成都に3泊した後、再びチベット高原の辺境の町に向かった。毎日バスに揺られる旅路に復帰したのである。
中国の辺境をバスで移動しようと思うと、朝型人間にならなくてはいけない。早朝6時のバスを逃すと、もう移動手段が無くなってしまう、という場合も少なくなかったのだ。そして一度出発してしまうと、平均で5時間、長くて12時間以上もバスに乗り続けることになる。チベット高原は極めて人口密度が低く、町と町とがものすごく離れているのである。
バスはとにかく退屈である。絶え間ない振動が脳味噌を常に揺らせるので、何かを読んだり、何かを集中して考えたりするのには不向きなのだ。
そんな退屈なバス移動における格好の暇つぶしになったのが、あちこちに書かれた標語を眺めることだった。都会でも田舎でも、中国の道路にはやたらと標語の書かれた看板が多かったのである。看板だけでなく、家屋や工場の土壁に赤ペンキで大きくスローガンを書いているところも多かった。
標語の内容として最もポピュラーなのは「注意安全」や「信用第一、服務第一」や「天下大事、防火第一」といった注意換気を促すものである。これは日本の交通標語とも共通するもので、まぁわかりやすい。
それに次いで目立つのは、中国共産党のスローガンを書いたもの。「加強国防教育」とか「改善生存環境」などである。他にも「国は税で成り立っている」という納税義務を訴えるものや、「電力は工業に重点的に回しますよ」と経済政策の方針を説明したものもあった。マスメディアが発達した現代に、こういうアナクロな手法がどの程度効果を上げているのか疑問ではあったが。
また、田舎に行くと俄然増えるのが、家族計画の重要性を訴える標語だった。「少生伏生、幸福一生」や「少子晩婚、為国為民」といったもの。中国政府が強引とも言えるやり方で「一人っ子政策」を推し進めたのはよく知られているが、その効果もあって既に都市部ではかなり少子化が進んでいた。しかし貧しい農村部ではまだ子供の数が多かった。
中国では経済発展を加速させている沿岸部と、その波に乗り遅れている内陸部の格差が大きな問題になっているのだが、それは道端で遊んでいる子供の数の違いからもよくわかった。
標高4000mの町・理塘
理塘は僕が訪れた町の中で最も標高の高い町だった。高度4000m。富士山よりも高い。しかもこれほど高い場所にあるにもかかわらず、ここは周りを山に囲まれた盆地なのである。周囲の山は5000mあるいは6000m近くあるのだろう。チベット高原は風景のスケールが桁違いなのだ。
標高4000mの町ともなれば、高山病が心配になるところだが、僕は低地から何日もかけてこの町までやってきていたので、幸いにしてその兆候は現れなかった。
理塘は小さな町である。町の機能はバスターミナル付近に集中していて、そこに何軒かの宿屋と商店と小規模な市場が並んでいる。商店の中で最も多いのが食堂だった。中国では、田舎でも都会でも外食文化が発達しているのである。その次に多いのが金細工などのアクセサリー類を売る店。チベット人には財産の多くをアクセサリーに替えて身に着ける習慣があるために、こうした店が繁盛しているようだった。
町の規模は小さかったが、町を見下ろす丘の上に建つ仏教寺院はとても立派なものだった。「ここはダライラマ3世が建てた由緒あるお寺なんですよ」と英語を話す気さくなお坊さんが教えてくれた。しかし年月に晒された建物はかなり激しい損傷を受けていて、崩れたまま放置された壁や屋根瓦などがいたるところで見られた。
僕はここでもまた、チベット人の巡礼者に混じって、マニ車を回しながら寺の外周を回った。町に着けば、とりあえず寺院に行って、その周りを回ってみるのが習慣のようになっていたのだ。何だか本当に巡礼の旅をしているみたいだった。
高度4000mを超える土地を歩き続けるのは、かなりきつかった。すぐに呼吸が荒くなり、立ちくらみのようにふっと意識が遠くへ行きそうなることも何度かあった。脳が酸素を求めて喘いでいるのがわかった。僕は何も考えずに、とにかく一歩一歩踏み出すことだけに集中した。
空は見たこともないような青さだった。汚れというものを知らない、純粋な青が頭上に広がっていた。草原は強い日差しを受けて眩しく輝いていた。僕のような即席の巡礼者であっても、このように澄んだ空の下をひたすら歩き続ければ、からだの一部が浄化されるかもしれない。そんな風にも思えた。
オシャレなチベタン・ファッション
チベット人(チベタン)はおしゃれである。チベタン・ファッションといっても、住んでいる地域によってそれぞれ異なるのだが、男性の衣服は袖がだらりと長いのが特徴である。袖が長ければ長いほどおしゃれなんだそうだ。だから中には、普通に立っているだけなのに、袖が地面に着きそうな人もいる。マイナス40度にもなるという冬の厳しい寒さから指先を守るという目的はわかるのだが、いくらなんでもそれはやりすぎだと思う。
極端に伸びたチベタンの袖は、ある時期に際限なく伸びた日本の女子高校生のルーズソックスを思い出させた。ファッションというのは、本来の合理的な目的を超えて、過剰に増殖していくことから始まるのかもしれない。
食堂で夕食を食べているときに、隣に座っていた若者が僕の背中をちょんちょんと叩いて、チベット語で話し掛けてきたことがあった。彼の言っていることが理解できずにきょとんとしていると、男は僕の目の前に自分の右腕をひょいと突き出して、例によってだらーんと長く伸びた袖をぶらぶらとさせた。どうやら「この袖を引っ張ってくれないか」と言いたいらしい。
わけがわからないまま、僕が袖を引っ張ってやると、彼は嬉しそうに腕を袖から抜いて、着物の内側から肩を出し、箸を持って目の前の麺をすすり始めたのだった。この男はあまりにも袖が長すぎたために、他人の手を借りなければ服を脱ぐこともできなくなってしまったらしい。これにはさすがに呆れてしまった。
民族衣装をおしゃれに着こなしているチベタンがいる一方で、毛沢東時代からの名残と思われる人民帽を被っている人も多く見かけた。さすがに人民服を着ている人は、どんな田舎でもまず見かけないのだが、人民帽はまだ現役バリバリなのである。
そして、どういうわけか男性よりも女性の方が人民帽率が高かった。世紀末に70年代ファッションがリバイバルしたように、中国でも人民帽のキッチュでレトロな感覚が女の子に受けているのだろうか。それともただ単に値段が安いから被っているだけなのだろうか。
中国西南部における二大娯楽と言えば、ビリヤード(台球)と麻雀である。ビリヤード場はどの町にもあるのだが、屋根のないところにビリヤード台が野ざらしで置かれているところも多く、コンディションはあまりよくなかった。それでも暇さえあれば玉突きに興じているチベット人達の腕前はなかなかのものだった。子供も大人も遊ぶし、僧侶だって袈裟を着たまま玉を突いていた。
ビリヤードを楽しむのはほとんどが男性で、女性の娯楽はもっぱら麻雀だった。商店主のおばさん連中が客のいない時間に(あるいは客そっちのけで)、卓を囲んで牌をジャラジャラと混ぜている姿を、町のいたるところで見かけた。少額のお金を賭けるのは日本と同じで、卓の横には1元札が積み上げられていた。この賭け麻雀もだいたいは屋外で行われているので、警察官もちょくちょくそばを通るわけだけど、特に賭博行為を咎めるようなことはしていなかった。それぐらいのことは大目に見ているようだった。