4290 フンザは小さな村である。6000m、7000m級の山々に周囲を取り囲まれた痩せた土地に、雪解け水を利用した段々畑と、石造りの簡素な家がぽつぽつと立ち並ぶ、とても小さな農村だ。

 しかし、フンザの春はたとえようもなく美しかった。僕が訪れた4月のはじめは、フンザが一年で最も輝く季節、村中に植えられた数百本のアンズが一斉に花を咲かせる季節だった。アンズの花はあるものは純白で、あるものはピンクがかっていた。日本の染井吉野ほどの派手さはないけれど、繊細で気品のある花だった。

 この村に着いたとき、僕は背負っている荷物の重さも忘れて、ただ目の前の光景に見とれて、その場に立ちつくした。満開のアンズと段々畑の麦穂は、透き通るような日の光を浴びて誇らしく輝いていた。畑の周りには背の高いポプラが等間隔に植えられていて、枝から枝へと尾の長い青い鳥が渡っていくのが見えた。

 そして、それら生き物の営み全てを見下ろすように、万年雪を頂いたカラコルム山脈が雲間から顔を覗かせていた。空気はあくまでも澄み切っていて、少し手を伸ばせば白い頂にまで手が届きそうに思えた。

 フンザは観光パンフレットなどでは「桃源郷」と呼ばれている。誰がどういうきっかけでそう呼び始めたのかはわからない。だけど、この手の謳い文句を簡単に信じるわけにはいかない。宣伝文というのは、ある程度の誇張を含んでいるものだし、そうでなければ既に観光地化が進んでしまっているからだ。

 でも、アンズの花咲くフンザの村は、まさに「桃源郷」そのものだった。水の青さや、雲の白さや、日差しの温かさ、風に含まれる春の匂い。そういったもの全てが、自分の中にある「桃源郷」のイメージとぴったりと重なったのだ。

42884247 フンザへの道のりは容易ではなかった。飛行機を使えばラワールピンディから数時間で行けるという話だったが、そんな無駄遣いをしている余裕はないので、当然のごとく山道をバスで行くことにした。だけど、途中のギルギットまで18時間、そこからタウンエースに乗り換えて更に3時間を狭いシートの上で過ごすのは、さすがに堪えた。

 カシミール地方の大動脈である「カラコルム・ハイウェー」は、舗装こそきちんとされているものの、大半が急な峠道であるために常に体が右に左に揺られて、おちおち寝ている暇がなかった。その上、隣に座った男の靴から発せられる想像を絶する異臭が(パキスタンの男は足を洗わないのだろうか?)、僕の眠気を根こそぎ奪っていった。

 昼夜を問わず走り続けるバスの足を止めるのは、何度となく起こるパンクだった。アスファルトは比較的新しいものの、崖の上から頻繁に落石があって、それがタイヤを傷つけるらしい。運転手と車掌がスペアタイヤ(彼らは驚くべき数のタイヤを用意していた)を交換している間、僕ら乗客は立ち小便をしたり、縁石の上で煙草を吹かしたりして時間を潰した。

4242 あたりは月面を思わせるような不毛の世界だった。延々と続く、荒々しい岩肌と山頂付近の万年雪。この単調だがダイナミックなカラコルム山脈の姿に圧倒されていると、隣にいた男が無言で煙草を差し出してくる。「吸わないんだ」と首を振ると、男は「遠慮はいらん」とばかりに強引に煙草を押しつけてくる。断るのも面倒になって、男の火を借りて一口吸うと、出発を告げるバスのクラクションが鳴る。そして僕らは再び狭いバスの座席に押し込められて、右へ左へ揺られるのだった。

 
 

急ぐ必要はないし、誰も急がない

4332 朝起きて宿を出ると、僕はさっそくアンズの花がアーチのように咲きかかる小路を歩くことにした。高い峰に雲の切れ端が引っ掛かっているのを除けば、一面の青空が広がっている。散歩するにはうってつけの清々しい朝だった。

 標高2500mの高地である為に、坂道や階段を急いで歩くと、すぐに息が切れてしまう。だから、フンザに住む人々の生活リズムは、自然とゆったりしたものになる。急ぐ必要はないし、誰も急がない。

 そんなわけで、村人達は穏やかな朝を思い思いにのんびりと過ごしていた。ある若者は小さな電子ゲームに夢中になっていたし、子供達は木々の間にロープを渡してブランコ遊びをしていた。それぞれの家の屋上には、洗濯物が気持ちよさそうに揺れていた。道端ですれ違うのは、籠一杯の枯れ木を背負って歩く女か、意味もなく鳴き続ける山羊ぐらいだった。

 花の小路を抜けたところに小学校があった。休み時間なのか、オレンジ色の制服を着た子供達が、道端でふざけあっていた。フンザの子供達は外国人を見慣れているので、「ハロー、ハロー」とフレンドリーに声を掛けてくる。中には「ペンをちょうだい!」と右手を出してくる子供もいるが、それほどしつこくはない。

4352「ペンは持ってないよ。ノー ペン」
 僕が笑顔で肩をすくめてみせると、子供の方も「ノー ペン!」「ノー ペン!」と屈託のない笑顔で繰り返す。子供達にとってはこれもコミュニケーションのひとつなのだろう。実際、フンザにはペンひとつ買えないような貧しい子供は、ほとんどいないように見えた。これといった産業のない農村だけど、ここを訪れる旅行者が落としていくお金は決して少なくはないからだ。

 授業開始を告げる鐘が鳴ると、子供達は元気よく手を振って、学校に戻っていった。彼らは校舎には入らずに、校庭に座って教科書を広げた。青空学級だ。天気のいい午前中だからなのか、毎日のことなのかはわからないけれど、澄んだ青空とその下で輝くオレンジの制服の取り合わせは、とても鮮やかだった。
 若い女の先生が、子供達の前で英語の例文を読み上げる。
「It is fine today」
 生徒達は先生の後について繰り返す。
「It is fine today」

 しかし英語の例文とは裏腹に、正午を過ぎると空は徐々に雲に覆われていき、万年雪を頂いた峰は雲の中に消えてしまった。まるでムスリムの女性が、その美しい顔をショールで隠すように。「美しいものは隠しなさい」というのはイスラムの合言葉である。カラコルムの山でさえ、その習慣を律儀に守っているようだった。

 

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とにかく長く厳しい冬なのさ

4282 日の光が遮られると、ぽかぽかとしていた朝が嘘のように、冷え冷えとした風がフンザの谷を渡るようになった。満開のアンズの花は、風が吹く度にさらさらという小さな音を立てながら散っていった。

 散歩を終えて宿に戻る途中に、石垣に腰掛けている4人の老人とすれ違った。フンザでは彼らのように表に出て日向ぼっこをしたり、お茶を飲みながら世間話をしている老人の姿をたくさん見かけた。フンザは「長寿の村」としても知られているのだ。

 僕が挨拶をして通り過ぎようとすると、
「あんた日本人かい?」と英語で話し掛けられた。
 声を掛けてきたのは、一番年長の老人だった。青空授業でも見たように、パキスタンは英語教育に力を入れている。インドと同じように多言語国家であるパキスタンでは、高等教育は英語で行われているのだ。それでも、老人が英語で話し掛けてくることは稀だった。

「そうです。日本人です」と僕は答えた。
「日本はいい国だ。私は好きだよ」
 老人は言った。言葉は聞き取りにくかったが、喋り慣れた英語だった。88歳だということだったが、とてもそんな年には見えない。
「でも、ごらんの通り杖をつかなければ歩くこともできないし、歯は皆なくなっておるし、後は死ぬのを待つばかりさ」
 そう言うと、彼は口を大きく開けて笑った。確かに歯は全部抜け落ちていた。

「私は以前にイギリスの軍隊におったんだよ。もうずいぶん昔の話だがね。ロンドンにも行ったし、インドにも長くいた。だが、インドとパキスタンが別れた時に、私も軍隊を辞めてパキスタンに帰ってきたんだよ」
「ネパール人もイギリス軍の兵隊になっていましたね」
「その通り。よく知っとるな。グルカ兵達ともよく一緒になった。50年前の話だ」
 僕がネパールの山奥でグルカ兵の老人と出会った話をすると、老人は親近感を覚えたらしく、軍隊にいた当時のことを懐かしそうに話し始めた。第二次大戦、パキスタンの独立、それに続くインドとの戦争。彼は何十年も前の話を、つい先週の出来事のように話した。

4336「冬になると、フンザの人々は何をしているんですか?」と僕は老人に訊ねた。
「長い冬」と言ってから、彼はその長さを確かめるように一呼吸置いた。「冬になると、このあたりは深い雪に覆われてしまうし、気温はマイナス25度にもなる。もちろん観光客は来ないし、ホテルもレストランも土産物屋も全部閉まる。女達は扉をしっかり閉めて、家の中に閉じこもって編物をしたりして過ごす。男たちは時々、野生の山羊を狩りに、銃を持ってあの山に登る」
 老人は村を囲む切り立った斜面を指差した。草もろくに生えていないような荒々しい崖。あんなところで、冬の山羊は何をしているんだろう。

4334「とにかく長く厳しい冬なのさ。だから春が来て雪が溶けると、わしらは表に出てのんびりと話をする。今が一番いい季節だ」
 老人はメガネの奥の細い目をさらに細めて言った。僕らが話をしている間にも、空を覆う雲は更に厚くなり、風はいっそう冷たくなった。風で散ったアンズの花弁が、いくつか老人の肩に落ちた。

「山の天気は変わりやすい」
 老人は空を見上げて言った。
「明日になれば、また晴れるでしょうか?」
「さあな。山の天気は誰にもわからん。God knows」
 神のみぞ知る、か。なかなか粋な台詞を言ってくれる。
「それじゃあ、そろそろ私は家に戻るよ。このぶんだと、これから寒くなりそうだ」
 そう言うと、老人は杖を支えにして立ち上がり、一歩一歩踏みしめるように石畳の坂を登っていった。この村の時間の流れそのもののように、ゆっくりとした歩みだった。

 老人が去ってからも、僕はその場所に留まって、アンズが風に舞い散る様子を眺めていた。しかし老人の言った通り、天気は悪くなる一方だった。やがて強い風が砂埃を巻き上げ、土産物屋が店先に飾ってある絨毯を急いで仕舞い込み始めると、僕も諦めて宿に戻った。そして宿の食堂で夕食を食べて、シャワーを浴びて全身の埃を落とした。

 
 

居心地の良い場所に留まるわけにはいかない

4295 部屋に戻ってもすることがなかったので、日本にいる友達に手紙を書くことにした。近くの土産物屋で買ってきた干したアンズの実と大粒のクルミをつまみながら、僕は裸電球の明かりの元でペンを走らせた。不安定な電圧のせいで、電球の明かりは強くなったり弱くなったりを繰り返した。絶え間なく吹き続ける風が、立て付けの悪い窓ガラスをカタカタと鳴らし続けていた。

 僕はまず今までの旅の経過をざっと振り返り、そして春のフンザの美しさについて書いた。

「―――でも、僕がこの美しい村を歩いている間ずっと感じ続けていたのは、哀しさでした。どうしてそんな気持ちになるのか、最初は自分でも理解できませんでした。穏やかな日差しの中で、満開の白い花の中で、どうして哀しくならなくちゃいけないのだろうと。だけど、ゆっくりとした足取りで、自分の家に戻っていく老人の後ろ姿を見送るうちに、その理由が徐々にわかってきたのです。

4320 僕はできるだけ長く、フンザに留まりたいと思っていました。せめて、このアンズの花が完全に散ってしまうまでは。もちろん、そうしようと思えばそれは可能なことです。僕にはこの先の予定なんてないし、一泊300円の安宿の居心地は最高です。

 実際にバックパッカー達の多くは、フンザの村に1週間か2週間は滞在していきます。フンザはアジアを横断する旅人にとっては、オアシスみたいな場所なのです。バンコクやバラナシのように、刺激的な場所ではありませんが、何もしなくても、ただ山と花を見ていれば心が満たされていくという場所なのです。確かにここは旅人にとっての憧れの土地、「桃源郷」なのかもしれません。

 その一方で僕は、「居心地の良い場所に、いつまでも留まるわけにはいかない」とも思っていました。どんなに素晴らしい風景であっても、時が経てば徐々に新鮮さは失われていくものです。だから僕は記憶の中にまだ鮮やかさが残っているうちに、ここを去りたいと思ったのです。それが、僕がこの四ヶ月繰り返してきたことなのです。

 見たことのない光景を探し求め、それを消費し、別の場所に向かう。その繰り返しが旅人の本質なのだと気付いたのです。そしてそれに気付いたとき、とても哀しくなったのです。
 いったい何のために絶え間ない移動を続けているのだろうか。どうして西へ西へと急いでいるのだろうか。その問いを自分自身に投げかけても、はっきりとした答えは返ってきません。もしかすると、僕は何かに捕らえられて、そこから逃れられなくなることを恐れているのかもしれません」

4324 夜の10時を過ぎると、風はぴたりと止んだ。そのあとでフンザの谷を包んだのは、恐ろしいほどの沈黙だった。いくら耳を澄ましても、窓の外からは一滴の音も聞こえてこなかった。
 僕はペンを置くと、裸電球を消して毛布にくるまった。
 沈黙と暗闇の中では、何も聞こえないし、何も見えなかった。