トレッキングの最終日も、いつもと同じように朝早く起きた。そしてチャイとパンで手早く朝食を済ませて、山道を歩いた。最初の数日間は、朝起きるとひどい筋肉痛になっていたけれど、後半になるとそれもなくなっていた。
「それなら、エベレストを見に行く1ヶ月のトレッキングでも大丈夫ですよ」とサンタは請け合ったが、このあと三週間も山を歩き続けるのを考えると、さすがにうんざりした。根っからの山男(または山女)でなければ、世界最高峰を見に行くべきではないのだろう。
「そこに山がある。だから登るんだ」という心境には、僕はなれそうになかった。
終着点のゴルカに至る道を登っていると、ゴゴゴという重量感のある音が背後から聞こえてきた。二階で重い荷物を引きずっているような、くぐもった音だった。遠くで雷でも鳴っているのかと思って振り返ってみたが、雷を起こせるほど大きな雲はなかった。
「あれは雪が山の斜面を滑り落ちる音です」
とサンタは言った。雪崩の音だとすれば、近くに雪の積もる高い山があるということになるけれど、谷には霞がかかっていて、何も見えなかった。すりガラスを何枚も重ねたような濃い霞だ。
「空気が澄んでいれば、あそこにラムチュン山が見えるはずなんですが・・・アンラッキーですね」
サンタはそう言って、残念そうに首を振った。この一週間、ヒマラヤの峰がくっきりと見られたのはほんの数時間だけで、あとはずっと霞がかった空が続いていた。
「日本語でアンラッキーはなんて言うんです?」とサンタは聞いた。
「・・・不運かな」と僕は答えた。
「ウィー・アー・フウン」
それから、サンタは何度か「フウン」「フウン」と繰り返した。
彼の言う通り、トレッキングの醍醐味であるヒマラヤの絶景が楽しめなかったのは不運だったけれど、僕にとってそれは大した問題ではなかった。それよりも残念なのは、今が実りの季節ではないことだった。9月には段々畑が黄金色に染まり、それはそれは美しい光景なのだ、とサンタは僕に言ったのだ。
「いつかまた、ネパールに来るよ」と僕は言った。「収穫の9月に。その時は、またサンタにガイドしてもらうから」
「それじゃ、次はガールフレンドを連れていらっしゃい。きっとロマンチックな旅になりますよ」
そう言ってサンタは笑った。でも、電気もシャワーをないところを何日も歩き回り、宿の隙間風に震えながら寝袋にくるまって眠る旅が、ロマンチックなものになるとはとても思えなかった。
「できるだけタフな女の子を連れてこなくちゃね」と僕は言った。
ゴルカには昼過ぎに到着した。ゴルカの町を見下ろす場所には、現在のネパール王族の始祖の地である旧王宮がある。王宮とは言っても、高台にある見張り台が少し大きくなったような、こぢんまりとした木造の建物である。今の王族はカトマンズに住んでいるので、ゴルカには年に何度かヘリコプターに乗って訪れるだけだという。
ネパール王室は国民から好かれてはいない、という話を何人かのネパール人から聞いていた。そのせいなのかはわからないが、ゴルカの王宮に人影はなく、しんと静まりかえっていた。お金を払うと中を見学できるのだが、2,3人の見張り以外には誰もいないという有様だった。入り口の来訪者名簿を見ると、ヨーロッパ人を中心に毎日10人ほどの入場者がいるらしいが、なんとも寂しい王宮だった。
「ここがゴールです」とサンタは石畳の上に荷物を降ろして言った。「どうです。長かったですか?」
「そうだね。歩いてしまえば、一週間なんてすぐだった」と僕は汗を拭きながら言った。「でも・・・・やっぱり疲れたね」
僕らはリュックを枕にして仰向けに寝転がり、しばらく無言で空を眺めた。空は相変わらず不透明な霞に覆われていたが、風は心地よく流れていた。
ヒンドゥー教のお祭り「ホーリー」
次の朝、僕はサンタと別れて、バスでポカラの町に向かった。
バスは行く先々で、水風船の標的になった。町には赤や黄色の絵の具を顔中に塗りたくった子供達が水風船を持って待ち構えていて、バスや車がそばを通過すると、それを次々に投げつけてくるのだ。この日、3月9日はヒンドゥー教のお祭り「ホーリー」の当日で、水風船も顔のペインティングも恒例行事なのだという。ホーリーにどういう宗教的な意味が込められているのかは知らないけれど、子供達にとっては(一部の大人達にとっても)イタズラが許される大騒ぎの一日になっているようだった。
いくつかの水風船は、開いた窓から車内に飛び込んできて乗客にも命中したが、誰もそれを咎めるようなことはしなかった。まぁお祭りなんだから仕方ないなぁ、という感じで笑いながら濡れているのだった。
ホーリーの喧噪は、ポカラの町に着いても変わらなかった。相手が外国人であっても、攻撃の手を緩めることはしない。というより、外国人は地元民よりも目立つから、かえってターゲットにされやすいぐらいだった。
僕が町を歩いていると、家の屋根の上から水風船爆弾が降ってきたり、水鉄砲を構えた子供に追い回されたりした。反撃しようにも、こっちには手持ちの武器がないので、やられるままである。最初は逃げ回っていたけど、途中から諦めて濡れるがままに任せた。もちろん、カメラだけは濡れないように守ったが。
結局、ホテルに帰る頃には、僕の顔には悪役レスラーみたいな極彩色のペインティングが施され、白いTシャツもスプラッタームービーみたいに赤く汚れてしまったのだった。
ホテルの従業員はそんな僕の様子を見て、笑いを噛み殺しながら「アンラッキーでしたね」言った。フウン、フウン、と僕はサンタの口調をまねて繰り返した。
ポカラには一泊しただけで、次の日にインド行きのバスに乗った。ポカラはカトマンズ以上にツーリスティックで、欧米人ばかりが目立つ町だった。美味しいパンを焼く店があり、安いわりに清潔な宿があり、日本食レストランまであった。居心地がいいので、一週間でも二週間でもいられそうな町だった(実際にそういう旅人も多かった)。
それでも僕はネパールを離れることに決めた。あの山村を歩いてしまったあとに、ネパールに居続ける理由を見つけられなかったのだ。再び西へ進もう。そのためには、まずインドに帰らなくてはいけない。
バスは夕方に国境の町スノウリに到着した。予定ではこの日のうちに国境を越えて、ガンガーのほとりの町バラナシ(ベナレス)に行くはずだったのだが、ここでもトラブルが発生した。バラナシ行きのバスは出ない、というのである。
「今日はホーリーだから、バス会社はどこも休んでいるんだ」とバスの客引きの男は言った。
「でも、ホーリーは昨日だっただろう?」
「いや、昨日ホーリーだったのはネパールの話だ。インドのホーリーは今日なんだよ」
「本当に全部休みなのかい?」
「そうだよ。今日は誰もバラナシには行かない。あんた、アンラッキーだったな」
他のインド人に聞いても、明日まではバスは動かないから、この町に一泊しろ繰り返すばかりだった。やれやれ、ここのところ「アンラッキー」という言葉が、僕の周りにつきまとっているらしい。僕は諦めてこの町に一泊することにした。
「ホーリーになると、インド人はみんなクレイジーになるんだ。普段の鬱憤を晴らしたいんだろうね。バラナシのホーリーは特に危険で、町中で暴れ回る若者がいたり、酔った男が酒瓶をバスに投げつけることもあるらしいよ」とインドを何度も訪れているという旅行者は言った。
そんなに盛り上がるホーリーなら、ぜひ本場のバラナシで見ておきたかったが、どうしようもなかった。今のところ、旅の運は僕の方に向いてはいないのだ。