|
|
|
|
|
|
|
|
祭りが終わったあとのビチヤの町をぶらぶらと歩いているときに、イスマイールさんと知り合いになった。その名が示す通りムスリム(イスラム教徒)で、家具工房の親方をしているおじさんである。にこやかで面倒見が良く、それでいて押しつけがましさのない好人物だった。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
インドの道路標語には韻を踏んだ面白いフレーズが多い。
Safety on road is safe'TEA' at home. |
|
|
|
|
|
|
|
|
夕食はイスマイールさんの家でご馳走になった。チキンのカレーとチャパティとご飯、大根とタマネギのサラダ。どれもスパイスが控えられた素直な味つけで、その辺の食堂よりはるかにおいしかった。どれも地元の新鮮な食材で、化学肥料などは使われていないから味がいいのだとイスマイールさんは言う。
奥さんが運んできた料理の皿は、テーブルの上ではなく、床に敷いたゴザの上に直接並べられた。僕らはそれをあぐらをかいたまま、右手を使って食べた。
「あなたは家具を作るのが仕事なのに、テーブルや椅子は使わないんですか?」と僕は訊ねてみた。
「作るのと使うのは別なんだよ」イスマイールさんはちょっとバツが悪そうに笑った。「それにこっちの方が慣れているし、リラックスできるんだ」
まぁお酒を飲めない酒屋もいれば、タバコを吸わないタバコ農家もいるのだから、家具を使わない家具職人がいたって不思議じゃないんだけど。
彼の工房では15人の職人を雇って、机や椅子やベッドなどを作っている。このあたりの森からとれる質の良いチーク材を使ったお金持ち用の高級家具が中心だそうだ。
「君は日本のお金を持っているだろう? ちょっと見せてくれないか?」
食後のお茶を飲んでいるときにイスマイールさんが切り出した。実はこれはインドを旅する旅行者と地元の人たちとの間でもっとも頻繁に交わされる会話のひとつである。インドではほぼ毎日のように誰かから「あなたの国の通貨を見せてくれないか」と聞かれるのだ。外国のお金や切手を収集している人は他の国にもいるが、インド人ほど熱心な国民はどこにもいなかった。
カルカッタの博物館にも「世界の硬貨」を並べたコーナーがあった。パキスタンやフランスやアメリカなど世界各地の通貨を解説なしにただ並べているだけなので、僕には何が面白いのかさっぱりわからなかったのだが、インド人の見学者はとても興味深そうに覗き込んでいた。根っからの「貨幣好き」なのだろう。
僕はこういう時のためにと財布の中に入れておいた五円玉をイスマイールさんに渡した。
「これ、もらってもいいのかい?」
彼は五円玉に空いた穴に蛍光灯の光をかざしながら言った。やはり穴の空いた硬貨は珍しいらしい。
「もちろんいいですよ。でも2ルピーぐらいの価値しかないものなんです」
「いや、それは関係ないんだ。ありがとう。本当にありがとう」
イスマイールさんは心から喜んでいるようだった。五円玉の価値に見合う喜びの200倍ぐらいは喜んでくれたと思う。というわけで、これからインドを旅する方はぜひ日本の十円硬貨や五円硬貨を用意していただきたい。安上がりなうえに荷物にもならず、それでいてとても喜んでもらえるお土産なのだ。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
山岳地帯にいた羊の群れ。小さな池に水を飲みに来ているようだ |
|
|
|
|
|
|
|
|
僕らの話題はモノの値段に移った。イスマイールさんは僕の時計やカメラやバイク、着ている服から履いているサンダルにいたるまで、ありとあらゆるものの値段を訊ねた。これまたインドではおなじみの会話であり、失礼に当たることではない。日本では値札の付いた商品を買うのが当たり前だが、インドでは定価がないものを商売人と交渉しながら買うのが当たり前なので、日常的に「それいくらなの?」と聞いて情報を収集することが欠かせないのだ。
「日本では牛の肉を食べるって聞いたけど、1キロいくらなんだい?」
「牛肉1キロ? そうですねぇ、1000ルピー(2000円)以上はしますね」
100グラム200円の牛肉というのは安い方である。それでもイスマイールさんの驚きは大きかった。
「1000ルピーだって?」と彼はびっくりするほどの大声で叫んだ。「そりゃ本当かい? インドだったら1キロ100ルピーもしないよ。鶏肉だって山羊の肉だって60ルピーぐらいなものだ」
「日本では肉は高いんですよ。最高級の牛肉だったら1キロ1万ルピー以上しますから」
「1万ルピーだって?」
イスマイールさんは漫画みたいに目をまん丸くした。
「肉1キロが1万ルピー? いや、とても信じられないね。私は日本という国が好きだ。人々はよく働くし、頭もいい。テクノロジーがとても発達していて、町は清潔で、人々は礼儀正しい。そう聞いている。しかし、どうしてそんなに頭のいい人が、牛肉にそんなに高いお金を出すんだ? 日本という国がわからなくなってきたよ」
混乱させて申し訳ないと思うのだが、これは事実である。日本では食材も交通費も家賃も全てが高いのだ。
「私なんかが日本に行ったら、あっという間に全財産が無くなってしまうね。インドにいた方がいいみたいだな」
インドの物価は世界屈指の安さである。例えば塩1キロが5ルピー(10円)。砂糖1キロが25ルピー。ブドウ1キロが40ルピー。トマト1キロが7ルピー。大根1キロが5ルピーといった具合。魚は川で獲れる天然物が1キロ100ルピーで、養殖物が50ルピーほど。これでも10年前に比べたら高くなったんだ、とイスマイールさんは言う。
「日本は物価が高いんだけど、給料も高いんです」
「平均するとどれぐらい?」
「そうですね。月に10万ルピー(20万円)から20万ルピーぐらいかな」
「20万! 確かにそれだったら食べ物が高いのもわかるね。うちの工房の職人には月3000ルピー払っている。インドではそれぐらいでも十分に暮らしていけるんだ。インドでリッチと言われるのは月5万ルピー以上稼ぐ人だけど、せいぜい人口の10%ぐらい。それでも車を持つのは難しいよ。ビチヤの人口は1万人ぐらいだが、自家用車を持っているのは20人もいない。私も古いヤマハのバイクを一台持っているだけだよ」
イスマイールさんの趣味は手相を見ることだそうで、僕の手相も見てもらった。昔、先生について勉強したことがあるらしく、懐中電灯と虫眼鏡を持ち出してきて、とても細かい線まで丹念に見てくれた。
「うん、君の手相はとてもいいよ。運が強い人だ」
彼は手の側面をさらに念入りに調べてくれた。小指の付け根の下、1センチぐらいのところだ。
「ほら、ここに短い線が見えるだろう? これが『トラベラー・ライン』だ。これがあるってことは、君は旅に向いているってことだな」
「トラベラー・ライン? そんなものがあるんですか?」
「そうだ。しかし誰もが持つものじゃない。私の手にはないよ。私の手相はいたってノーマルだ。家具屋には向いているかもしれないが、旅人には向いていないようだね」
トラベラー・ライン。旅人線。そんな手相があるなんて初耳だったが、「この手は旅に向いている」と言われて悪い気はしなかった。
もちろん「良い手相」を持っているだけで、セレンディピティに恵まれるなんてことはないだろう。偶然がもたらす幸運に巡り会うためには、なによりもまず行動しなければいけない。それがセイロンの王子たちの逸話が教えてくれるところである。目的はなんだっていい。目的地はどこだっていい。ただ、地図を見て「何となくこっちだな」でいいのだ。
僕はいつもそんな風に旅をしている。まずバイクにまたがる。そして地図を広げて、今日の行き先を決める。とりあえず、でいい。どうせその目的地にたいした意味はないのだ。そこに「向かう」ということが大切なのだから。
セレンディピティをフルに発揮するために、僕は走り続ける。
今日も明日も明後日も。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|