクを使った服を売る店や、手の込んだ民芸品などを高めの値段設定で売る店もちらほら現れているのだ。

「それはわかってるのよ」とリナはため息をついた。「だけど私には何もできないの。シェムリアップで仕入れてきた品物をここで売る。それが私の仕事なの」
 売れ行きが芳しくないことはわかっているけれど、末端の売り手であるリナが現状を変えることは難しい。今のところ彼女にできるのは、作り手の意識が変わるのをじっと待つことだけなのである。



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