ブカレストの中心に聳える「国民の館」は、超現実的なほど巨大な宮殿である。なにしろ床面積が世界中の宮殿や政府機関の建物の中でも2番目の大きさ(1番はアメリカ国防総省ペンタゴン)だというのである。これと言った産業のないルーマニアという国の象徴としては、あまりにも巨大な建物である。よくこれだけ大きな建物をさしたる目的もなく造ったものだと感心してしまう。

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7126 1989年までルーマニアを支配していた独裁者チャウシェスクが巨費を投じて造らせた宮殿が「国民の館」などという名前を付けられているのは、皮肉以外の何者でもない。この建物のために費やした税金はあまりにも莫大で、それによってルーマニア経済はひっ迫し、国民が困窮を強いられたというのだから。
 しかしそれも過去のことで、現在建物の内部は有料で一般公開されている。というわけで、僕も入ってみることにした。ブカレストの観光名所と言えば、ここぐらいしかないのである。

 「国民の館」の入り口には空港にあるような荷物チェック用のX線装置もあって、かなり物々しい警備体制が敷かれている。一般公開されているとは言っても、単独行動は許されておらず、僕ら外国人観光客は英語のガイドの後ろについて見学することになる。部屋数だけで何百もある館の中を一人で歩き回るのは無茶であるというのが公式な説明だが、観光客に勝手にうろうろされたくないというのが本音なのだろう。

 

「時代錯誤」という言葉がぴったりな建物

7130 どことなく緊張感の漂う「国民の館」内部にあって、ひときわ異彩を放っていたのがチケット売り場のケバいお姉ちゃんだった。彼女はノースリーブのミニのワンピースを着て、肩紐をだらりと垂らせていた。そして夜の商売から寝ないで出勤してきたのよ、とでも言いたそうな眠たげな表情を浮かべていた。
 ガイド役の女性もインフォメーションの係員も警備員も、みんな制服を着ているというのに、どうして彼女だけがこんなに挑発的な格好をしているのか不思議だった。しばらくその理由を考えてみたけれど、上手い説明は思いつけなかった。もしかしたら、かつてこの国を支配していた権威の象徴が、庶民の手に落ちたということのアピールなのかもしれないとも思ったが、たぶんそれは勘ぐりすぎだろう。

 石造りの巨大建築物の多くがそうであるように、宮殿内部は外に比べてひんやりとしていた。つるつるに磨き上げられた大理石の床にギリシャ神殿風の円柱が並ぶ廊下は、駅のホームがすっぽりと収まってしまうぐらい長い。壁には大きな額に入ったルネサンス風の宗教画が掛かっている。
 ゴシック様式のダンスフロアがあり、ドイツスタイルの会議室があり、その他ヨーロッパのありとあらゆる建築様式を取り入れた部屋が、尽きることなく並んでいる。天井は高く、シャンデリアは豪勢で、敷き詰められた絨毯ももちろん最高級のものである。

7134 まったくたいした建物だった。およそ1時間ほどの見学ツアーの間、僕は他の観光客と同じようにその装飾の美しさにため息をつき、呆れるほど高い天井を見続けて首が痛くなった。しかし贅を尽くしたものの多くがそうであるように、この「国民の館」の豪華さにもある種の馬鹿馬鹿しさが含まれているように思った。絢爛ではあるのだけど、そこには行き場のない虚しさが漂っていた。

 つまるところ「国民の館」とは、ただ「豪華である」ということを目的として造られた建物なのだ。絶対王政の時代に建てられたベルサイユ宮殿のようなものを、現代のさして豊かではない国のリーダーが建てようとしたのである。「時代錯誤」という言葉がこれほどぴったりと来る建物は、世界中を見渡してもあまりないだろうと思う。

7143 このような時代錯誤的な巨大建造物が街の中心に聳えているからなのか、ブカレストは奇妙に歪んだ街だった。中央集権型国家の首都であることのいびつさが、街全体をすっぽりと覆っているように見えた。ひとつひとつの建物は立派で、道路も整然と整備されているのだが、そのどれもがのっぺりとして無表情で、まるで張りぼての映画のセットの中を歩いているように現実感が乏しかった。

 

7151 ブカレストを歩くとき、僕はサイズがふた回りほど大きい靴を履いて歩き回っているような独特の疲労感に襲われた。都市を構成するパーツが巨大なのに、そこを歩く人の数が異様に少ないために、遠近感が狂ってしまうのだ。近くに見える建物が実際には遠く、遠くを歩いているように見える人が案外近くにいたりするのである。神経が奇妙なくたびれ方をするのがブカレストという街だった。

 しかし、過去の遺物をそのまま引きずっているように見えるブカレストの街にも、変化の兆しはあちこちで見られた。1989年、独裁者チャウシェスクの銃殺刑というショッキングな形で政権が転覆して以来、ルーマニアにも外国資本が流入し始め、マクドナルドなどのファストフード・チェーンも次々に進出し、新しい消費生活が始まっているのだ。

7146 「国民の館」から「統一広場」へと伸びる片側4車線もある広い道路の両側には、かつてルーマニア共産党の幹部が住んでいたという巨大なアパート群が建ち並んでいる。しかし現在、そのアパートの屋上を占領しているのは外国企業の広告看板である。コカコーラ、ペプシ、デウー自動車。それらの派手なロゴマークは、のっぺりとした建物にカラフルな彩りを与えている。それは資本主義の静かなる勝利宣言のようにも見えた。