8603 理塘から郷城、そして中甸へは、旅行者9人でミニバスをチャーターして行くことになった。その方がローカルバスを利用するよりも時間の融通が利くし、値段もたいして違わないからだ。誘ってくれたのは、理塘に向かうバスの中で一緒になったアーネストというドイツ人男性だった。

 アーネストさんはもう60歳を超えた高齢バックパッカーなのだが、その生き方もキャラクターもかなりユニークな人物だった。彼は若い頃から世界中を旅して回っていて、日本の大学に二年間留学していたこともあって、日本語も流暢に話すことができた。日本を離れた後、韓国に移り住み、教師をする傍ら、旅を続けているのだという。結婚は自由を奪うものだとして、生涯独身を貫いている。中国を訪れるのはこれで22回目で、もちろん中国語も堪能だった。

「あなたも長く旅をしているんでしょう?」とアーネストさんは僕に日本語で訊ねた。
「そうですね。中国が30ヶ国目です。あなたは今まで何ヶ国に行きましたか?」
「ちゃんと数えたことはありませんが、100以上ですね」
 アーネストさんは何でもない、という口調で言った。
「北朝鮮とブータンとイラクは行っていないけれど、あとはだいたい行っているんじゃないでしょうか。この三ヶ国は旅行者が自由に旅できないんです。そういう国を旅しても面白くない。だから今回もチベット人自治区には行かないんです」

8959 彼は15年前に一度チベット人自治区を訪れているのだが、その時は中国本土からチベット自治区の都であるラサまでバスで行けたのだという。しかし現在は、このルートを外国人が利用するためには、3万円以上もする法外な外国人料金を払わなければいけない。中国政府は外国人旅行者にチベット自治区内を勝手にうろついて欲しくないのである。

 このような手続き上の制約や、お金のこともあって、僕はチベット自治区へ行くことを諦め、その代わりに四川省の山奥にあるチベット人の住む町を点々と旅することにしたのである。
「でも、こっちの方が本当のチベット文化に触れることができるのかもしれません」とアーネストさんは言う。「今やラサはすっかり観光地化していて、中国本土の漢人がたくさん流れ込んで、つまらなくなったという話を良く聞きますからね」

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マルチリンガルな旅人

8690 僕と一緒にミニバスに乗り込んだのは、ドイツ人3人、スイス人1人、イギリス人2人、カナダ人1人、中国人1人という多国籍なメンバーだった。バスの前に固まったのは、ドイツ語を話す人達で、後ろの方に固まったのは英語圏の人々、そして真ん中に僕と中国人の男が並んで座った。

 アーネストさんは母国語のドイツ語の他に英語、フランス語、中国語、韓国語、日本語も堪能なので、自然とこの多国籍集団のまとめ役になっていた。何しろこの人は喋るのが大好きなのである。ドイツ語でジョークを飛ばしたかと思うと、それを英訳して後ろの連中にも聞かせてやり、さらに日本語で僕に話し、中国語でも話すというマルチリンガルな活躍ぶりだった。

 アーネストさんの話題は多岐に渡った。WTO加盟が中国経済に与える影響から、毛沢東とスターリンの違い、ロシアが北方領土返還に応じられない理由などを、独自の視点から話してくれた。彼がいてくれたお陰で、単調なバス移動も全く退屈しなかった。

 理塘から郷城までの道は一切舗装されておらず、交通量も極めて少なかった。ローカルバスの姿はほとんど見かけず、たまにすれ違うのはチベット人の遊牧民ぐらいだった。彼らは大きなヤクの背中にテントや家財道具一式を括り付けて、次の牧草地を求めて移動していた。

9036 このような辺境の土地を走る場合、途中に休憩のための食堂などは一切ないから、トイレ休憩を取るときも、「各自が好き勝手に用を足してください」ということになる。男性はその辺で立ち小便をしていればいいのだが、女性の場合はそういうわけにもいかず、茂みの中に入ってやることになる。適当な茂みがなければ、大きな岩陰の向こうとか、何か陰になる場所を探してしゃがみ込むというのが原則である。

 ところが、同乗者のスイス人の女の子は何を思ったのか、バスの窓から丸見えのところにいきなりしゃがみ込んで、用を足し始めてしまったのである。もちろんズボンもパンツも脱いで、お尻丸出しの状態で。これには唖然としてしまった。もしかしたら隠れ場所を探す余裕すらなかったのかもしれないが、やはりパンツを下ろす前には一度ぐらい周囲を見回していただきたい。本人は全く気が付いていないからいいのだが、見せられたこっちは本当に目のやり場に困ってしまった。

 
 

忽然と現れた天空の村

9064 郷城から中甸へ向かう道も、相当な悪路だった。ただでさえひどいデコボコ道だというのに、それに加えて朝から深い霧の中を走ることになったので、思うようにスピードを上げられなかった。
 分厚い霧がようやく晴れたのは、日がかなり高くまで昇ったあとのことだった。それまで5mと効かなかった視界が、舞台の幕が上がるように瞬く間にクリアーになった。そして僕は息を飲んだ。目の前に広がった深い谷の向こう側に、チベット人の住む集落が忽然と現れたからだった。

 それは切り立った斜面にしがみつくようにして建つ民家が集まった、小さな小さな集落だった。民家の下を白濁した霧が河のように流れ、ちぎれちぎれになった雲が屋根のすぐ上を漂っていた。雲の合間から突然現れた不思議な集落。それはあの「ガリバー旅行記」に出てくる空飛ぶ島・ラピュタのイメージそのままだった。

8741 その集落は、周辺とは明らかに隔絶されていた。深い谷の底まで降り、再び谷を登らない限りは、道路にアクセスすることもできないのだ。もちろん電気も通っていない。このような辺境の地に、彼らが住み着くようになった理由はわからない。住んでいた土地を追われたのかもしれない。長い流浪の末にここに辿り着いたのかもしれない。しかしいずれにしても、この村の現実離れした美しさは、他の何ものにも代えがたかった。
 雲の中に住む村人たち。彼らは神から与えられた土地を護る門番なのかもしれない。そんな空想がふと僕の頭をよぎった。

 1000万もの人々がひしめき合う典型的な大都市である成都も、わずか数十人が住むだけの天空の村も、同じ四川省の一部である。その事実は、中国のとてつもない広さと多様性を端的に示していた。中国にあって、「省」はひとつの国であり、「国家」はひとつの世界なのだ。

 やがて僕らを乗せたバスは、音もなく流れてきた濃い霧に飲み込まれた。一瞬だけ姿を現した天空の村は、再び霧の中に消えていった。