2482 赤茶けた大地に無数のパゴダが林立する、かつての宗教都市バガン。そこは、ミャンマーに住む人々の仏教に対する厚い思いが、遺跡という目に見える形でもっとも大規模に残されている場所である。

 バガン遺跡を訪れると、あまりにも膨大な数のパゴダ群に言葉を失う。高さ50mを超える巨大なものから、わずか3mほどのミニパゴダまで、その数は三千を超えるという(例によって本当の数は誰も知らない)。パゴダの多くは、計画的に造営されたというよりも、思いつくまま無秩序に建てられているように見える。その姿は、それぞれの生命力を競い合うジャングルの樹木にも似ている。

 中部ミャンマーは年間を通して降水量が少なく、自然の厳しい地域なのだが、バガン周辺は特に森林が少ない。これは、パゴダ建設用のレンガを焼くために、大量の木を伐採したためだとも言われている。強い信仰心と歯止めの効かない狂気とは、実は紙一重なのかもしれない――赤茶けた大地に並び立つパゴダを見ていると、そんな風にも思えてくる。

 そのバガンを貸し自転車で走った。三千を数える寺院やパゴダの中で、観光ルートに組み込まれているのはごく一部に過ぎず、それ以外の多くは廃墟同然に打ち捨てられている。僕はバガン初日に有名なパゴダを一通り見学してしまったので、二日目はこうした「廃墟パゴダ」を巡ることに決めた。僕はどういうわけか立派な大伽藍よりも、廃墟になった建物の方にずっと強く心惹かれるのだ。

 

2303 舗装された観光用の道を適当な所で外れて、南に進んだ。南に行くとまず決めたのは、そうしないと方向感覚を失ってしまうからだ。遠くにあるひとつのパゴダを目印に決めたとする。しかし、その次のパゴダも、そのまた次のパゴダも、延々と同じような色と形をしているから、結局自分がどっちを向いているのかわからなくなってしまうのだ。

 

2479 しばらく行くと道が急に細くなり、柔らかい砂地にタイヤを取られて、自転車は役に立たなくなってしまった。乾期のミャンマーでは、草も木も地面も、何もかもがカラカラに乾いている。僕はひび割れた畑を横切り、水の枯れた川の跡を渡った。道なき道を、自転車を押して歩き続けた。歩いても歩いても、パゴダはずっと続いていた。

 もちろん、そんな辺鄙な場所を訪れる観光客は一人もいない。時々すれ違うのは、トマトを収穫している女達や、家畜の群を追う牛飼いや羊飼いの少年達だけだ。ここでは大昔の遺跡と、今を生きる農民とが隣り合って生きている。

 1時間歩き続けてさすがにへばったので、大きめのパゴダの中で休憩することにした。入り口には崩れ落ちたまま放置されている赤レンガと、乾いた牛糞が散らばっている。牛と牛飼い以外、誰も訪れることのない場所なのだろう。

 暗いパゴダの中は、石造りの建物の持つひんやりとした空気で満たされていて、汗がすっと引いていく。持っていたペットボトルの水を飲み込むごくりという音が、静かな室内に響く。正面には巨大な仏像の頭が浮かび上がっていて、大きな二つの目が僕を見下ろしている。

 その目を見ていると、お釈迦様の手の上を飛び回って得意になっていた孫悟空の話を思い出す。無駄に汗をかいて、廃墟パゴダをちょこちょこと歩き回っている自分の姿が、孫悟空と重なる。でもとにかくこうやって歩き回ることで、遺跡の広さとパゴダの膨大な数を、身を持って理解することができたことだけは確かだった。

 

 

あれ、絶対フランス人だよ

2476 寺院に登ってみると、そこにはカナさんが居た。彼女は僕と一緒にポッパ山へ行った4人のうちの1人だった。
「ここからずっと、あなたのことを見ていたの」と彼女は言った。「自転車を押しながら草原を中を歩いてくる人が見えたから、『ほら、あそこに変な人がいる』って隣のミャンマー人に言ったのよ。まさか、あなただとは思わなかったから。そしたら、隣のミャンマー人が『あれはね、絶対フランス人だよ』って言うの」
「どうしてフランス人なの?」
「わからないわ。でも彼はかなり自信を持って言い切っていたのよ」
 道なき道を自転車を押して突っ切るような人間は、世界広しと言えどもフランス人だけなのか? その発想はちょっと極端だけど、何となくわかる気もするよね、と僕らは笑い合った。

「ねえ、一緒にポッパ山に行ったとき、あなただけ『お坊さんのところに泊まるから』って言って、一人で残ったでしょ? 私達、あの日の帰り道に『もしかしたら、彼はあのまま出家して帰ってこないんじゃない?』って話していたのよ」
「いくらなんでも、出家はしないよ」
「だって、あなた変な人でしょ? いきなりお坊さんのところに泊めてもらうなんて言い出すし、今も自転車を押して草原の中を2時間も歩いてきたって言うし。だいたい遺跡を見たいのなら、普通の道路を走ってくればいいじゃない。どうしてわざわざ道のないところを歩いたりするのよ」
「そう言われればそうなんだけどね」と僕はカナさんに言った。「回り道をしたくなったんだよ」

 

2249 カナさんが行ってしまってから、僕は寺院の上の見晴らしの良い場所に腰を下ろして、乾いた草原と赤レンガの遺跡が地平線まで広がる風景を眺めた。あの草原を一人で歩いてくる男がいたら、確かにあまりまともな人間には見えないだろうと思った。

 日本にいるときは、僕を変わり者だと呼ぶ人はほとんどいなかったし、僕自身も自分はごく普通の人間なのだと思っていた。そもそも自分がミャンマーなんてよくわからない国を旅することになるなんて、数ヶ月前には想像もしていなかったのだ。

 僕は京都のとある機械メーカーで、印刷機械を設計する仕事をしていた。正直言って、あまりぱっとしない会社だった。給料や待遇の面で他社より優れているわけでもなく、ここ数年の業績は赤字続きだった(ということは入ってから知ることになるのだけど)。もっとも僕にしても、さしたる就職活動もせずに入れそうだという理由で会社を選んでいたわけだから、あまり文句を言える立場にはなかったのだが。

 それでも、モノ作りの現場で働くことには満足していた。元々、僕は何かを作ることが好きだった。子供の頃は、家にある時計を片っ端から分解したり、トランジスタラジオ作りに熱中したりした。

 開発チームでの仕事も、基本的には子供の頃のラジオ作りと変わらないものだった。仕様を決め、図面を引き、テストを繰り返し、やがてそれが現実の製品(と言っても、下っ端だからたいしたものではないけれど)として生産ラインに乗る。そこには、何かを作り上げていくという実感があった。

 だけど「本当にこのままでいいんだろうか?」という漠然とした焦りを感じることもあった。それはつまり、先が見えていくことに対する不安だった。この仕事を続けていれば、特に不満を感じないまま年齢を重ねていくこともできるだろう。でもそれは、本当に自分自身が選び取った人生なのだろうか。ひとつの可能性が固まっていく一方で、もうひとつの可能性は消えてしまうんじゃないだろうか・・・。

 

2285 そんな思いに囚われたときはいつも、同僚の目を盗んで屋上に行った。屋上の給水塔に登ると、街を一望することができたからだ。そこから見えるのは、決して美しい街ではなかった。板金工場のトタン屋根や、鋳物工場の煙突から出る煙、溶接工場の窓に光る青白いスパーク・・・それはどこにでもあるモノ作りの街の、無機質な日常風景だった。目を閉じると、低い風の音に混じって、何かをハンマーで叩いているような間欠音が聞こえてきた。それは力強くも物哀しい音だった。

 でも、僕はこの街を眺めるのが好きだった。誰の注意も引かないような風景を眺め、誰も耳を澄まさないような音を聴いていると、不思議と心が静まった。そうやって屋上で10分ほど過ごした後、僕は仕事に戻った。

 

 

自分の目で確かめたかったんだ

2247 丸二年働いて会社を辞めた後、しばらくは特に何もせずに過ごした。本を読んだり、意味もなく自転車で京都の町をぐるぐると回ったり、目に付いたものにカメラを向けたりしながら、のんびりと過ごした。春が過ぎ、すぐに夏がやってきて、その夏も終わろうとしていた。その間、僕は自分の中に何かが湧いてくるのを、じっと待った。

 その何かが、「旅」という言葉になって浮かび上がってきたのは、会社を辞めてから半年ほど経った頃だった。そのとき僕は、いつものようにウォークマンを聴きながら、鴨川の土手を自転車で走っていた。流れていたのは、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」だった。

 とても気持ちのいい午後だった。冷ややかな風の中にも、透明な太陽の光にも、水鳥の羽毛の色にも、秋の気配が漂っていた。心地よい自転車の振動、ドン・ヘンリーのかすれた声、秋の気配・・・そんなものが混じり合った結果、頭の中に「旅に出る」というアイデアが浮かんできたのだ。

 

2243

 僕にはこれ以上の順序立てた説明はできないし、しても意味がないだろう。とにかく、不意に浮かんできたのだ。あるいはウィザヤなら、こういうのを「仏陀のお導き」と言うのかもしれないが・・・。

「・・・でも、それだけじゃないでしょう?」とウィザヤは僕に言った。
 ポッパ山の僧院を離れる直前に、彼が「あなたはどうして長い旅に出たのですか」と訊ねてきたので、僕はこの自転車の話をしたのだ。

 

2319「ただの思い付きだけで、長い旅をしようとは思わないはずですよ」
「そうですね・・・」と言って、僕はしばらく考えた。あの日にイーグルスを聞かなくても、僕はいつか旅に出ただろう。それはただのきっかけに過ぎないのだ。見知らぬ場所に行ってみたいという欲求は、実はずいぶん前から――工場の屋上で街を眺めていた頃から――自分の中にあったものなんだと、僕は気付いた。

「自分の目で確かめたかったんです。違う町へ行って、そこにあるものに触れ、匂いを嗅ぎ、音を聞いて、その違いを確かめたかったんです」
 ウィザヤは黙って頷いた。彼を前にすると、日本人と話している時よりも正確に自分の気持ちを伝えることができるように思う。それはきっと、お互いにシンプルな言葉を使って話そうとするからなのだろう。余計な言い回しは、時として気持ちをぼかしてしまうものだから。
「工場の屋上から見える街だけじゃなく、他の街も見たかった。回り道してみたかったんです。だから旅に出たんです」

 結局、長旅というのは大がかりな回り道ではないだろうか。僕はミャンマーに来てから、そんな風に思い始めていた。僕らは旅をするときに、多くの時間とお金を使う。しかし、それによって何かが得られるという保証は、どこにもない。

 でもきっと、無駄な回り道をしなければわからないこともあるのだと思う。
 炎天下の中、自転車を押して2時間歩き回ることで、バガンの本当の広さを実感できたように。