ルーマニアは比較的鉄道が整備されていたので、久しぶりに列車の旅を楽しむことができた。ブカレストから出発して、シナイア、ブラショフ、シギショアラ、クルージ・ナポカ、サツマーレといった町を巡った。駅の近くにある適当な宿を見つけてそこに一泊し、次の日にはまた列車で移動する、ということを繰り返した。
車窓の風景はあまり変わり映えのしないものだった。緩やかな丘陵地帯と、耕作された黒い土地。農家の小さな集落と教会の鐘楼。そんなものが交互に目に飛び込んでくるだけである。美しいことは美しいけれど、何時間も続くといい加減退屈してくる。
そんな単調な世界に彩りを添えてくれるのがヒマワリ畑である。まだみずみずしさを残した初夏のヒマワリの鮮やかな黄色が、視界一面にぱっと広がると、退屈して沈みがちな気分まで浮き立ってくる。魂の画家ゴッホがあくまでヒマワリを描くことにこだわったのも、わかるような気がする。緑の平原の中に現れるヒマワリの黄色は、生命の豊かさの象徴のような存在なのだ。
もっとも、ルーマニアのヒマワリは人々の目を楽しませるために植えられているわけではない。トルコでもブルガリアでもルーマニアでも、ヒマワリの種はおっさんたちに大人気のおやつなのだ。実際、公園のベンチなどでは、男達が冬眠明けのリスのように休むことなく次から次へとヒマワリを口に運ぶ姿をよく見かけた。一度食べ始めると、なかなかやめられないものらしい。
あの鮮やかなヒマワリもやがておっさんたちの口に運ばれるんだなと思うと、ただ美しいだけでは満足しない人間の性のようなものまで感じてしまうのだった。
ルーマニア人は性にオープン
ルーマニアで泊まった宿は変わったところが多かった。首都ブカレストは別にしても、他の町はまだ外国人を受け入れるような態勢は整っていない様子で、恐ろしく雰囲気の暗い社会主義時代の遺物のようなホテルや、まるでやる気のない安宿が幅を利かせていた。
そんな宿の中でも一番印象深いのが、サツマーレという町の駅前に建つ「カサブランカ」という名前のホテルである。ホテル・カサブランカはナイトクラブの二階にあって、部屋に入るためにはナイトクラブのステージを横切って、舞台の裏にある階段を上らなくてはいけないのだ。そしてそのステージで行われているダンスショーというのが、相当にエロティックなものなのだった。
ステージは鏡張り。踊り子は20歳ぐらいの若い女の子4,5人。衣装はTバックの下着みたいなきわどいものである。それでもってステージの中央には鉄の棒が2本立っていて、踊り子達はそれに足を絡ませてぐるぐる回ったり、体を思いっきりのけぞらしたりして、エロティックな肢体を男性客に見せつけるのである。
そんなステージの横をバックパックを背負った外国人がいそいそと通り抜けるのだから、光景としてはかなり奇妙である。「場違い」と言ってもいいだろう。
舞台裏を通るときに、着替え途中の踊り子と顔を合わせることもあった。しかし、上半身裸のままでメイクをしている姿にびっくりするのは僕の方で、踊り子は特に胸を隠すわけでもなく、明るく「チャオ!」と手を振ってくれるのである。もちろん僕も男だから、少しは「ラッキー」と思わないこともなかった。
ルーマニア人は東欧の中で唯一ラテン系の民族で、明るく情熱的な国民性を持つという。踊り子達のあっけらかんとした様子を見ていると、なんだかそれも頷けるのだった。
社会主義の時代からそうだったのかは知らないけれど、ルーマニア人は恋愛についても性についてもとてもオープンだという印象を受けた。町の公園に行けば、昼間から情熱的な口づけをするカップル達の群れをイヤというほど見せつけられるし、キオスクにはアンダーヘアー丸出しのポルノ雑誌が並んでいた。
ホテル・カサブランカのマネージャーは赤ら顔の酔っぱらいで、黒服をびしっと着込んでいるものの、口を開けると酒の匂いがぷんと漂ってくる男だった。
「あんたルーマニアは好きかい?」
マネージャーは片言の英語で僕に訊ねた。
「ブカレストは嫌いだけど、他の町は好きだよ」
と僕は言った。そしてブカレストでスリとぼったくりタクシーと偽警官に次々と遭遇した話をした。
「ブカレストは、ありゃルーマニアじゃないんだよ」
彼はいまいましそうに言った。ブカレストを嫌っているルーマニア人も多いらしい。
「ところであんた、ルーマニアの名産品って何か知っているかい?」
「さぁ・・・わからないな」
「酔っぱらいと美人だよ。ルーマニアで自慢できるものは、それだけだ」
マネージャーは焦点がはっきり定まらない目で言った。僕は「はぁ」と気のない返事をした。
「あんたも部屋に荷物を置いたら、クラブに来な。酔っぱらいの男ととびっきりの美人がたくさんいる。ルーマニアを知りたければ、酒を飲まなきゃだめさ」
せっかくの誘いだったが、僕は適当な理由を言って断った。長い移動で疲れていたというのもあるし、女の子のいるナイトクラブで酒を飲んで遊んでいられるほど余裕のある旅をしているわけでもなかった。僕が断ると、マネージャーは意外にあっさりと引き下がった。たぶん、こいつはあまり金を持っていないと思ったのだろう。
ナイトクラブの派手さから、日本のラブホテルのようにけばけばしい内装を予想していたのだけど、実際の部屋は拍子抜けするほどシンプルだった。ここもいわゆる「連れ込み宿」には違いないのだろうが、「メイク・ラブする場所」が特殊かつグロテスクな進化を遂げたのは、日本のラブホテル独自の文化なのだろう。
晩飯は駅の売店でハンバーガーとミネラルウォーターを買ってきて食べた。ハンバーガーは出来合いのものを店の電子レンジで温めて渡してくれるのだけど、パンが水分を吸ってふにゃふひゃになっているという実にひどい代物だった。ミネラルウォーターもぬるい上に炭酸入り(ルーマニアのミネラルウォーターはすべて炭酸入りである)で、気の抜けたビールを飲んでいるような惨めな味がした。しかし文句を言っても他に選択肢がないのだから、黙って食べるしかなかった。
ルーマニアの田舎町では、食糧の確保に苦労した。地元の人には外で食事をするという習慣がほとんどないらしく、安い食堂というものが全く存在しないからだ。たまに食堂を見つけて入ってみても、「電子レンジでふにゃふにゃバーガー」や、「適当に作ってみた中華料理」などを出すやる気のない店ばかり。しかも夜は早々に閉まってしまうので、空腹のまま町をうろうろとすることもしょっちゅうだった。
空腹を何とか満たすと、すぐに眠気がやってきた。階下のナイトクラブで流されているハードロックが耳障りではあったけれど、布団を被ると気にならなかった。
眠りの最深部に達していた僕を現実の世界に引き戻したのは、隣の部屋から聞こえてくる物音だった。ギシギシとベッドの軋む音がリズミカルなビートを刻み、それ合わせるような女の叫び声が聞こえてきた。女の声は次第に熱を帯び、大きくなっていく。
僕は枕元の時計を見た。4時半だった。やれやれ、なにもこんな時間から始めなくてもいいじゃないか、と思った。でも、ここが酒とセックスが合体した風俗宿である以上、彼らは当然のことをしているのだから、それについて文句を言っても仕方がない。こんなところで眠っているバックパッカーの方がおかしいのだ。でも4時半だぜ、まったく。
一度醒めてしまった眠りを取り戻すのは大変だった。女の声はますます熱を帯び、ほとんど絶叫のような声になった。あんな声を出すってことは、さぞかし気持ちいいんだろう。それとも女が演技をしているだけなんだろうか。あの踊り子の中の一人だろうか。男はどんな奴なんだろう・・・考えたくもないのに、ついそんなことを考えてしまうのだ。音しか聞こえない状況というのは、人の想像力を余計に刺激するものらしい。
僕は眠るのを諦めて、部屋のテレビをつけてCNNのニュースを眺めることにした。ニューヨークの株価が下がったり、どこかの国で爆弾テロが起きたり、日本の首相がイギリスの首相に会いに行ったりしていた。ニュースのネタは尽きず、世界は目まぐるしく変化していた。
女の激しい声とベッドの軋む音をBGMにしてCNNを眺めていると、政府が変わっても戦争が起きても、性の営みだけはずっと変わらずに繰り返されてきたんだな、という妙な感慨が沸き上がってきた。「Love&Peace」不意にジョン・レノンを思い出した。
そんなことを考えているうちに、隣の物音は止んでしまっていた。どちらかが絶頂に達したのだろう。
窓の外はそろそろ明るくなり始めていた。今日も地球は回っていることを確認して、僕は再び眠りについた。