8552 ローカルバスを乗り継いで、甘南チベット族自治州・夏河にやってきた。夏河は僧侶の町だった。町の人口の約半分が、くすんだ紅い色の袈裟を着たチベット仏教の僧侶で占められているのだ。最初この町を歩いたときは、夏河が有名な寺院のある巡礼地だということを知らなかったので、唖然としてしまった。坊さん色に染められた町。それが夏河だった。

 大寺院の中で行われる朝の読経は迫力があった。
 まずどこかで集合を呼びかける太鼓が鳴らされる。低くくぐもった重みのある音である。しばらくすると、頭にトサカのような飾りを被った位の高い僧がゆっくりとした歩調でやってくる。高僧は若い僧達が並んでいる間を通り抜ける。その姿は閲兵するダースベーダー将軍のように仰々しく見える。

 読経は照明のほとんどない暗いお堂の中で行われる。体を右へ左へ揺らしながら声を上げるのが特徴である。「読む」というよりは「唱う」という方が近いかもしれない。数十人の僧侶が発する声が、音階化できないひとつのうねりとなってお堂の中に渦を巻いていく。わけもなく背筋がゾクゾクとする。何か得体の知れない凄味のようなもの、人の持つ暗部までも含めた生のエネルギーというものが、その儀式からは感じられるのだ。

85558538 僕は以前に一度チベット僧を見たことがあった。釈迦が悟りを開いた場所として有名なブッダガヤにある寺院で、一際熱のこもった祈りを捧げていたのがチベット僧達だった。ブッダガヤは世界各地に散らばっている仏教徒が巡礼に訪れる場所であり、祈りの方法もそれぞれの宗派によって異なっていたのだが、その中でもチベット僧が行っていた体全てを地面に投げ打つダイナミックな祈り「五体投地」はとりわけ目立っていたのである。

 僕はチベット仏教についての予備知識をほとんど持っていなかった。ダライラマ14世の言動をニュースなどで見聞きした程度である。穏やかで知性的だが自分の信念を決して曲げない人物。画面を通じて受けたダライラマの印象はそのようなものだった。
 しかし夏河にいる僧侶たちの多くは、決して穏やかで知性的とは言えないような人々だった。学者肌というよりは肉体派、文化系というよりは体育会系に近いように感じた。

 特にまだ二十歳そこそこの青年僧は、かなり荒っぽい連中だった。寺院にはチベット人の巡礼者以外にも僕らのような観光客も何人かいたのだが、そのうちの一人が煙草を吹かしていることに腹を立てた若い僧侶が、鬼のような形相で「出て行け!」と怒鳴りつけたことがあった。しかしその声が届かなかったのか、観光客の男はその後も煙草を吸い続けていたので、僧侶は足元の小石を拾い上げて思い切り投げつけたのである。

8559 これには驚いてしまった。暴力を否定する仏教の教えを実践する立場にあるはずの僧侶が、ルールを守らない人間がいるからといって石を投げていいはずはない。例えば観光地化が進んだインドのバラナシで、撮影が禁止されている火葬場を撮ろうとした欧米人ツーリストがヒンドゥー教の聖職者に怒鳴られていたことはあったが、さすがに石までは投げなかった。幸いにして僧侶が投げた石は観光客の足元をかすめたので事なきを得たのだが、彼がわざとそこを狙ったのか、本気で石をぶつけようとしてたまたま外れただけなのかは、わからずじまいだった。

 その出来事の後で、他の中国人観光客が僕にこんなことを言った。「あのチベット僧は寺院の敷地内で煙草を吸われたことに腹を立てたわけではなく、それをやったのが漢民族の観光客だから、石を投げつけたんだと思う」と。

8494 第二次大戦終結から間もなく、中国の新政府はチベット仏教に対して厳しい弾圧を加え、1959年には若き日のダライラマ14世以下、多くのチベット人達がヒマラヤ山脈を越えてインドに亡命した。それから40年以上もの間、中国からの独立を求めるチベット人と、それを力で押さえ込もうとする中国政府との間には、ずっと緊張状態が続いている。

 漢民族——すなわち中国の人口の9割以上を占めるマジョリティー——に対する反発と怒りは、若いチベット僧にも受け継がれているのかもしれない。その沸々とした思いが、漢民族が自分たちのテリトリーを侵したことによって爆発した。あの出来事にはそういう背景があったのかもしれない。

8543

 
 

僕も巡礼の旅をしていたのかもしれない

8531 僧侶の読経の様子を見学した後、チベット人の巡礼者と一緒に寺院の外周を回ってみることにした。寺の外壁は「マニ車」と呼ばれる円筒がずらっと並んでいて、巡礼者はそのひとつひとつを手で回しながら歩くのである。マニ車には経文が書かれていて、一度回すとそこに書かれているお経を一度唱えたことになるのだという。夏河の寺院にはこのマニ車が数千も並んでいて、外壁伝いに一周するだけでも一時間近くかかってしまった。
 巡礼者はとにかくタフである。この町は標高2900mの高地にあるために酸素が薄く、慣れない僕はすぐに息が切れてしまったのだが、しかしチベット人の老婆はそんなことをもろともせずに、足早に僕を追い抜いていく。顔はよく日焼けしていて、深い皺が年輪のように刻まれている。

 夕方近くになると、暗い空からぽつぽつと雨粒が落ちてきたのだが、傘を差す者は一人もいなかった。巡礼者の多くはフェルト帽を被っており、それが傘の代わりをしているのだろう。ひとたび雲によって日差しが遮られると、急激に気温が下がる。まだ9月上旬だというのに、冬の入り口に立っているかのような冷たい風が吹き抜けていく。しかし雨に濡れようとも、寒風が吹こうとも、巡礼の人々は全く意に介さずにマニ車を回し続けていた。
 巡礼者の中には地面に体を投げ出す「五体投地」を行いながら、尺取り虫のように巡礼路を進む人達もいた。歩いて行う巡礼の何倍もの時間と労力が必要になるはずで、強い信仰心を持っていないやり通すのは無理だろう。

8516 巡礼にとって大切なのは、とにかく「回る」ことである。経文の書かれたマニ車を回しながら、寺院の周りを回る。回す方向は時計回りと決まっている。一周し終わったら、もう一周する。時間の許す限り、何度でも回る。僕には巡礼者達が何か難しいことを考えながら歩いているようには見えなかった。現世で徳を積むことと、来世での良い生まれ変わり、それを信じてただひたすら回り続けている。
 僕はチベット仏教の教義について詳しいことは何も知らないのだが、息を切らしながらひたすら寺の外周を回り続けている間に、この回り続けるという行為が生と死の繰り返し、つまり輪廻転生と繋がっているのではないかとふと思った。寺院の周囲を回り続けることによって、巡礼者は輪廻転生を疑似体験しているのではないかと。

 考えてみれば、僕が旅してきたルートも時計回りだった。ユーラシア大陸を一周するというずいぶんスケールの大きな輪ではあったけれど、チベット人と同じように僕もひたすら回り続けていた。
 ミャンマーで出会った僧侶ウィザヤに、「あなたは巡礼の旅をしているのですか?」と訊かれたことがあった。彼には異国を長く旅をする理由が理解しにくかったのだろう。「巡礼などではないし、宗教的な目的があるわけではない」と僕は答えた。しかし今になって振り返ってみれば、僕の旅も広い意味での巡礼ではなかったかと思う。

 僕には四国のお遍路さんのような、あるいはチベット人巡礼者のような明確な目的はなかった。しかし僕の中には「自分を超えたもの」に対する憧れがあったことは確かだった。青い空と碧い海、広大な砂漠や瞬きもしない星々。そのような「大きなもの」に巡り会うために、僕は10ヶ月ものあいだ旅を続けてきたのかもしれない。
 大陸という大きなフィールドをぐるりと一周してみることが、僕にとっての巡礼であったのだ。