3102 ダッカには合計6泊した。ひとつの街に長くても3泊程のペースで移動を繰り返していた僕にとっては、これは異例とも言える長さだった。もっとも、僕がダッカ滞在を望んでいたわけではなく、インドビザの取得に手間取って仕方なく居続けただけなのだが。

 インド大使館はビザを求める外国人が多いのに、それを処理する事務員の数が足りないらしく、行くたび(結局3回も足を運ぶことになった)に受付で何時間も待たされた。
「俺たちは、いつまで待たされるんだろうな?」
「あいつらは、きっとインドまでビザを取りに行っているんだよ」
「リクシャを漕いでインドまで行ってるのかもしれないね」
 僕が隣にいたオーストラリア人の旅行者と冗談半分で文句を言い合っていると、横から東南アジア系の男が口を挟んだ。

「でも、あんたらはどこでも自由に旅行ができるんだろう? パスポートがあればビザが貰えるんだろう? それで十分じゃないか」
 そう言われると、二人とも返す言葉がなかった。どこへでも旅をすることができるというのは、限られた国に住む限られた人間の特権なのだ。僕が今まで旅してきた国でも、ほとんどの人は外国の地を踏むことなく死んでいく。それが当たり前だった。

 
 

汚水が流れ着くブリゴンガ川

3342 こうして心ならずもダッカに長居することになったわけだけど、この街を歩き回るのはなかなか楽しかった。特に「オールドダッカ」と呼ばれるイギリス植民地時代からの旧市街地区は、毎日歩いても飽きなかった。

 オールドダッカは様々な商店や町工場が集まり、その間を迷路のように入り組んだ路地が通る街だった。街はブロックごとに役割分担が決められていた。鉄板を加工する区画を抜け、履物屋街を曲がり、コンデンサと銅線が並ぶ路地を抜けると、金物街に出る、といった具合だ。

 路地は細く複雑に曲がりくねっていて、その脇を流れるどぶ川ははひどい悪臭を放っていた。男達がこのどぶ川に小便をしているからだ。家の中に便所がないわけではないと思うのだけど、男達がその辺に座り込んでじょぼじょぼと小便をしている姿は、バングラデシュでは当たり前に見られた。

 オールドダッカをひたすら南に進むと、ブリガンガ川に行き当たる。船着き場には手漕ぎの渡し船やフェリーが数十隻並び、頭に巨大な荷物を載せた男達が、忙しく荷物の積み下ろし作業を行っている。

3339 コンクリートの堤防の上に座って、活気ある船着き場の様子を眺めていると、少年が「手漕ぎボートに乗らないかい?」と声を掛けてきた。ブリガンガ川を1時間遊覧して50タカだという。ちょうど街歩きにも疲れていた頃だったので、乗ってみることにした。

 ブリガンガ川は遊覧には不向きな川だった。なにしろここは街が吐き出す生活排水や、町工場から出る毒々しい色の汚水が、最後に流れ着く場所なのだ。
 それでも街中の喧噪に比べれば、川の上はまるで別世界のように気持ちが良かった。ここには排気ガスは届かないし、クラクションノイズも聞こえない。涼しい風が吹き抜け、空は広い。川で洗濯する女や水遊びをする子供達に手を振りながら、ボートはゆっくりとブリガンガ川を下った。

3389 船着場から西に向かって歩くと、様々な露天商を見ることができる。
 女性が10人ばかり輪になって集まっている中心には、カキぐらいの大きさの貝を刃物を使ってこじ開けている女がいた。女はこじ開けた貝から、薄桃色の丸い玉を取り出して「ほら、よーくご覧よ」という風に見物人に見せて回る。取り巻いた女達は、真剣な表情で彼女の口上を聞いている。

 その様子からすると、女は貝の中から出てきた玉を「本物の真珠だ」と言って売っているようだった。だけど、このブリガンガ川で天然物の真珠(あるいはそれに準ずる宝石)が採れるはずがない。大方、どこかから持ってきた貝にイミテーションの真珠玉を仕込んでおいて、ご丁寧に客の前で開いて見せているのだろう。

 しかし、真珠の売れ行きはなかなかのものだった。客の何人かはサクラなのかもしれないが、僕が見ている間だけでも5,6人の奥さんが買っていった。たぶん奥さん達も、これが本物の真珠ではないことはわかっているのだろう。真珠を買えるような身分でないことは承知の上で、貝の中から出てきた不思議な宝石という「お話」に対してお金を払っている、僕にはそんな風に見えた。

 
 

コブラ使いとインコ占い

 

3397 真珠売りの女から少し離れたところには、コブラ使いの老人がいた。インドから流れてきたのか、それとも生粋のバングラ人なのかはよくわからないが、いずれにせよヘビ使いの腕はあまりよくなかった。老人が笛を吹き鳴らしても、コブラの方はちっとも言うことを聞かないのだ。客が少ないのが不満なのか、ダッカの空気の悪さに萎えているのか、コブラはいつまでも地面を徘徊するばかりで、鎌首をかっと持ち上げることはついに一度もなかった。

 しばらくすると、老人は言うことを聞かないコブラの首を掴み、木箱に放り込んで蓋をしてしまった。気乗りしないコブラに、はやばやと見切りを付けたらしい。そして、今度はパチンコ玉のような銀色の球体を取り出して、口上を述べ始めた。こちらの方がずっと熱心だった。

 老人の身振りから推測すると、銀色の玉は精力剤のようだった。説明に入る前に、見物人の中から女と子供を追い払ってから、「この薬の秘密は、殿方だけにこっそりと教えてやるのじゃ」みたいなことを言う。でも、精力剤とコブラとの間にどのような関連性があるのかは、結局わからなかった。コブラは単なる客寄せの手段だったのかもしれない。

3406 コブラ使いの隣には、肩に緑色のインコを乗せた老人が座っていた。白いムスリム帽を被り、牛乳瓶の底のような度の強いメガネをかけた、偏屈そうな老人である。
 彼の前には封筒が20ほど並べてあって、お客がやって来ると肩のインコを封筒の前に置く。すると、インコはすたすたと歩き出し、並んだ封筒の中からひとつを咥え、老人に渡すのだ。老人は封筒の中から一枚のカードを取り出して、そこに書かれている文面を客に読んで聞かせる。「幸運の緑のインコが占うあなたの未来」と言ったところだろうか。インコに占いの能力があるのかどうかは別としても、よく訓練されたインコの動きをただ眺めているだけでも楽しかった。

 料金を訊ねると3タカ(6円)だというので、僕も占ってもらうことにした。インコは何の迷いもなく、右から3番目の封筒を咥えて戻ってきた。老人が話す占いの内容はもちろん僕にはわからないのだが、見物人の中にカタコトの英語を話せる男がいて、懸命に訳してくれた。
 彼はブリガンガ川の下流を指さして、「ユー ゴー ウェスト」と言った。西に行け、と言っているようなのだが、西に行けば幸運が待っているのか、それとも西は危険だから行ってはいけないのか、その辺のところはよくわからなかった。とにかく西に何かがあるのだろう。

 言うまでもなく、バングラデシュの西にはインドがあり、その先には中東があり、更に先にはヨーロッパが待っている。幸運であろうが、危険であろうが、僕は西を目指す。偶然かもしれないが、緑色のインコは見事にそれを当ててみせたのだ。
「そうだよ。僕は西に行くんだ」
 僕がそう話し掛けると、インコは老人の肩の上で小さく首を振った。

 僕は堤防の上に立って、ブリガンガ川の下流を眺めた。いくら目を凝らしてみても、西の空に何があるかは、まだわからなかった。