自給自足の村に泊まる

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竹筒に水を汲んで運ぶカレン族の子供

 エレファントキャンプから目的地のカレン族の村までは、バイクでさらに四時間かかった。山奥に進むに連れて道は険しさを増し、対向車とすれ違うこともほとんどなくなった。時々大きな籠を背負った農民とすれ違ったり、焼き畑のために火が放たれた森のそばを通ることもあったが、それ以外は単調な景色の繰り返しだった。

「今年、カレン族の村に行くのは二度目なんだ」とソーが言った。「前に来たときはアメリカ人の若者と一緒だった。彼はとんでもないデブでね。百キロは超えていたんじゃないかな。象みたいに太っている奴だった。上り坂じゃ進まないし、ガソリンだって余計にかかるし、ほんと大変だったよ。それに比べると今日は楽だよ」

「でも料金は同じなんだろう?」
「そりゃそうだよ。デブだからって割増料金をもらう訳にもいかないものな」
 それは気の毒だね、と僕は笑った。僕らアジア人の想像を遙かに超える太り方をしたアメリカ人が、110CCの小さなバイクの後部座席に懸命にしがみついている姿は、きっとコメディー映画のワンシーンみたいに見えたことだろう。

 目的の村に辿り着いて、僕らがまず最初にしたのは、お互いの体に着いた砂埃を払い合うことだった。カラカラに乾いた砂地の道を何時間も走り続けたせいで、僕らは全身黄色い砂埃にまみれて「きな粉餅」みたいな惨めな姿になっていたのだ。

my04-7094 僕らが泊めてもらったのは、五百人ほどのカレン族が住む小さな村だった。人里離れた山奥にあるために外部との交流がほとんどなく、昔ながらの自給自足的な暮らしを今も続けている村である。

 「自給自足」とひとことで言ってしまうのは簡単だけど、この村ほどそれが徹底しているところも珍しいと思う。主食の米や野菜、スパイスのための唐辛子などの食材全てを作るのは当然として、衣服を作るために綿花を育て、そこから糸を紡いで機で織るところまで、全部自分たちで行う。山で豊富に採れる竹は、家を建てる材料にも使われるし、水を汲むための水筒や煙草を吸うためのパイプにも利用されている。村には商店というものがひとつもないし、商品が外部から入ってくることもほとんどないから、何でも自前で作ってしまうのである。

my04-7303 村人が行っているのは焼き畑農業である。乾季の間に森を切り開き、そこに種を蒔いて雨季の雨で育てる。森を焼くのは、灰が作物を育てる肥料になるからだ。一度開墾した土地は、地力を回復させるために七年間放置するのが決まりだという。七年経つと、その場所には再び樹木が生い茂ってくるので、再びそれを切り倒して火を放ち、畑にするのである。

 「焼き畑」と聞くと、自然環境にダメージを与える野蛮な農業というイメージを持ってしまいがちだけど、カレン族の人々が行う焼き畑を見る限り、それが痩せた土地を有効かつ持続的に利用するための知恵なのだということがわかる。彼らはずっと昔から山と共に暮らしてきたし、これからもそうするつもりなのだ。

 ところで、この村の名前は「シュエタウン・ンウェタウン」というのだが、これはビルマ語で「金の山・銀の山」という意味なのだそうだ。ゴールドラッシュに湧いた西部の町を連想するような名前だけど、ソー曰くここで金や銀が採れたという歴史はないという。

 だとすれば、いったい誰が何の目的で、どう考えても金や銀とは縁のない貧しい村に「金の山・銀の山」なんて名前を付けたのだろう。現実の貧しさを忘れるために、せめて名前だけでも豪華にしようと思ったのだろうか。

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トカゲカレーのお味は?

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 村では豚や鶏などの家畜も飼っているが、その肉はハレの日にしか食べられない貴重品であり、普段の食卓はとても質素だった。
 男達が手製のボーガンを持って狩りに出かけるときには、捕まえた獲物がメインディッシュになる。森には鳥や猿や鹿などの野生動物がいて、それを仕留めればまず上出来なのだが、時には熊や野生の水牛といった大物が捕れることもあるという。でも残念なことに、僕らが村にやってきた日の狩りは失敗に終わったらしく、夕食に出てきたのはトカゲ肉のカレーだった。

「このトカゲは狩りの途中に森の中で捕まえてきたものらしいよ」とソーは言った。「トカゲは普通に食べるんだけど、家の天井なんかに張り付いているヤモリは食べないんだって」
「トカゲとヤモリの違いは何なんだ?」と僕は訊ねた。
「さぁね、よくわからないな。僕だってトカゲを食べるのは初めてだからね。君は食べたことがある?」

 答えるまでもなく、僕もトカゲは初体験だった。僕は決してグルメではないけれど、ゲテモノが得意なわけでもない。どうせ食べるんだったら、熊や鹿の方がいいに決まっている。でもまぁ収穫があっただけでもマシだと考えるべきなのだろう。

 トカゲカレーといっても、カレーに混ざっているトカゲはすでに原形を留めないほど細かく刻まれているので、見た目はまともだった。少なくとも嫌悪感を感じるものではない。それでも最初の一口を口に運ぶときは、少しためらった。横目でそっとソーの方を見ると、同じことを考えていた彼とばっちり目が合ってしまった。

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カレン族の若い母親が赤ん坊に授乳していた

 僕らは苦笑いして、「レディー・ゴーで一緒に食べよう」と言った。そして同時にトカゲカレーを口に入れた。
 辛かった。そもそもミャンマー料理は目一杯スパイスを効かせるものなのだが、いつもにも増して刺激的な味だった。だからトカゲ肉の味を確かめる前に舌が痺れてしまって、何がなんだかわからなかった。食感は悪かった。ひどく骨っぽく、噛み砕くのも一苦労だった。いずれにしても、あまり美味しいものではないことだけは確かだった。それがわかっているから、素材の味を消すために大量のスパイスを入れて調理しているのだろう。

「お代わりはいるかって家の人が聞いているよ」とソーが僕に伝えた。
「もうお腹一杯だって言っておいてよ」僕は水を飲みながら言った。さすがに二杯目を食べようという気にはなれなかった。

 このトカゲカレーに比べれば、数日前に食べた「猫カレー」はごく普通の食べ物だと言っていいだろう。

 猫カレーはヤンゴンからバガンに行く時に乗った夜行バスが、休憩のために立ち寄った食堂にあるメニューのひとつだった。ミャンマーの食堂では、何種類かのカレー鍋の中から好きなものが選べるようになっている。僕が鍋を指さして「これは何?」と訊ねると、店員はカタコトの英語で説明してくれた。

「これ、チキンカリーね。デリシャスよ。次はポークカリー。おすすめはこのフィッシュカリー。で、これがキャットカリー」
「キャット?」
 僕はびっくりして聞き返した。猫だって?
「イエス。キャットね。デリシャスよ」

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遊んでいた子供たちがいっせいに空を見上げた。上空を飛行機が横切るのは珍しいことのようだ。

 店員はこともなげに言った。値段は他のカレーと変わらないし、猫だから特別な鍋に入っているというわけでもない。あくまでもビーフやポークと同列に置かれた選択肢のひとつ、という扱いである。おそらくこの辺では猫は普通の食材なのだろう(もっとも、このあと他の町に住むミャンマー人に聞いてみたところ、「猫を食べる地方もあるけど、私は食べたことがないし食べたくもない」という答えが返ってきたので、ミャンマー全土で猫を食べる習慣があるわけではないようだ)。

 僕は純粋な好奇心から、猫カレーを注文してみることにした。愛猫家には申し訳ないけれど、猫肉を食べる機会なんてそうはないと思ったのだ。味は特に美味しくもなく不味くもなかった。骨張っていて食べにくいという以外は、質の悪い牛肉みたいだった。たぶん「これは牛肉のカレーだ」と言われたら、素直に信じていただろう。

my04-6629 僕が猫カレーを食べ終わる頃に、一匹の猫が厨房から出てきた。猫は大きなあくびをひとつして、こちらに向かってのっそりと歩いてくる。きっとこの店で飼われている猫なのだろう。毛並みもいいし、結構太っている。
 しかし猫肉を食べながら飼い猫を眺めるというのは、なかなかシュールな光景であった。胸の奥にちょっとした罪悪感の疼きを感じてしまう。ビーフステーキを食べながら牧場の牛を眺めていたとしても、フライドチキンを食べながら鶏を見たとしても、そのように感じることはないだろう。「猫は愛玩動物だ」という先入観はそう簡単に変えられるものではないということなのだと思う。

 飼い猫はゆっくりとした足取りで、猫カレーが入った鍋の近くを通り過ぎ、どこかへ消えていった。その後ろ姿を目で追っていると、いくつかの疑問が頭に浮かんできた。あの猫は本当にペットとして飼われているのだろうか。それともいつかは猫カレーとして鍋で煮られてしまうのだろうか。そうでないとすれば、僕が食べた猫カレーには特別に飼育された食用猫が入っていたのだろうか。そうだとすれば、その食用猫はどこでどのように育てられているのだろうか。
 残念ながら、そんな疑問に答えが出ることはなかった。店員の英語はカタコトだし、僕はビルマ語がわからないし、猫は日本語を話せなかった。