3799 トレッキング4日目の夜はガイドのサンタの実家に泊まることになって、夕食も彼の家族(母親ときょうだいとその子供達)と一緒に食べた。サンタ自身は子供と奥さんと一緒にカトマンズに暮らしているのだが、トレッキングガイドの仕事のついでに頻繁に里帰りをしているようだった。

 家の真ん中の囲炉裏にはスープの入った鍋がかけられていて、ぐつぐつという気持ちのよい音を立てていた。献立はご飯と豆スープと野菜のカレーという定番メニューだが、それに搾りたての牛乳を混ぜて食べた。豆スープは塩と唐辛子だけのとても素朴な味付けだけど、その分お米の甘さが引き立てられていて、僕は二杯もおかわりをした。

 カトマンズの日本食レストランでカツ丼を食べたとき、「こんなうまいものを食べて、この後の旅が辛くなるんじゃないだろうか」と心配になったのだが、それは全くの杞憂だった。ここで食べる夕食は、あのカツ丼と同じぐらい(もしかするとそれ以上に)美味しいものだったからだ。

 もちろん、「空腹が最大の調味料」という言葉通り、一日6時間も歩き続ければ、何を食べたって美味しく感じられるということもあるだろう。でも、それ以上に家族団らんの席に寄せてもらったことの心地よさが、料理の味をいっそう引き立てているのも間違いなかった。

 食事が済んで囲炉裏の中で燃えていた薪がくすぶり始めると、部屋はぐっと暗くなる。明かりは小さな石油ランプひとつきりで、その中で家族の話が始まる。サンタは火箸を使って囲炉裏の中の炭を拾い上げ、煙草に火を付ける。そして母親にも煙草を勧める。サンタの母親は一本の煙草を長い時間をかけて吸いながら、何ごとかサンタに話し掛ける。サンタはうつむき加減でそれに答える。話の内容まではわからないが、それが楽しい話ではないことは、僕にもなんとなくわかる。村の問題か、それともカトマンズに暮らすサンタの家族のことなのか。

 

3835 僕は囲炉裏から少し離れた柱にもたれかかって、親子の話を聞くでも聞かないでもなく眺めた。ランプのオレンジ色の明かりが、どの顔にも濃い陰影を作り出している。それは昔話の挿絵みたいに見える。

 光の届かない部屋の隅にいると、僕は簡単に気配を消すことができた。まるで自分のからだが壁の中にすっと吸い込まれていくみたいに。囲炉裏の余熱が、部屋全体をじんわりと温めていた。

 しばらくすると眠くなってきたので、僕はサンタと家族におやすみを言って、客間に上がるために外に出た。
 日が暮れてから何時間も経っているというのに、外は不思議なほど明るかった。手に持っていた懐中電灯をつける必要がないほどの明るさだった。もちろん、ここには街灯など一切ない。この明るさの源は、月だった。

 見上げると、空の真上に十三夜ぐらいの少し欠けた月があった。切り絵のように鋭い輪郭の月だった。月光が支配する夜の村は、昼間とはまるで別世界に見えた。家の屋根や石積みの階段だけが青い光を反射して、雪が降り積もった朝のような冷ややかで幻想的な風景を作り上げているのだった。

 

3827 僕はその青の世界に誘われるように歩き出した。見知らぬ土地を夜中に一人で歩いているにもかかわらず、不思議と怖くはなかった。それほど明るい月夜だった。

 やがて闇に目が慣れてくると、月光が浮かび上がらせている細かいディテールを見分けることができるようになった。岩の表面の細かい陰影は、昼間の何倍も強調されて僕の目に届いた。
 月の光が強調しているのは、ものの陰影だけではなかった。石段を踏みしめる足音や自分の心臓の音が、いつもよりはっきりと耳に届き、空気の冷ややかさが、からだの奥にまで染み込むように感じられた。時間の流れ方さえも、昼間より緩慢だった。まるで遠い過去の記憶の中を歩いているみたいだった。

 僕が村の中を一回りする間、誰ともすれ違わなかった。谷の下の方で、杵で米をつく女達の歌声が聞こえるだけだった。本当に静かな夜だった。
 僕は村を一望に出来る岩場まで石段を登り、切り立った岩のひとつによじ登った。そこから見上げる月は、さっきよりずっと強い光を放っているように感じられた。じっと見つめていると、眩しくて目を逸らしたくなるほどの光だった。

 月光は谷底まで続く広大な段々畑を、余すところなく照らしていた。畑の縁に積まれた石が月光を反射して、無数の青い波紋を描き出していた。それは昼間とはまた違った美しさだった。静かで深みのある美しさだった。

 

8000m級の山々も、ネパール人は見飽きている

3805 翌日に泊まったアプガートは比較的大きな町だった。電気が通っているし、路線バスも通っている。いくつかの家の屋根には、衛星放送を受信するための大型のパラボラアンテナが誇らしげに立っていた。

 町の中心には小さな商店街もあった。鍋や刃物を売る金物屋があり、色鮮やかな布地を売る店があり、ビーチサンダルを大量にぶら下げた履き物屋がある。他にも子供達が物欲しそうに覗き込む駄菓子屋や、音楽テープを売る店や、電気屋などがある。電気屋といってもテレビや冷蔵庫などの家電製品はまだほとんど普及していないから、主な仕事は壊れたラジオを修理することのようだった。

 時計屋のショーケースに並べられていたのは、ほとんどがカシオ製の腕時計だった。「カシオ」それはたぶんアジアで最も広く行き渡った日本ブランドである。もちろん「ホンダ」も「キャノン」も「フジフィルム」も広く知られている。でも、カシオがそれらの日本ブランドと違うのは、貧しい農家の人の手にも届くものであるという点だ。ラオスの山奥で田植えをするおばさんの腕にも、ネパールの段々畑で水牛を御している男の腕にも、カシオのデジタルウォッチが巻かれていた。カシオは安くて正確で壊れないんだ、とみんなが口を揃えて言った。

 工業立国としての日本の立場は、アジア諸国の追い上げや景気の低迷で危ういものになりつつある。けれど、カシオみたいに地道だが確実に普及している製品を見ると、日本もまだまだ捨てたもんじゃないなと思えてくるのだった。

 

3877 商店街には写真館が二軒あった。現像ラボではなく、写真館である。このあたりではカメラを持っている人はいないから、人々が自分の写真を撮ってもらうときには、こうした町の写真館にやってくるのだ。お客は何種類かある書き割りの背景の中から好きなものを選んで、その前でポーズを取る。以前ミャンマーのお祭りに行ったときに見かけた出張写真館と同じシステムである。

 僕がその写真館の側を通りかかったとき、お客の女の子が選んだのは、僕の目からすればかなり奇妙な書き割りだった。そこに描かれていたのは、アスファルトの道路と中央分離帯の植え込みと団地だった。無機質で味気ない灰色の絵である。山村に住む人にとっての「憧れの都会」をビジュアル化するとこうなるのかもしれないが、しかし「どうして中央分離帯なんだ?」と思わずにはいられない。

 写真館を一歩出れば、雲の上から顔を覗かせる8000m級のマナスル山を見ることができるし、足下にはヒマラヤの雪解け水を流す清流がある。まさに「絵に描いたような」景色である。
 でも、この世界でも有数の雄大な光景も、ネパール人にとっては毎日見慣れたものでしかないのだろう。だから彼らは山の前ではなく、中央分離帯の書き割りの前で写真を撮る。憧れの対象というのは、育ってきた環境によって全く違うものなのだ。新宿のオフィスビル群の前で、わざわざ記念写真を撮ろうとする日本人がいないのと同じことなのだ。

 

3876 写真を撮られることに慣れていないネパール人ではあったけれど、被写体としてはとても魅力的だった。同じ山岳民族であるラオス人のように、カメラを向けるとキャーキャーと逃げ回るほどシャイではないし、バングラデシュ人のように好奇心いっぱいに近づいてきて、こちらが逃げ回らなくちゃいけないということもない。遠すぎず近すぎず、自然な距離感を保ってくれるのがネパール人だった。特に女の子は、カメラを向けても柔らかい表情を変えなかった。

 

 

まっすぐな瞳の少女

 僕にとって特に印象的な少女がいる。彼女と出会ったのは、目の覚めるような美しい渓流が側を流れる小さな村だった。僕らは渓流に架かる吊り橋を渡って、村の茶屋で休憩を取ることにした。熱いチャを飲んで一息ついてから、カメラ片手に村を歩いていると、柱の影からこちらを窺っている少女の視線に気が付いた。年は7,8歳ぐらいで、腕には幼い弟を抱えていた。

3683

3678 彼女は僕と目が合うと恥ずかしそうに顔を逸らし、笑いかけると安心したように頬を緩めた。ネパールの子供らしく鼻水の跡が白く残っていて、髪の毛もぱさぱさだったが、その瞳は澄んでいた。よく少女漫画に描かれるように、夜空に星を散らしたような瞳の輝きがあった。

 ファインダーを覗く僕の視線と、彼女のまっすぐな視線が重なり合った時、僕はしばらくのあいだシャッターを切るのを忘れてしまった。ひとことで言えば、僕は彼女に惚れ込んでしまったのだ。この子に会うためにこの山道を何日間も歩いてきたんだ、とさえ思った。彼女の周りには、そう思わせる特別なオーラのようなものがあった。それはある時期に現れて、そしてある時期を境に消えてしまう種類のオーラだ。

 我に返ってから、何枚か立て続けにシャッターを切った。そして「この子の瞳には、僕という人間がどういう風に映っているんだろう」とふと思った。この子が何を感じているのか、どういう生活を送っているのか、彼女自身の口から聞いてみたいと思った。でも、それは叶わないことだった。

 僕は彼女と話せないこと、自分が外から来た外国人であることに強い苛立ちを感じた。でも同時に、言葉が通じ合えないからこそ、僕はこうやってシャッターを切っているんだとも思った。

 旅の中で、カメラは手探りのコミュニケーションを助けてくれる道具だった。それは旅を記録する媒体であるのと同時に、僕と被写体と間にひとつのアクションを起こしてくれるものだった。もちろん、そのアクションはいつも上手く行くわけではない。時には拒絶されることもあるし、相手を怒らせることだってある。

 でもこの少女のように、シャッターを押さなければ見せなかったような表情を引き出すこともできる。ごく稀にではあるけれど、その一瞬だけは言葉の通じない異質な人間という垣根を越えて、繋がり合うことができる。たぶん僕はその瞬間を求めて、写真を撮り続けているのだと思う。