1956 朝霧の向こうからやってくるオレンジ色の塊は、それが僧侶の列だとわかるまでにかなりの時間がかかった。街灯が投げかける淡い光が、托鉢に向かう僧侶を薄闇の中にぼんやりと浮かび上がらせ、その姿は彼岸から現世に向かって歩いてくる一団のようだった。その幻想的な光景の中では、前日の昼間に寺の境内でふざけあっていた少年僧でさえも、俗世間とは切り離された聖なる存在に見えた。

 道の脇にはカオニャオ(もち米)を入れた竹籠を持った女達が、ござの上に正座して、僧侶が来るのをじっと待っている。裸足の僧侶が足音もなく近づいてくると、女達が僧侶の抱える金属製のおひつの中に、カオニャオを投げ込んでいく。ひとつひとつの動作には無駄がなく、全ては静寂の中で行われる。僧侶の集団が通り過ぎるたびに、女達はおひつにカオチャオを投げ入れ、手を合わせて経を唱える。

 朝の托鉢自体は、同じ南方上座部仏教の国・タイの町でも当たり前に行われていて、特に目新しいものではない。でも、ここルアンプラバンの托鉢の列は、他の町とは明らかに違って見えた。静寂の中で毎日行われる信仰確認のための神聖な儀式──僕の目にはそんな風に映った。立ちこめる朝霧も、女達の横で余り物の米を啄む鶏も、この儀式のために誰かが用意した小道具なんじゃないだろうか。そんなことを考えているうちに日は昇り、町はいつもの日常に戻っていく。

 1975年にラオスに誕生した社会主義政府は、仏教の活動を厳しく制限した。旧王国政府を支援していたアメリカが、反共政策のために仏教を利用していたからだ。新政府は小学校において仏教教育を廃止し、托鉢僧へ食物を供じることも禁止した。しかし、この措置にラオスの民衆は猛然と反発し、新政府はこの政策をすぐに撤回することになった。

 ラオス人にとって仏教とは、イデオロギーや社会体制以前に、日常生活と切り離すことのできない重要なものなのだ。ルアンプラバンの托鉢には、そのことがはっきりと表れていた。

1966

1927

 
 

首都ビエンチャン行きのバスに乗る

1928

ルアンプラバンの仏教寺院ワット・シェントーン

 ルアンプラバンには前日の夕方に着いたばかりだったのだが、早朝の托鉢が終わってしまうと、この町にいる理由もなくなった気がして、荷物をまとめて首都ビエンチャン行きのバスに乗った。ルアンプラバンの町は世界遺産にも登録されているラオス最大の観光地である。でも、最もラオスらしい北部の山岳地帯を旅した後では、整然と寺院が立ち並ぶ静かなたたずまいも、王朝時代の宝物を集めた王宮博物館も、どこか物足りなく感じられたのだ。

 何度かの故障──ラオスの長距離バスで故障しないことの方が稀なのだが──と警察の検問でのごたごたに巻き込まれたせいで、首都ビエンチャンに到着したのは出発から13時間後の午後10時過ぎだった。今まで旅してきた山奥の町では、午後10時といえば人も家畜も寝静まる真夜中なのだが、ビエンチャンの町には街灯が灯り、まだ開いている商店も何軒かあった。「さすがは一国の首都だな」というのが僕の第一印象だった。

 もっとも、ビエンチャンを訪れた外国人のほとんどは、僕と正反対の印象を持つという。「こんな小さな町が本当に首都なのか?」というのが、隣国タイの都会からビエンチャンに入ってきた旅行者が抱く第一印象なのだ。要するに比較する対象の問題である。

 確かに、ビエンチャンは他のアジアの首都とは比べものにならないほど小さい。人口はわずかに50万あまりで、ハノイやバンコクのような大都市の持つ熱気や猥雑さとは、全く縁がない町である。ちょうど日本の静かな地方都市──発展も衰退もせずにずっと同じぐらいの規模をキープしているような目立たない町──を想像すればいいかもしれない。

 ビエンチャンは自転車でのんびりと走るにはもってこいの町だった。町の広さは手頃だし、道路は幅広く平坦で、行き交う車も少ない。バイクの二人乗りはこの町の代表的な移動手段なのだが、ハノイやホーチミン市のようなイワシの群れ的交通カオスには至っていなかった。大きな交差点には信号機が設置されているのだが(ラオスで信号を見るのはこれが初めてだった)、その横には必ず警察官が立っていて交通整理をしているので、何のための信号なのかよくわからなかった。信号に不慣れな人がまだ多いのかもしれない。

 レンタル自転車は1日1万キップ(150円)で借りられるのだが、デポジットとして35ドル預けなければいけなかった。自転車を借りる際に保証金をいくらか払うか、もしくはパスポートを店に預けるシステムは、他の国にもあるもので珍しくはないのだが、この店が少し変わっているのは、僕の預けた35ドルの札番号を一枚ずつきっちりと領収書に控えていくことだった。

 10ドルが3枚と1ドルが5枚。合計8枚のドル札の番号を、店のおばちゃんは丁寧にボールペンで書き取っていく。それだけでもかなり手間のかかる作業なのだが、更に念入りに領収書の数字を僕の目で確認させた。
「ほら、間違いないだろう?」とおばちゃんは言った。珍しく流暢な英語を話す人だった。
「ラオスでは偽ドルが出回っているんですか?」と僕は訊ねてみた。
「ノー」と彼女は無表情に言った。この件に関しては答えられない、といった雰囲気だった。それじゃ、一体何のために彼女は札の番号を控えているのだろう。しばらく考えてみたが、上手い説明は思いつけなかった。

 ちなみに夜になって自転車を返しに行ったら、おばちゃんとは違う若い男が応対に出てきた。そして、彼もまた金庫から取り出した保証金と、領収書に控えられた札の番号を、とても真剣に見比べていた。ひょっとすると金庫に仕舞っていた間に札の番号が変わっているかもしれない、その可能性だって否定できないじゃないか、とでも言たげだった。なんだか「シュレーディンガーの猫」のようにシュールな世界である。

 
 

ビエンチャンがっかり名所巡り

2012 自転車で走り回るには快適なビエンチャンなのだが、問題はそれに乗ってどこへ行くかということである。ビエンチャンの名所と呼ばれる場所は、どれも首を傾げたくなるものばかりなのだ。

 ビエンチャンのメインストリートであるラーンサーン通りを北東へ進むと、正面に「凱旋門(パトゥーサイ)」が見えてくる。パリの凱旋門を模して造られたというパトゥーサイは、ビエンチャンで一番の高層建築物というだけあって、遠くから眺めればそれなりに立派に見えるのだが、近づいてみるとコンクリートの地肌が寒々しく、安物っぽい印象は拭えなかった。「コピーは所詮コピーでしかない」という一般論をわざわざ実践してみせたような建物である。ビエンチャンの町のスケールを考えれば、かなり頑張った方だとは思うのだが。

1997 パトゥーサイからさらに郊外へ進むと、ビエンチャンのそしてラオス全土のシンボルである「タートルアン」が現れる。外装が全て金箔で覆われた黄金寺院である。南国の強い日差しを浴びて輝くタートルアンと、一点の曇りもない青空とのコントラストは、確かに一見の価値はある。
 しかし、この寺院も近くに寄ると印象が一変してしまう。表面は確かに黄金なのだが、手の込んだ装飾や彫刻が施されているわけではなく、のっぺりとした壁に金箔がべたべたと貼り付けてあるだけなので、「何だこんなものか」とがっかりしてしまうのだ。いっそのこと「500m以内立ち入り禁止」という決まりでも作れば、有り難みが増すのかもしれないが。

 ラオス最大の市場である「タラート・サオ」も、「ビエンチャンがっかり名所巡り」に花を添えることになった。市場の中は活気に満ちているどころか、客よりも店員の方が遥かに多いぐらいガラガラだったし、扱っている商品もカラーテレビやステレオや貴金属といった日常の匂いのしないものばかりで、しかもほとんどが日本やタイからの輸入品だった。

 このように、ビエンチャンには見るべきものはほとんどない。だけどラオスという国に「歴史的遺産」や「壮麗な建造物」といったものを求めてくる人なんてまずいないのだから、そんなことはあまり問題にはならない。
 「何もない」ことこそが、ラオスを訪れる旅行者がこの土地に期待していることで、そしてほとんどの人が「やはり何もない」ということをしっかりと確認して、帰っていくのだから。

 
 

タケシ・カネシロを知っているか?

1974 ビエンチャンを自転車で走っていると、寺院と学校がやたらと多いことに気が付く。寺の隣に学校があり、その次にはまた寺院が並んでいる、といった具合なのだ。

 ラオスでハイスクール以上の高等教育を受けようと思ったら、ビエンチャンに出てくるのが一般的だ。最後まで僕をスペイン人だと信じていた宿のオーナーも、新築祝いに誘ってくれたマイノーイ君も、ビエンチャンのハイスクールに通ったことがあると言っていた。ビエンチャンは全国から学力優秀な若者が集まってくる学生の町でもあるのだろう。この町に都会特有の猥雑さが感じられないのは、あるいはそのせいかもしれない。

 「ビエンチャンがっかり名所巡り」を終えて、宿に向かって自転車を走らせていると、制服を着た高校生のグループから「コンニチハ」と声を掛けられた。どうやらグループの中の男の子が、覚えたての日本語を使って呼びかけたらしい。僕が自転車を止めて彼らの輪に近づいていくと、本当に日本人がやってくるとは思わなかったらしく、大騒ぎになった。

「Can you speak English?」
 と僕が聞くと、彼らは顔を見合わせて、「ほら、あんたが変なこと言うからガイジンが来ちゃったじゃないの。どーすんのよ?」という感じで言い合いを始めた。それでも、カタコトの英語を話す生徒は何人かいて、少し緊張した面もちで僕に話しかけてきた。
「年はいくつですか?」「ラオスにはいつ来たんですか?」「どのホテルに泊まっているんですか?」という一般的な質問から始まって、
「日本人の女性とラオス人の女性ではどちらが綺麗ですか?」という非常に答えにくいことも聞かれたりした。
「日本ではエンジニアをしていたんだ」と言うと、
「日本の工業製品はどうして優秀なのか」という難問まで投げかけられた。

「あなたは結婚しているんですか?」とそれまで沈黙を守っていた三つ編みの女の子が聞いた。
「ノー」と僕が答えると、すぐさま周りから「ヒュー!」という歓声と拍手が沸き起こった。何があっても楽しい年頃である。
「あなたはタケシをご存じですか?」と再び三つ編みの子が言った。
「タケシって誰のこと?」
「映画に出ている男の人です」
(俳優でタケシ・・・!)
「タケシって、タケシ・カネシロのことかい?」
 僕が言うと、彼女は大きく頷いた。僕はビエンチャンのあちこちに、金城武や滝沢秀明といった日本の芸能人のポスターが貼ってあったことを思い出した。最近ではホンダやソニーだけではなく、アイドルも日本製の人気が高いらしい。
「君はタケシが好きなの?」と僕が聞くと、三つ編みの女の子は恥ずかしそうに頷いた。するとまた「ヒュー!」という歓声が沸き起こった。

 彼らはハイスクールの授業が終わって、これから別の学校に向かうバスを待っているところだった。
「ハイスクールの授業だけでは十分ではありません。これから物理や数学を勉強する学校に行くんです」
 と最初にコンニチハと呼びかけてきたコイ君が言った。のんびりしているように見えるビエンチャンの高校生も、なかなか大変なようだった。

「君は将来何になりたいの?」と僕はコイ君に質問した。
「僕はエンジニアになりたいんです。この国の為になる仕事がしたいんです」
 彼はそう言って照れ笑いを浮かべたが、今度は誰も冷やかしの歓声を上げなかった。発展途上のラオスでは、これから物理や数学を学んだ技術者が数多く必要とされ、彼らがそれを担うことになるのだろう。

 しばらくすると、スクール・バスならぬスクール・ピックアップトラックがやってきたので、僕らは握手をして別れた。ピックアップが視界から消えるまで、彼らは手を振り続けてくれた。真っ白い制服によく似合う素朴な笑顔を少し眩しく感じながら、僕は手を振り返した。