「冷凍バス」は朝の6時過ぎにチェンマイに到着した。もちろん冷房は朝まで止まらず、僕の体調は出発前よりも更にひどくなっていた。

 僕はホテルを選ぶ気力もなく、待っていた客引きに引っ張られるまま「パラダイス」という名前のホテルにチェックインした。たいていの安宿は、その名前の仰々しさに比例してチープになる傾向があるのだが、ここはまともだった。ダブルサイズのベッドにホットシャワー付きで120バーツ(360円)なのだから、文句の付けようがない。
 僕は部屋に荷物を置くと、そのままベッドに倒れ込んで、一日眠り続けた。中途半端なまま体に無理をさせるのは、さすがに懲りたのだ。

 ホテルのロビー横にはネットカフェも付属していたので、僕は日本の友達に「次はラオスに向かいます」とメールを打った。次の日に、さっそく友達からの返事が届いた。

「今、日本は記録的な大雪だというのに、Tシャツ1枚で過ごせるなんて羨ましい限りです。ところで、ラオスという名前はどこかで聞いたことがあるような気もするのですが、どの辺りなのかわかりません。バンコクやアユタヤ(だったっけ?)なら思い出せるのですが、ラオスって・・・サッカー選手?」

 そりゃラモス、なんて細かい突っ込みはどうでもいいとして、どうやら彼女は真剣にラオスをタイの地方都市か何かだと勘違いしているようだった。でも、僕にも彼女を笑う資格なんてない。僕が事前にラオスについて知っている知識はほとんどゼロに近く、ラオスの首都の名前(ちなみにビエンチャンという)すらよく知らなかったのだから。

 

縁のない国・ラオスへ

1742 ラオスという国が、南をタイに北を中国に挟まれた内陸国だというのは、バンコクで東南アジアの地図を広げてから初めて知った。「ブルキナファソ」や「トリニダード・トバゴ」よりは、やや身近に感じられるものの、自分には縁のない国という意味では、同じようなものだった。

 日本を発つ前に漠然と思い描いていた旅のコースにも、ラオスという名前はなかった。それが行ってみようという気になったのは、カンボジアのシェムリアップで一緒の宿に泊まっていた日本人女性が、盛んに勧めてくれたからだった。

「私はタイよりラオスの方が断然好きね。バンコクなんて、ゴミゴミしててうるさいだけよ」
 その時、僕らは『サルシ』という名前の缶入りのソフトドリンクを飲みながら話をしていた。
「相変わらずマズい」
 彼女は『SARSI』というロゴが大きく書かれたアルミ缶を見ながら言った。
「これ、ほんとにサロンパスの味がしますね」と僕は言った。
「だから言ったでしょ。日本じゃちょっと味わえないって。でもこの不思議な味が、意外と病みつきになったりするのよね」

 サルシを飲んだことがない人に、その味を説明するのは難しい。「サロンパスの味」というのは本当は正しくない。だって僕らはサロンパスを味わったことなど一度もないのだから。サロンパスのあのツンと鼻をつく匂いのするコーラ、という表現が最も近いだろう。値段は普通のコーラよりもいくらか安いのだけど、だからといってサルシを選ぶ人間は少ないと思う。
 それでも、彼女は「カンボジアに来たら、一度はサルシを飲まなきゃ駄目よ」と主張し、僕も好奇心から試してみたのだけど、結局半分も飲みきれなかった。

「で、何があるんです? ラオスには」と僕は話を戻した。
「そうねえ・・・」
 彼女はそこで言葉を区切って、サルシを最後の一口まで飲みきると、いかにも不味そうに顔をしかめた。
「何もないわ。行ってみればわかるけど、あそこには何もないのよ」

 何もない。この言葉に引かれて、僕はラオスに行くことに決めたのだ。彼女は少し変わり者だったが(なにしろ不味いとわかっているジュースを買って飲むような人である)、だからこそその言葉を信用してもいいような気がした。それに、プノンペン郊外の「何もない村」での経験が、僕の向かうべき場所を示しているように思えたのだ。

 

チェンコーンからメコン川を渡る

 パラダイスホテルで丸二日間休養した後、僕は再びバスに乗り、ラオスとの国境の町チェンコーンに向かった。今度のバスはツーリスト向けの過剰サービスバスではなく、普通の長距離バスだった。

 乗客の半分は徴兵されたばかりの若い兵士で、みんな髪を短く刈り上げ、迷彩服に黒いブーツといういかつい格好をしていた。彼らは休暇の間に里帰りして、また国境の基地に戻っていく若者のようだった。そのうちの何人かは、バスが発車する間際まで恋人と抱き合って、別れを惜しんでいた。

 タイも北部に入ると山がちになり、窓から見える風景も、水田と椰子が続く南国の平野から、ススキやツツジや竹といった多種の植物が入り交じる斜面へと変化していった。バスは、急な坂道をローギアで息も絶え絶えに登っていき、トヨタやホンダの四輪駆動車に次々と追い抜かれていった。

 チェンコーンは小さな町だったが、それでも町としての体裁は一応整っていた。タイの北端に位置し、メコン川を挟んでラオスと国境を接する辺境の地でありながら、スーパーマーケットも銀行のATMもちゃんとあったし、電動アシスト自転車(!)で道路を走っているおばちゃんまでいた。タイの近代化は、国の隅々にまで浸透しているようだった。

 チェンコーンに一泊して、次の朝メコン川を渡る船に乗った。国境を渡る船といっても、10人乗りぐらいの小さな渡し船である。旅行者の姿は少なく、地元のおばちゃん数人が大玉のスイカをいくつか抱えて僕の後ろに乗り込む。そこは国境と呼ぶには、あまりにも緊張感のない場所だった。

 渡し船でラオスに入った後、さらにトゥクトゥク(三輪タクシー)に乗って、ラオス北部に向かうスピードボート乗り場に向かった。僕はラオス北部にあるムアンシンという小さな町を目指していたのだが、そこへ行くならスピードボートに乗るのが一番速いという話だった。

1922 スピードボート乗り場では、既にオランダ人のカップルが出発を待っていた。船頭は、彼らと一緒ならシェンコックという町まで一人800バーツ(2400円)で行く、と言った。ムアンシンへは、シェンコックから更にバスを乗り継がないと行けないらしい。しかし、2400円というはかなりの大金である。同じ距離をバスで行くとしたら、500円もかからないはずだ。

「乗り合いピックアップも出ているけど、道がひどくて、よく故障もするんだ。今日中に着けるかわからないよ」と船頭が言った。「このスピードボートなら、シェンコックまで3時間だ。メコンリバーはラオスのハイウェーだからな」

 船頭の言葉は、客を逃さないための営業トークにも聞こえたが、ラオスの道がカンボジアより更にひどいという話は、他の旅行者からも聞いていたことだった。
「オーケー、乗るよ」
 と僕が言うと、船頭はオレンジ色のライフジャケットとヘルメットを持ってきて、これを着るように指示した。
「危険なのか?」と僕が聞くと、
「ノー・プロブレム。ただの決まりだ」と船頭は面倒臭そうに答えた。
 数年前にひとりの旅行者がスピードボートから転落死して以来、ヘルメットとライフジャケットの着用が義務付けられたのだという話を聞いたのは、しばらくあとのことだった。

 

時速80kmのスピードボート

1726 「メコン川はラオスのハイウェーだ」という船頭の言葉は本当だった。スピードボートは、時速80km、あるいはそれ以上の凄まじい速度で突き進んだ。ボートは水面に投げた小石のようにピョンピョンと跳ねながら進み、着水の度に板張りの座席が尻を突き上げた。

 僕ら乗客は風を避けるために姿勢を低くし、耳をつんざくエンジン音に耐えなければいけなかった。まるで競争相手のいない競艇レースに駆り出されたみたいだ。確かに「スピードボート」という名前にも納得できるスピードである。だけど、ラオスというのんびりした国で、何をそんなに急いでいるんだという気がしないでもなかった。

 ボートの構造は実にシンプルである。8人乗りぐらいの長細い木製のボートの後部に、トヨタの巨大な8気筒エンジンがでんと据えられ、それが直接スクリューを回転させる仕組みになっている。こんな雑な作りの船が、もし時速80kmで転覆するようなことになったら、死人が出てもおかしくはなさそうだった。僕らの着ているライフジャケットも、ただのお飾りというわけではないらしい。

 タイ・ラオス・ミャンマーが国境を接する『黄金の三角地帯』を抜け、スピードボートは水しぶきを上げながらメコン川を北上した。同じメコン川とは言っても、そこはメコンの下流域とは全く違う世界だった。
 南ベトナムのメコンデルタに住む人々にとって、悠々たるメコンの流れは、豊かな恵みの象徴である。川が運んでくる肥沃な土によって水田は潤い、川で捕れる魚は人々の食卓を豊かにする。川の上には浮き家が並び、人々は川の水で炊事や洗濯をする。

 

1732 そんな賑やかな下流域に対して、岩山の間を流れる上流メコンはとても静かな場所だった。生活の匂いどころか、人の住んでいる痕跡すらほとんどなかった。ごつごつした岩の上に干してある洗いざらしのシャツや、木の陰でひっそりと水を飲む水牛の姿を目にすることで、この近くに人が住んでいるらしいということを、ようやく知ることができるのだった。

 チェンコーンからシェンコックまではおよそ120kmだから、船頭の言った「3時間で着く」という目標は軽く達成できそうに思えた。
 ところが、実際に僕らがシェンコックに着いたのは、出発から5時間後のことだった。上流に行くほど川幅が狭くなり、乾期で水かさの減った水面のあちこちには、切り立った岩が突き出しているので、フルスピードを出せる場面がほとんどなかったのだ。

 さらにやっかいなのは、中国から南下してくる貨物船団だった。貨物船が立てる大きな波の前では、我々のスピードボートは全くの無力だった。軽くてスピードを重視しているだけに、波に弱いのだ。
 船頭は前方に貨物船が見えると、適当な浅瀬に近づいて、エンジンを切る。そして、僕ら乗客は水の中にじゃぶじゃぶと足を浸けて浅瀬に上陸し、貨物船が起こした波が静まるのをひたすら待つ。強力なエンジンを載せたレーシングカーが、悪路では何の役にも立たないのと同じことである。
「今日はいつもより中国の船が多いなぁ・・・」
 という船頭の言い訳が空々しく響いた。

 

 

満天の星々

1780 そんなわけで、僕らがシェンコックに着いたのは、夕方の4時近くだった。船着き場にはムアンシンへ行くマイクロバスが待っていて、僕らは他のボートが下流の町から運んできた品物と一緒に、それに乗り込んだ。

 狭いバスの車内には、コカコーラのケースや、洗剤やシャンプーなどの生活必需品、紐で束ねられた大量のゴム草履、「高級ふとん」と日本語で書かれた布団などが、次々と運ばれていき、最後には一斗缶に入った生きた魚(!)と、プロパンガスのタンク(!!)が乗客の足元に並べられた。「危険物の持ち込みお断り」なんていう条項は、ラオスのバスには存在しないのだろう。

 バスはろくに舗装もされていない山道をかなりのスピードで走ったが、それでもスピードボートに比べると遙かに穏やかだった。日が暮れると、星々が空を埋め尽くした。この辺りの村には電気が通っていないために、星の光を遮るようなものは何もないのだ。

 休憩時間になると、バスを降りて夜空を見上げた。最初、空にはオリオン座や北斗七星といった見慣れた冬の星座が輝いていたが、目が慣れていくにしたがって、明るい星と星との間が小さな星々で埋まり、星座は形を失っていった。まるで濃紺の布の上に白い粉をまき散らしたような、驚くべき数の星だった。

 澄み切った空気があり、都市の「光害」から無縁でいられるラオスの山奥だからこそ、こんなに美しい星空が見られるのだろう。羨ましい限りだ。しかし隣のラオス人達は、星のことなんて気にも留めないで、ジョボジョボと立ち小便をしている。彼らにとっては、満天の星空もごく当たり前の見慣れた存在でしかないのだろう。

 クラクションが軽く二回鳴らされると、立ち小便を終えた男達と、草むらで用を足した女達が、ぞろぞろとバスに戻り始めた。最後にもう一度だけ星を見上げてから、僕もバスのステップに足をかけた。