2001年1月1日。20世紀から21世紀への変わり目を、僕は蚊帳の中で迎えた。
 僕はベトナムに来るまで、「蚊帳」というものをよく知らなかった。「囲炉裏」や「茅葺き屋根の家」なんかと同じように、そういうものがあることは知っていたけれど、実際に使ったことも実物を見たこともなかった。けれど、エアコンが普及していないベトナムでは、蚊帳は今でも日常に欠かすことの出来ない道具である。

 ベトナムのホテルには、ベッドの上に「蚊帳ボックス」なる木箱があって、それを開けると半透明のネットがするすると出てくる仕掛けになっている。その中はとても居心地が良かった。単に蚊の進入を防いでくれるだけでなく、小さなネットの中にすっぽりと包まれていると、自分が繭の中のサナギになったような、不思議な安らぎを味わうことができた。

 僕は蚊帳の中から、部屋の隅にある古い白黒テレビをぼーっと眺めていた。古い白黒テレビの画面には、国旗掲揚式の模様が映し出されていた。真ん中に大きな星をあしらったベトナムの国旗が、国歌の演奏と共にゆっくりと昇っていく。整列した兵隊がその様子をじっと見つめる。日本のテレビでは、サザンオールスターズか誰かの年越しライブを放送しているだろう。しかしベトナムでは年越し国旗掲揚ライブである。世界には実に様々なカウントダウン番組があるものだと感心してしまう。

 国歌の演奏が終わり、国旗がポールのてっぺんに翻ったのは11時57分だった。余ってしまった3分の間、兵士達は何となく手持ち無沙汰な表情で、なおも国旗を見上げていた。時間にルーズなことで知られるベトナム人気質が、カウントダウンにまで発揮されたのかもしれない。

 0時を過ぎてしばらくすると、窓の外から花火の打ち上がる音が何度か聞こえてきた。だけど、変わったことと言えばそれぐらいのもので、21世紀を迎えてもホーチミン市街はいつもと同じだった。ベトナム人にとっては、新世紀よりも旧正月(テト)の方が重要なのだろう。
 でもとにかく、区切りは区切りである。古い世紀が終わって、新しい世紀が始まったのだ。近未来的な響きを持っていた「21世紀」という言葉に、自分が含まれているというのも何だか妙な感じだったが、もっと奇妙なのは、それをベトナムの蚊帳の中で迎えているということだった。

 僕はもう一度テレビに目をやった。兵士は相変わらず同じ姿勢を保って、国旗を見上げていた。世紀が変わっても、何か特別なことが起きるわけじゃない。そのことを確認してから、僕は部屋の明かりを消した。

 

 

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国境はただの草原だった

 朝の7時にカンボジア国境行きのバスに乗った。ホーチミン市から国境の町モックバイまでは道路も比較的整備されていたので、何の問題もなく2時間半で着いた。

 僕にとって国境は未知のものだった。国境を越えるのも初めてなら、それを間近で見るのも初めての経験だった。もちろん概念としての国境線――国と国とを分け隔てるボーダーライン――は理解している。だけど実際にそれがどんな形をして、どう機能しているものなのかはわからない。ニュースで見る国境線(例えば朝鮮半島の38度線や、かつてのベルリンの壁)のように、鉄条網が張り巡らされ、機関銃を持った兵士がうろうろしているような、緊張をはらんだ場所なのだろうか、などと想像を巡らせた。

 しかし、そこはただの草原だった。鉄条網などどこにもなく、目立つ白線が引いてあるわけでもない。一頭の牛が仮想の国境ラインを越えて、カンボジア側に抜けていく。そのあまりのも牧歌的な様子に、僕はすっかり拍子抜けしてしまった。牛にとっては、ベトナム側の草を食べようが、カンボジア側の水を飲もうが、そんなこと知ったことじゃないのだろう。

 初めての陸路での国境越えも、実にあっさりしたものだった。厳重な荷物チェックがあるわけでもなければ、係官に賄賂をせびられたりすることもない。純粋な事務手続きだけである。イミグレーションで出国カードを書き、パスポートにスタンプを貰って、歩いて国境を越える。「Vietnam」と書かれた門をくぐり、唐草模様のような文字(おそらくクメール語でカンボジアと書いてあるのだろう)が描かれた門を抜けると、そこはもうカンボジアだった。

 

これは地雷で空いた穴?

1395 カンボジア側で待っていたミニバスに乗り換えて、首都のプノンペンに向かった。走り出してしばらくすると、風景が少しずつ違った色合いを見せはじめた。南ベトナムの広大で豊かな水田は姿を消し、その代わりに茶色く乾燥した草原が広がるようになった。

 でも一番違っていたのは、道路だった。ホーチミン市からプノンペンまでは一本の幹線道路で結ばれているのだが、国境を越えた途端、路面の状態は悲劇的に悪化するのだ。舗装はあちこちで剥がれ、直径2~3m程の月面クレーターを思わせる穴が、ぼこぼこと口を空けている。

「これって、地雷で開いた穴でしょうか?」
 隣に乗り合わせた日本人旅行者が話し掛けてきた。
「よくわからないけど、たぶん違うと思いますよ。単に道路の作りが悪いだけなんじゃないかなぁ」
 ぼくがそう答えると、彼は少し安心したように微笑んだ。
 カンボジアが数年前まで内戦を続けていたのは事実だけど、ポルポト派の最後の拠点はタイ国境に近い北部の辺境地域だったはずだ。道路がこんな状態なのは、交通量が多いわりに路面が軟弱なせいだろう。基礎を作らずに表面にアスファルトをざっと引いているだけだから、少しでも路面が削れると、たちまち大きな穴ぼこになってしまうし、雨季の激しい降雨がその穴をより深く大きくしているのだ。

 ベトナム側とカンボジア側との道路のあからさまな違い―――それはおそらく両者の国力の違いを表しているのだろう―――は、国境線を越えたのだということを、何よりもはっきりと僕に印象付けた。

 面白いのは、道路がこんなにひどい状態であるにもかかわらず、たまに目にするガソリンスタンドがどれも場違いなほど新しく立派なことだった。テニスコートが3つは入りそうな敷地の上に鉄骨製の巨大な屋根が架かり、外資系石油会社の真新しい看板が光っていた。しかしその大きな図体の割に、利用客はまばらだった。いつでもバイクの長い列が出来ていたベトナムのガソリンスタンドとは大違いである。これからの自動車の普及を見越して、先行投資をしているのかもしれないが、なんだか不思議な光景だった。

 バスの運転手は、穴だらけの国道1号線をラリードライバーのような豪快なハンドルさばきで進んだ。彼は慎重かつ大胆にこの難コースを攻めていたが、どちらかと言えば大胆さの方が勝っているようだった。穴を避け損なった場合、バスは右左に大きく傾き、時々ジャンプもした。これでよくパンクしないもんだと感心するぐらいだった。

「この道は『ダンシング・ロード』って呼ばれているんだ」
 と運転手が休憩時間に教えてくれた。確かに僕ら乗客は、尻を落ち着けて座っている暇もないほど揺られていた。前の座席に座っていた欧米人旅行者が、堪えきれず窓から嘔吐していたが、それも無理のないことだった。脳味噌がシェーカーに入れられて、カシャカシャと振られているような気分なのだ。「でもこの先はまだマシさ。『マッサージ・ロード』になるからさ」

 運転手の言う通り、そこからの道は幾分マシにはなった。だけどマッサージ気分でゆったり寛げるかといえば、全然そんなことはなかった。それどころか、いくつかの場所ではダンシング・ロードよりひどい穴が空いていた。比較的平坦だったのは、舗装が完全に剥がれてしまっている所だった。中途半端に舗装が残っていると、状況はもっと悪くなるのだ。それだったら最初から舗装なんてしなけりゃいいんじゃないかとも思う。
「2003年には、新しいハイウェーが完成するんだ」
 再び運転手が言った。「今度のは『スリーピー・ロード』さ。眠っている間に着いてしまうようになるよ」
 カンボジア政府が、国道1号線と平行にハイウェーを建設しているのは、どうやら事実らしい。でもその悠長な工事現場を見る限り、それが2年後に完成するというのは到底信じられなかった。2003年というのは、単なる運転手の希望的観測なのだろうか。どちらにしても、今の僕らにはあまり関係のないことだけど。

 結局僕らは、国境からプノンペンまでの直線距離にして約150kmの道のりを、6時間もバスに揺られ、脳味噌をシェイクされ続けることになった。それでも、パンクも故障もなく、無事に着いてくれただけマシだと言うべきなのだろう。
 2001年1月1日。このようにして僕は世紀を越え、そして国境を越えた。