夏河から合作に立ち寄った後、バスで郎木寺という町に向かった。アップダウンの激しい山道を進んだために、合作から郎木寺までの距離にして150kmほどの道を行くのに6時間もかかってしまった。チベット高原の移動は、予想通りとても時間のかかるものだった。
その間にいくつかの田舎町を通りかかったのだが、何かを作っている現場、あるいは何かを壊している現場を何度も目にした。人口を数多く抱える都市が建設ラッシュに湧いているのはある程度予想していたことだったけれど、人口が数千人単位の小さな規模の町でも、日常的に新しい建物や道路を作っているのは驚きだった。中国の高度経済成長の波は、辺境の地にまで及んでいるようだった。
郎木寺の町の手前4kmのところで、バスを降ろされた。バスはここ止まりではなく、先を急がなくてはいけないから、町の中までは行ってくれないのだ。
4kmもの道のりはバックパックを担いで歩くには少々遠すぎる距離なのだが、その辺はちゃんと考えられていて、町まで行く乗り合いタクシーがすぐに迎えに来てくれた。しかし、そのタクシーは農業用トラクターにリアカーを引かせているだけの乗り物だったのである。
この乗り合いトラクターは郎木寺における立派な(そして唯一の)公共交通機関なのだという。すごい土地に来てしまったんだなぁと唸ってしまった。料金は忘れてしまったが、まぁタダみたいに安いものだった。しかし乗り心地は、今まで乗ったどんな乗り物よりも悪かった。なにしろ未舗装のデコボコ道をサスペンションのないリアカーで走るわけだから、振動はものすごく、尻は痛くなるわ、全身埃だらけになってしまうわで、とにかく散々だった。
鳥葬の山に雹が降る
郎木寺もチベット僧の多い町だったが、夏河のような大規模な巡礼地ではなく、小規模なお寺がいくつか散在するのどかな雰囲気の町だった。草原には毛の長い高地の牛であるヤクがのんびりと草を食み、そのそばの川では青年僧が僧衣を洗濯していた。洗い終わった僧衣は、そのまま草原に広げて干している。僧衣の朱と、草原の緑、それにヤクの黒と空の青が大胆に配されて、見事な絵を描き出していた。
僕が写真を撮っていると、若い僧が話し掛けてきた。と言っても彼はほとんど英語を話せないので、身振り手振りに近い状態だったのだが。
「僕の名前はサンギ。16歳」と彼は自己紹介した。こちらも名前と年を伝えると、彼は嬉しそうににっこりとした。そのあとサンギは鳥のように腕をバタバタさせ始めた。どうやら身振りによって鳥と人間が山の向こうで何かをしている、ということを伝えたいようなのだが、それが何なのかわからない。
筆談を試み、それでもわからないので英単語に戻り、再び身振り手振りをやり直す、ということをしばらく続けた結果、ようやく「今、丘の向こうで鳥葬が行われている」ということが理解できた。
チベットには鳥葬の習慣がまだ残っているということを何かの本で読んだことがあった。鳥葬とは文字通り遺体をハゲワシなどに食べさせる葬式である。鳥が死体をそのまま啄むわけではなく、僧侶によって細かく解体されたものを鳥が食べるらしい。
死体というものは火葬場で焼かれるのが当たり前だと思っている僕らから見れば、鳥葬の習慣はひどくグロテスクなもののようにも感じる。何と言っても、人のからだが動物の餌になってしまうわけだから。しかし死が新たな生への再生を意味する輪廻転生の視点から見れば、火葬よりも鳥葬の方がより自然な葬送の方法なのかもしれない。
さらに現実的なことを言えば、樹木の乏しい高地に住むチベット人にとって、火葬を行うだけの薪を確保するのが難しいということもある。インドのバラナシの火葬場のそばには、大量の薪が積み上げられていた。人一人を完全に燃やすには、想像以上に大量の木材が必要なのである。
サンギによれば最近二人の村人が相次いで亡くなったので、その葬式をしているということだった。きっとハゲワシにとってはご馳走が続く良い日であるに違いない。
僕らがそんなやり取りをしていると、突然空から白い塊が降ってきた。それはパチンコ玉ぐらいの大きさのヒョウだった。モンゴルでは人が死ぬと流れ星が流れるという言い伝えがあるが、チベットでは人が死ぬとヒョウが落ちてくるんだろうか。空を見上げながら、ふとそんなことを思った。
大粒のヒョウはたちまち草原に白い斑点を作り出していった。サンギは地面に落ちたヒョウをひとつ拾い上げると、ひょいと口に放り込んでいたずらっぽく笑った。それならと僕もヒョウの粒を三つ四つ拾い集めて、まとめて口の中に入れた。冷たい空の味が口に広がった。
その後、サンギに誘われて、近くのお寺で行われる寺子屋授業に行ってみることにした。これは出家前の子供やまだ若い僧侶に経典の読み方を教える集まりである。お経はかなり使い込まれた古いもので、そこに記されているのは漢字ではなくチベット語だった。サンギに筆談が通じなかったのは、彼が漢字を知らなかったからなのだ。
子供達は概ね真面目に経典に向かっていたが、僧の目を盗んでポケットからヤクのチーズを出して頬張る子もいた。「早弁」をする子供というのは、どこの国にもいるらしい。
この寺子屋を仕切っている僧は、ラサに三度行ったことがあるというのが自慢だった。しかし残念ながら、ダライラマ14世に直接会うという夢はいまだに叶えられていないのだそうだ。
言葉が通じなくても
翌日、再び乗り合いトラクターに乗ってバスが通る道まで戻り、次の目的地である若繭蓋に向かうバスを待った。
「バスは11時に来るよ」
と乗り合いトラクターの運転手は僕に言った。そして来た道を戻っていった。バス乗り場と町の間をピストン輸送するのがトラクターの役割なのである。
しかしいくら待ってもバスは現れなかった。1時間待ち、2時間待った。その間に何台ものバスやトラックが通り過ぎていったが、いずれも若繭蓋には行かないという。僕はだんだん不安になってきた。もしかしてバスは早朝の一便しかないんじゃないか。それを逃してしまうと、明日まで待つ羽目になるんじゃないだろうか。
バスを待ち始めてから2時間が経った頃、僕をここまで運んだトラクターの運転手が再び客を乗せてやってきた。僕はすぐに彼に駆け寄って文句を言った。
「バスは11時に来るって言ってたのに、まだ来ないじゃないか」
運転手は苛立つ僕をなだめるように、ポンポンと肩を叩いて言った。
「まぁあと15分待ちなって。1時には必ず来るからさ」
全くいい加減な奴である。いったい何を根拠に『1時に来る』ことがわかるというのだろう。しかしとりあえず僕にはその言葉を信じて待ち続けるほかなかった。
僕らがそんな言い合いをしていると、僕と同じようにバスを待っていたスイス人の旅行者が不思議そうに話し掛けてきた。
「あなた、チベット語が話せるの?」と彼女は英語で訊ねた。
「いいえ。僕は日本語でしか話していないし、彼もチベット語しか話せませんよ」
「でも話は通じてたように見えたけど」
「だいたいですよ。正確なことはわからないけど、彼が『バスは1時に来る』と言っていることは理解できましたね」
「たいしたものね」と彼女は感心したように頷いた。
「そんなことはないですよ」と僕は言った。
それは謙遜ではなかった。というのも、彼女がかなり流暢に中国語を話すことを知っていたからである。たいしたものだな、と感心していたのは僕の方だったのだ。
中国の辺境を旅しているときに出会った欧米人旅行者の多くは、中国語を話すことができた。英語も全く通じない田舎町を個人で旅するのは、ある程度の中国語会話ができないとかなり難しいのである。ここまでやってくる旅行者の多くは中国の文化に興味を持ち、中国語を学び、中国各地をくまなく回った上で、この辺境地域まで足を伸ばしていた。僕のようにただの思い付きで辺境までやってきているような人間はとても少なかったのだ。
「僕だってもし中国語が話せたら、もっと楽に旅ができるのにって思いますよ。でもそれができないから、こうやって身振り手振りを使うんです。僕は日本人だから筆談も使えますからね」
僕は彼女に説明した。実際のところ、この旅を通して僕の英語技術はそれほど向上しなかったが、自分の意志を相手に伝える技術は格段に向上した。相手の表情から何を伝えたいのかを読み取り、大袈裟な身振りや擬音語を使ってこちらの気持ちを伝え、時には絵を描いたり筆談を試みたりもした。そうやって悪戦苦闘する中で、僕は「伝えようという意志があれば、ある程度のことは伝わるものだ」という確信を得るに至ったのだった。
ヨタヨタバスの中では、人はみな平等
若繭蓋行きのバスが現れたのはきっかり1時だった。乗り合いトラクターの運転手は「ほらね、俺の言ったとおりだろう」という得意げな顔で腕時計を指さした。
「よく言うよ。最初に『11時に来る』って言ったのはあんたじゃないか!」
僕はバックパックを背負いながら叫んだ。もちろん日本語で言ったのだが、僕が言いたいことは運転手にも十分に伝わったようだった。
奥地に向かえば向かうほど道はひどくなり、バスのコンディションも悪くなっていくというのはどの国にも共通することだったが、中国もその例外ではなかった。郎木寺から若繭蓋へ向かうバスは、博物館行きが相応しいほどのオンボロで、おまけに乗客も荷物も満載しているものだから、いっこうにスピードが上がらなかった。
路面の状態もひどかった。大型トラックやバスが行き交う幹線道路であるわりに舗装が軟弱なので、すぐにアスファルトが剥がれて穴ぼこだらけになってしまうのである。そんなわけで車内の振動はひどく、うっかりすると舌を噛みかねないので、みんな一様に押し黙って席に着いていた。
どんなに頑張っても時速30km以上のスピードを出すことができない僕らのバスをあざ笑うかのように、フル装備のランドクルーザーが土煙を上げて走り去っていく。これだったらあの乗り合いトラクターとスピードも乗り心地も変わらないじゃないか、と僕は思った。
座席は右側が二人がけ、左側が三人がけのシートで、どの席も人で埋まっていた。僕は最後列になんとか席を確保することができたのだが、そこから前を眺めると、実に様々な種類の頭が揺れていることに気が付いた。
白い帽子のムスリムの男、イガグリ頭のチベットの坊さん、三つ編みのチベット女性、フェルト帽のチベット男、麦わら帽子のお百姓、頑固な寝癖が付いたままの漢人の男、都会から来たらしいサラサラヘアーの中国人旅行者、ブロンドのスイス人。まるで12色入りのクレパスを見ているようなカラフルな光景だった。
このバスの中には、聖なる者も俗なる者も、富める者も貧しい者もいるだろう。それぞれに話す言葉も違えば、考えていることも違うだろう。しかしこのバスに乗っている間は、どの頭も絶え間ない振動に晒される不安定な存在に過ぎない。ヨタヨタバスの中では、人はみな平等なのだ。