クロアチアからボスニア・ヘルツェゴビナへ
ルーマニアから列車でハンガリーのブダペストに入り、クロアチアのザグレブを経て、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに到着した。
ザグレブからの国際バスがサラエボのバスターミナルに着いたのは、朝の6時だった。こんな早い時間にバスを降りても何もやることがないので、しばらくターミナルのベンチに座って時間を潰し、8時になってから動き始めた。
まず近くの旅行代理店に行き、プライベートルームを紹介してもらった。サラエボには他の東欧諸国同様に一般家庭の部屋を間貸しするプライベートルームがあるのだが、何しろ観光客がほとんど来ない町なので、客引きもいない。だから旅行代理店に紹介してもらわないといけないのだ。
旅行代理店のおばさんは流暢な英語で一泊40マルク(2200円)のプライベートルームを紹介してくれた。町の中心にある古いアパートメントの5階にある部屋で、ドイツ語とイタリア語が話せる(でも英語はほとんど通じない)ムスタファ夫妻が暮らしていた。子供が独立して空いた部屋を旅行者に間貸ししながら、のんびりと老後を過ごしている夫婦だった。
僕が泊まることになった部屋は一人で寝るにはもったいないぐらい広かった。壁には品の良い絵画がかけられ、座り心地のいいソファーが二つ置かれていた。日本のように玄関で靴を脱ぐ決まりなので、室内もとても清潔だった。僕は洗面所で歯を磨いてから、広いベッドに横になって2時間ぐっすりと眠った。
サラエボに残る内戦の傷跡
サラエボの第一印象は「どこにでもある東欧の地方都市」だった。市街地は小綺麗だが、人口密度が低く、町に活気はない。しかし10分も歩けば、サラエボが他とは違う町だということがすぐにわかった。
1992年から3年半続いたボスニア・ヘルツェゴビナ内戦によって27万もの人が亡くなり、町は深く傷ついた。内戦終結から6年が経過した今でも、その傷がまだ完全には癒えていなかったのだ。
内戦の傷跡は、町の至るところで見つけることができた。たとえば、駅に隣接したバスターミナルから大通りをしばらく歩いたところにある旧共和国議会の高層ビルは、窓ガラスが全て吹き飛び、外壁は崩れ落ちた状態のまま放置されていたし、無数の弾痕が壁一面に刻まれた住宅もあちこちで目にした。
市の中心部よりも郊外の方が破壊の程度は大きかった。中でも戦闘の最前線にあったオスロボジェーネ新聞社は、無残なまでに破壊し尽くされていて、原型を留めるのがやっとという状態だったし(しかし戦争中も地下の核シェルターの中で新聞を発行し続けたというからすごい)、その近くにある老人ホームだったという派手な色の建物も、壁が崩れ去ったままの無惨な姿を晒していた。
驚いたのは、その屋根も壁もない元老人ホームに、ちゃんと人が住んでいるということだった。と言っても現在の住人は戦災前から住んでいた人ではなく、物乞いや廃品回収を生業とするロマ達である。
彼らはまるで吉本新喜劇の舞台セットのような開けっぴろげ状態の部屋の中で、ソファに座ってコーヒーを飲み、野良犬なのか飼い犬なのかよくわからない大型犬と一緒に暮らしていた。
廃墟の2階に住む男が唖然としている僕に向かって、
「どうだい、グッド・ハウスだろう?」と大声で言った。
「雨が降ったらどうするんです?」
僕は身振りを交えて聞いてみた。
「このままに決まってるじゃないか!」
男は両手を広げて天を仰いでみせた。
廃墟に住むロマ達は、第二次大戦直後の様子を記録した映画に出てくる「瓦礫となった家の中で途方に暮れる市民」とは違って、何だか楽しそうに暮らしていた。実際には雨が降ったら家具は全部濡れてしまうし、寒い冬がやってきたらどこか別の住処に移動しなくてはいけないのだろうけど、少なくとも今の彼らの表情は明るかった。彼らにとってここはもう既に戦争が生んだ廃墟ではなく、新しい生活の場なのだ。
パン屋とカフェと床屋が多い町
サラエボにはパン屋とカフェと床屋が目立った。こんなに理髪店、美容院の類が多い町というのも他にはちょっとない。2軒の理髪店が隣同士で営業していたりする場所もある。客の取り合いで喧嘩にならないのかなと思いながら道の向かいを見ると、そこにも美容院があったりする。まさに雨後の竹の子状態である。
おそらく戦争で職を失った人が、資金も場所もそれほど必要とせずに始められる商売として、こういった店を選んだのだろう。でももちろん客の方は増えたりはしないわけで、決まった大きさのパイを巡ってかなりの過当競争が繰り広げられているんじゃないかと想像する。実際、客がいなくて暇そうに新聞を読んだり、通りをぼーっと眺めている経営状態の思わしくなさそうな理髪店をずいぶん目にした。
ちょうど髪の毛も伸びてきた頃なので(この前はトルコでカットしてもらった。150円だった)、僕は目に付いた床屋に入ってみることにした。そこはサラエボの床屋の中ではわりあいに大きめの店で、店内には椅子が6つ並んでいるのだが、お客は一人も座っていなかった。
床屋の主人は暇を持て余した様子で、奥さんらしき人と話をしていた。値段を訊ねると、カットが5マルク(270円)だという。サラエボの物価水準は日本や西欧のそれに比べて安いものの、アジアレベルでは決してない。例えば路面電車やバスは1回60円するし、パンひとつが50円ほど。その中で270円というのはかなり安いと思う。
散髪の腕の方はまぁ悪くはなかったけれど、問題は主人がひどく酒臭いこと(仕事中に一杯飲んだというよりは、昨日の酒がまだ抜けきらないという感じだ)と、カットよりもお喋りの方に夢中になることだった。しかもこの男、話しながら手を動かすということが出来ないタイプらしく、奥さんが何か言う度にいちいち手を止めて、はさみと櫛をぶんぶん振り回してジェスチャーを交えながら大声で話すという、ちょっとたまらないおっさんだった。
椅子や鏡の古び方を見ると、ここは内戦前からある店のようだった。でもこれだけどっと商売敵が増えてくると、客の何割かは奪われたのだろうと思う。それでも店の中に不景気の暗さというものは感じられなかった。商売が上手く行っても行かなくても、おっさんは毎晩酒を飲み、はさみをぶんぶん振り回しながら、お客そっちのけで奥さんとのお喋りに明け暮れているのだろう。
サラエボの町で見かけた珍しいものと言えば、運転免許教習車である。日本以外の国でそんなものを見たのは初めてだったから、これはちょっとした驚きだった。日本の教習車と同じようにプラスチックのプレート(きっと「仮免練習中」とか何とかと書いてあるのだろう)を屋根の上に掲げた白いセダンを、初心者ドライバーが恐る恐る運転しているのだ。ハンドルを握っているのはだいたい中年の奥さんで、助手席には若いお兄ちゃんが乗っている。そして奥さんはハンドルにしがみつくような姿勢で、ノロノロと車線変更をしているのだった。
回復しつつある日常
サラエボの町に残る戦争の傷跡のいくつかはとても生々しく、この地で行われた激しい戦闘を今にはっきりと伝えていた。それでも二日間サラエボの町を歩きながら僕が感じたのは、「戦争が過去のものになりつつある」ということだった。人々はごく当たり前の日常生活をごく当たり前に送っていた。
もちろん戦争から6年が経っているとは言っても、まだ不安定な地域であることには変わりなく、揃いの軍服を着た和平安定化部隊の兵士や、警察官の姿は町のあちこちで見かけた。しかし警察官が主に取り締まっているのは違法駐車などの交通違反だったし、武装した兵士達の表情からも差し迫った危機感を感じることはなかった。彼らよりも、トルコ東部国境付近の兵士の方がよっぽど鋭い目つきをしていた。
回復しつつある日常――サラエボで目にした光景は、僕に神戸の街を思い出させた。
1995年1月に地震が起こったとき、僕は神戸市灘区に住んでいた。死者が一番多く出た地区だったけれど、僕の暮らしていたアパートは六甲山を少し登ったところにあったので、幸い実質的な被害は何も受けなかった。震災の被害は海岸沿いの地盤の弱い地域に集中したのだ。
朝、バイクに乗って町に降りた僕の目に飛び込んできたのは、見慣れた街並みの変わり果てた姿だった。道路はあちこちで陥没し、倒壊した民家からきな臭い匂いが漂っていた。いつも買い物に行くスーパーマーケットは完全に押しつぶされ、町のあちこちから黒い煙が立ち上っていた。
あの日起こった出来事は、これまで半永久的に存続すると漠然と信じていたものの多くが容易に崩れ去ってしまうのものなのだということを、衝撃的な形で僕の意識に刻み込んだ。僕らは実に脆いものの上に乗っかって生きている存在なんだと思った。
地震が起きた直後、専門家達は「復興には10年は必要だ」と言っていた。でも、実際には2,3年もすれば地震の傷跡はほとんど見えなくなってしまった。これは驚くべき早さだった。
震災から1年少し経った頃に、古い友達が神戸にやってきた。彼は復興工事の進む三宮の町を歩きながら、「案外普通なんだな」と言った。地震があっても家を失っても、人々は普通に生活している。彼はその逞しさに驚いたのだった。
日常というものはいつ失われるかもしれない脆いものだ。しかし、何かのきっかけで日常が崩れてしまった後、僕らに残された選択肢というのは、その失われた日常を取り戻すこと以外にはない。そして人は日常を取り戻すためには、いくらだってタフになれる。震災後の神戸はそんなことを教えてくれたように思う。
サラエボの町を歩いたときも、内戦の惨さや破壊の大きさよりも、人々の逞しさの方を強く感じた。
人々は戦争のことを忘れようとしていた。やっと訪れた平和な日常を享受しようと、過去の忌まわしい記憶を一時的に封印して、最初からやり直そうとしていた。仕事をし、ピザをかじり、ビールを飲み、恋をする。駐車違反の切符を切り、教習車に乗って恐る恐るハンドルを切り、酒臭い息を吐きながら客の髪を切る。そういう当たり前の日常を生きることこそが、戦争の傷から回復する唯一の方法なのだ。
無数の墓標に祈る
サラエボ駅から北へ向かって歩いて行くと、大きなスタジアムが見えてくる。1984年に冬季オリンピックを開催したスタジアムである。そのスタジアムの隣には、戦争の犠牲となった人々を葬るための広大な墓地が広がっている。かつてスポーツグラウンドだった土地が、増え続ける死者を収容するために墓地に変えられたのだという。
墓地にはまだ新しい白い墓標が杉林のように整然と並んでいる。ほとんどの墓標には「1992」もしくは「1993」という文字が刻まれている。それはわずか1,2年の間にあまりにも多くの人の命が奪われたことを物語る光景だった。
無数の墓標の間に、花束を持って立つ婦人の姿があった。彼女は自分の足元を見つめたまま、白い墓標と同じように身じろぎひとつせず、長い間立ちすくんでいた。彼女の周囲だけ、違う時間が流れているようにも見えた。
破壊された建物は建て直せばいいし、失った日常は取り戻せばいい。でも家族や友人が殺された痛みや、永遠に凍り付いたままの記憶は、簡単に癒せるものではない。たとえ10年経とうとも、20年経とうとも、サラエボの人々は戦争の記憶とともに生きていくことになる。
サラエボは今、平穏な日常の中にある。しかし、それはかつて「民族浄化」の名の元に殺し合った住人同士が、見えない境界線を隔てて向かい合って暮らしているという、綱渡りのような危ういバランスの上に成立している日常でもあるのだ。
その微妙なバランスが何かの拍子で崩れ去る可能性は、決して低いものではない。人々の心の奥深くに根づいた憎しみや怒りが、経済の行き詰まりや宗教的対立や政治的プロパガンダといったきっかけによって、再び力を得るようなことがあるかもしれない。まるで暗い地下室の棺に封印されていたはずの魔物が、月の光を浴びて真夜中に目を覚ますように。
歴史が再び繰り返されないとは、いまのところ誰にも断言できないのだ。