|
|
|
|
|
|
|
|
何を隠そう、水牛好きである。
黒々とした存在感のある巨体。何を考えているのかさっぱりわからない飄々とした表情。クロワッサン型の立派な角。どこをとっても魅力的な動物だ。ひとことで言えば「絵になる」のである。
田植えを間近に控えた2月はじめの東ティモールは、水牛ファンにとって心躍る光景のオンパレードだった。機械化があまり進んでいない東ティモールの農村で、水牛は田植えのために必要不可欠な労働力となっていたのだ。
乾季と雨季が比較的はっきりと分かれている東ティモールでは、田植えは雨季も半ばを過ぎた頃に行う。乾燥した棚田に水を引き入れ、そこに何頭もの水牛を歩かせて土と水を混ぜ合わせ、田植えに適した柔らかい下地を作るのだ。普段はのんびり草を食べながら、ぬぼーっと過ごしている水牛たちが最も必要とされ、最もこき使われるのがこの時期なのである。
かつて「牛歩戦術」という言葉が流行ったことがあった。あれは確か野党の国会議員が採決を遅らせるために、まるで牛の歩みのようにゆっくり進むという戦術だったと記憶しているけれど、東ティモールの田んぼで行われていた「牛歩戦術」は、それとは対照的にとにかくダイナミックだった。
水牛たちは泥を思いっきり跳ね飛ばしながら猛然と突進していた。スローな動物というイメージを覆すように、その巨体を揺らしながら田んぼの中を走り回っていた。この「牛歩戦術」を取り仕切っている若い農夫たちは、長い棒で水牛たちの尻を叩き、独特の節回しの歌をうたいながら水牛を追っていた。伸びやかで力強いその歌声は、初めて耳にするはずなのにどこか懐かしさがあった。
ひと仕事を終えて田んぼの中にたたずむ水牛たちは、またいつものクールな表情に戻っていた。あれだけ激しく走り回った直後だというのに、その顔に疲れた様子は浮かんでいなかった。呼吸も乱れていない。艶やかに黒光りしているはずの肌が、泥を被って茶色く粉を吹いているところだけが、いつもと違っていた。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
小さな女の子はまだ見習い期間のようだが、手つきは大人のそれと変わらなかった。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
「牛歩戦術」による代掻きが終わると、女性や子供たちが田んぼに入って苗を植える。大人も子供もみんな腰をくの字に曲げて、一束ずつ手で苗を差し込んでいく。田植えは一家総出で行う仕事なのだ。
「あんたも手伝ってみるか?」
と言われたので、僕もサンダルを脱いで田んぼの中に入り、おっかなびっくりで田植えを手伝うことになった。もちろん全くの素人だから「手伝う」なんてレベルではない。ベテランのおばちゃんたちが目にも止まらぬスピードとは比較にもならなかった。
それでもサンダルを脱いで田んぼに入るのはとても気持ち良かった。ズボンは泥で汚れてしまうし、ヒルに吸い付かれて足から血が出たりもしたけれど、そんなことは全然気にならなかった。田んぼという暮らしの基盤に足を踏み入れることで、人々の素顔に半歩近づけたような気がした。
|
|
|
東ティモールを旅するあいだ、僕はいくつもの田んぼを歩いた。そこで気付いたのは「田んぼにも個性がある」ということだった。沿岸部にある田んぼは生温かく、山間部の田んぼはひんやりとしていた。泥の粘りけや、漂っている匂いも田んぼごとに違っていた。代掻きするのに水牛ではなく、馬を歩かせているところもあった。
東ティモールに残る手つかずの自然は、時間を忘れて見とれてしまうほど美しいものだったが、田んぼと水牛と農民が作り出す「暮らしの場」としての自然は、それ以上に強く僕の心を捉えた。朝の透明な光の中に鮮やかに浮かび上がる苗の緑。青空と白い雲とのコントラスト。引き入れられた清浄な湧き水。田んぼには人々が少しずつ自然に手を加えて作り上げた、調和の取れた美があった。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|