「日本人宿」とは文字通り日本人しか泊まっていない宿のことである。インドのバラナシやトルコのイスタンブールやエジプトのカイロといった旅行者の集まりそうな都市には、必ずこの日本人宿がいくつか存在する。
 日本人宿の特徴を挙げるとすれば、次の三点になるだろう。
(1)安い
(2)長期滞在者が多い
(3)変わった人が多い
 そして、この三点はお互いに密接な関係がある。つまり、
(1)1泊の料金がとても安いからこそ、
(2)長期滞在する人が多く集まることになり、
(3)帰る予定を決めないまま旅を続けるような長期旅行者というのは、やはり変な人が多い。
 ということになるのである。

 
 

初めての日本人宿滞在

7485 僕はハンガリーの首都ブダペストで、初めてこの日本人宿に泊まった。女主人の名前を取って「ヘレナ・ハウス」と呼ばれている安宿だった。この宿の特徴は、とにかくわかりにくい所にあること。看板も出ていなければ、ガイドブックにも載っていない。ごく普通のアパートメントの一室を旅人に開放しているという宿なのである。
 ブダペストにはヘレナハウス以外にもこうした個人経営の宿がいくつかあるらしく、いずれも正式な営業許可を得ていない違法宿なので、大っぴらに宣伝をしないで隠れ家のようにひっそりと営業しているということだった。泊まり客はこうした宿の情報を他の旅人からの口コミで知ってやってくる。世界各地の安宿には「情報ノート」というレア情報ばかり集めたノートがあって、それがガイドブック以上に珍重されているのである。

 僕にヘレナハウスの存在を教えてくれたのは、インターネットを通じて知り合ったジュンさんという男性だった。彼もまたアジア横断の長い旅を続けている旅人だった。僕らはまだ一度も会ったことはなかったのだけど、ホームページ通じて何度かメールのやり取りをしていた。そして、たまたま同じ時期にブダペストに滞在することがわかったので、「せっかくだから会いましょう」ということになったのだ。

 ジュンさんはタフで旅慣れたベテラン・バックパッカーだった。少なくとも外見から受ける印象はそうだった。僕よりひとつ年上で、大学時代アメフトをやっていただけあって、がっちりとした体つきをしていた。
「どういうわけか、旅をしていると『俺も昔アメフトをやっていたんだ』って奴によく出会うんだよね」とジュンさんは言った。「アメフト経験者って、どうも旅に出たくなる奴が多いみたいなんだ。頭の構造が似てるのかもしれないな」

 ジュンさんは既に2週間以上ヘレナハウスに滞在していた。東ヨーロッパをヒッチハイクで回るハードな旅を終えたばかりで、しばらくゆっくりするつもりなのだという。ジュンさんに限らず、日本人宿に来る旅人の多くが同じ宿に1週間や2週間泊まり続けるのだという。せいぜい3日、早いときには1日で次の町に移動する僕の旅のスタイルは、長期旅行者にしては珍しいらしい。

 
 

ここに1年住み続けている「不思議ちゃん」

7501 ヘレナハウスに滞在している旅行者は、かなりクセのある人達ばかりだった。中でも際立った存在感を示していたのが、みんなから「不思議ちゃん」と呼ばれている女の子だった。彼女は僕と同い年だということだったが、見た目も話し方もどことなく年齢不詳な雰囲気があった。
「今年の夏は、暑いわねー」
 不思議ちゃんの話し方には独特の間とテンポがある。誰に向かって話しているのか、よくわからないことも多い。
「そうだね。ハンガリーがこんなに暑いとは思わなかったよ」
 彼女が僕に向かって話しかけているのを確かめてから、僕は答えた。ヘレナハウスにはエアコンというものがないので、日中の暑さは(部屋の中の人口密度が高いことも手伝って)相当なものだった。
「でも、去年の夏も、これくらい暑かったわ」
「去年もここに来たの?」
「ううん。私、去年の夏からずっとここにいるの」
「このヘレナハウスに1年もいるの?」
 僕はびっくりして聞き返した。
「そう。3ヶ月経ったらハンガリーのビザが切れちゃうから、クロアチアとか、チェコとかをちょっと旅行して、またここに帰ってくるのよ」
「帰ってくる・・・の?」
 これにはさすがに驚いた。いくら長期旅行者と言っても、1年も同じところに居続けている旅行者なんて聞いたことがなかった。宿の主であるヘレナおばさん曰く「彼女は家族みたいなもの」なのだそうだ。もちろん、いつどこで何をしようがそれは不思議ちゃんの勝手である。しかし、ここで1年間も何をして過ごしていたのだろう。

「そうねぇ、これと言って変ったことはしていないかも。ベッドの上でボーっとしたり、ヘレナの家族と話をしたり、お買い物に行って食事を作ったり、賭けチェスしたり、そんなもんよねぇ」
 なるほど。なんにもしなければ、1年なんてあっと言う間に経ってしまう。もちろん彼女も旅を始めるときは、こんな風になるとは思っていなかったらしい。旅人らしくヨーロッパ各地を回るつもりだったのだ。ところがブダペスト(というよりもヘレナハウス)が思いのほか気に入ってしまい、気が付いたら1年経ってしまったらしい。ハンガリー版・浦島太郎みたいな話だった。
「そろそろ日本にも帰らなくちゃいけないのよねぇ。お金もなくなってきたし・・・」
 不思議ちゃんはのんびりと言った。そりゃそうだ。いつかは助けた亀、ではなくて飛行機に乗って帰らなくてはいけない。それが旅人の宿命なのだ。でも彼女の言う「そろそろ」はまだかなり先のことなんだろうな、とも思った。

 ハジメさんは中国から自転車に乗ってブダペストまでやってきたというツワモノ旅行者だった。彼のベッドの横には沖縄の三線が置かれていた。この三線で弾き語りパフォーマンスを行って旅費を稼ぎながら、旅を続けてきたのだという。
 ブダペストでの「ライブ活動」も好調で、観光客からのチップが1日に4000フォリント(1000円)にもなるんだと、自慢げに話してくれた。ヘレナハウスの宿代が1500フォリントであることを考えると、これはかなりの稼ぎである。ドナウ川に三線の音色がマッチするかは疑問だけれど、そのアンバランスさが受けているのかもしれない。
「今日はフランス人から来たおばちゃんに『あなたパリにいらっしゃい。そうすればもっと稼げるわよ』って言われたんです。だから次の目的地はパリかな」

 その他にも、毎日オペラの話ばかりしている50歳を過ぎた謎のおじさんや、朝に作った鍋一杯分のカレー(ヘレナハウスにはキッチンがあって、自炊できるようになっている)を1日で食べきってしまった相撲部屋の新弟子のような食欲を持つ若者など、それぞれアクの強いキャラクターが揃っていた。
「日本人宿にいる人って、みんな変わっているんですねぇ」と僕はジュンさんに言った。
「いや、今のメンバーが特に変わっているだけだよ。前はもっとまともな旅人が多かったよ」
 ジュンさんがそう言うと、隣にいた不思議ちゃんが割って入ってきた。
「えー? 変わってるかなー? みんな普通だと思うけどなー」
 彼女の基準から見れば、みんな普通なのだろう。あるいはヘレナハウスにおいて普通じゃないのは、僕らの方なのかもしれない。

 しかし、この宿では最もまともな人間だと思われるジュンさんも、実はかなりの変わり者であることが判明した。なにしろ「俺がこの世の中で一番嫌いな生き物は鳩だ」と言い切る人なのだ。変わっている。二人で公園に行ったときも、道端でパン屑なんかを啄んでいる鳩の群をわざわざ避けるように迂回して歩くのだった。

「どうしてまた鳩が嫌いなんですか?」
「だってさ、首の辺は妙にきらきらと光ってるし、目だってよく見ると怖いし、それにあいつらは首を振ってないと歩けないんだよ。絶対変だ」
 鳩のことになると、いつものは穏やかなジュンさんの口調が急に荒くなる。
「よく観察してるじゃないですか。普通の人間は鳩なんて別にいてもいなくても同じだと思っているから、そんなに熱心に観察しないですよ。もしかしてジュンさん実は鳩が好きなんじゃないの? 愛情の裏返しとか」
「馬鹿言っちゃいけない。いつかあいつらを丸焼きにして、全部まとめて食ってやるんだ」
 と言って彼は公園の鳩を指さした。平和の象徴である鳩たちは、相変わらず首を小刻みに振りながら餌を探して歩き回っている。

「知ってる? ソウルオリンピックの開会式でさ、聖火台に止まっていた鳩が丸焼けになったんだって。その話を聞いたとき、思わず小躍りしたもんなぁ・・・」
 ジュンさんはそう言ってにんまりするのだった。とにかく鳩のこととなると見境がなくなるのである。やっぱり変わっていると思う。

 
 

日本人宿では1週間なんてあっという間

7492 ブダペストには1週間滞在した。長くいても3日で次の街へ移動していた僕にとっては、異例の長期滞在である。もっとも日本人宿にいる他の旅人達(もちろんあの「不思議ちゃん」も含めて)に言わせれば「1週間なんてあっと言う間じゃない」ということになるのだけど。

 1週間滞在したと言っても、観光に出歩いたのは最初の二日ぐらいで、あとはこれと言って何もせずにだらだらと過ごした。ベッドの上で本を読んだり、他の旅行者と旅の思い出話に花を咲かせたり、安ワインを買ってきて飲んだり、ノートパソコンに向かって日記をつけたりして毎日を過ごした。

 日本人宿という空間にしばらく身を置いてみると、ここに長居したくなる旅人の気持ちがよくわかった。
 見知らぬ土地を旅していると、常にどこかが緊張した状態が続くから、知らない間に神経がくたびれてくる。だけど日本人宿の中にいる限り、そのような緊張感とは無縁でいられるのである。言葉が容易く通じるからコミュニケーションを取るために多大なエネルギーを使うこともないし、「もしかしたらこいつは盗人ではないか」と警戒線張り巡らせる必要もない。
 当然のように自分が日本人の中にいるということの居心地の良さは、旅の疲れがピークに達していたことと相まって、次の町へと旅立つ決心を一日また一日と遅らせることになった。

 
 

旅で得たものと失ったもの

7488 宿の中で一番よく話をしたのは、僕にこの宿の存在を教えてくれたジュンさんだった。彼は札幌にある広告代理店を辞めて、長旅に出た人だった。
「仕事自体は面白かったし、やりがいだってあった。だけどある時、自分が何も生み出していないってことに気が付いたんだ。広告代理店っていうのはクライアントと広告製作会社を繋ぐだけの商売なんだ。まぁ言ってみれば寄生虫みたいなもんさ。自分の人生がそんな風にして終わってしまうのが耐えられなくなったんだ」

 ジュンさんの旅のスケールは僕よりも遙かに大きかった。3年かけて世界を一周する予定なのだという。
「しばらくブダペストでのんびり過ごしてから、ドイツへ行って中古車を買うつもりなんだ。ヨーロッパを回るには車が便利みたいだから。それからアフリカを南下しようと思っている。後のことはまだ考えていないけどね」

 僕とジュンさんは出会ったばかりだったけれど、古くからの友達のような気持ちで話をすることができた。僕らの旅のルートには共通する場所が多かったということもあるし、何より彼の話しぶりがとても面白かったのだ。

 二人で安いワインを飲みながらとりとめもない話に花を咲かせていた夜、ジュンさんはいつになく真面目な顔になって、日本に残してきた恋人の話を始めた。
「彼女はとても頭のいい人なんだ。僕とは全然違ったものの見方をする。そこに惹かれたんだよ」
 ジュンさんはハンガリー産の煙草に火をつけて、深く吸い込んだ。
「事情がとても複雑なんだ。彼女は僕よりもずっと年上で、結婚もしている。今は別居状態だけどね。離婚するかしないかは、彼女の問題だと思う。僕はどちらでもいいんだよ。それは書類だけの問題だから。でも当然のことだけど、彼女はとても悩んでいる。それなのに僕は彼女を残して旅に出てしまった。それも普通の旅じゃなくって、何年もかかるような旅にね。彼女には申し訳ないことをしたと思っている」

 ジュンさんが旅に出て一年経ったころ、彼女がイスタンブールにやってきた。どうしても彼に会いたくなったのだ。
「僕らは1年ぶりにイスタンブールで再会して、しばらく一緒に過ごした。そのあと彼女は日本に帰って、僕は旅を続けるつもりだったんだ。でも僕にはそれができなかった。彼女だけに寂しい思いをさせているのは間違っていると思った。それで僕も飛行機に乗って日本に帰ることにしたんだ」
「でも旅は終わらなかったんですね?」
 と僕は言った。だからこそ、彼は今ここで僕と話をしているのだ。
「そう。結局、僕はまた旅の続きを始めることにしたんだ。どうしてそうなったのかは、僕にもよくわからない」

 ジュンさんは黙って煙草を吹かせながら、しばらく物思いに耽った。大切なものがあることをわかっていても、旅に出ることに決めたジュンさんの気持ちは、僕にも何となくわかった。だけどそれを敢えて口にはしなかった。彼の方でもそんなことは望んでいなかっただろうから。

 旅人が旅に出た理由や、残してきたものや、得たものや失ったものを語るとき、僕はいつも少し切ない気持ちになる。それはたぶん話し相手と自分とが重なって見えてしまうからなのだと思う。
 長旅に出ようという人には、どこかしら歪んだ部分があるように思う。それは元々僕らの中にあった歪みなのだろうか。それとも長旅という特殊な状況が生じさせたものなのだろうか。そんなとりとめもないことを考えているうちに、夜は更けていった。

 
 

ギターを抱えた旅人

7486 ヘレナハウスはブダペスト市内にいくつかある日本人宿の中でも人気が高い宿で、いつもベッドが客で埋まっている状態だったので、僕は同じアパートにあるスーザンハウスという宿に移ることにした。スーザンとヘレナはお互いの客を紹介し合う業務提携のようなものを結んでいるらしかった。

 スーザンハウスでは二人の大学生と仲良くなった。梅ちゃんという男の子と、ミホちゃんという女の子で、二人ともまだ二十歳だった。
 ミホちゃんはロシア語が堪能で、今までに何度かロシアを旅したことがあるという女の子だった。
「前からロシアに興味があったわけじゃないんです。でも大学に入ったときに、金髪の女の人が私に手招きしたんです。『こっちへいらっしゃい』って。その人がロシア語の先生だったんです。言われるまま何となくその授業を聞いているうちに、ロシア語が面白くなっちゃって。そのあとロシアにはまっちゃったんです。将来はロシアの森林局に勤めたいって思っているんです」
「ロシアの森林っていったら、あのツンドラ?」
「そう。針葉樹林とか永久凍土とか、そういうものに興味があるんです」
 永久凍土に興味があるという女の子は、なかなか珍しいのではないかと思う。彼女は僕にロシア行きを勧めてくれた。何が面白いかと言われると表現しにくいけれど、とにかく面白い国なのだと。寒いのが苦手なんだ、と僕が言うと、ロシアだって夏は暑いんですよ、と彼女は笑って言った。

 梅ちゃんは重いギターを抱えながらヨーロッパ各国を旅していた。ムーミンに出てくるスナフキンのように、放浪の旅と言えばギターだと思ったらしい。
「でも、ほんとはギターを持ってきたこと、ちょっと後悔しているんです。重いんですよね、これ」
 僕の隣で演奏を聞かせてくれた後で、彼はぼそっと呟いた。バックパックを担ぐだけでも十分重いのに、さらにギターケースを持って旅をするのは結構辛いと思う。スタイルから入る旅というのも、なかなか大変なようだ。

 彼らと一緒に話をしたり酒を飲んだりしていると、学生時代の気分が蘇ってくるみたいで楽しかった。それぞれに夢があり、それぞれに悩みがある。彼らの未来はまだ曖昧としたもので、だからこそ様々な可能性が広がっている。とは言え、梅ちゃんがブダペストの国会議事堂を見学して帰ってきた直後に、「僕、国会議員になります」と宣言したのには大笑いしたけれど。

 
 

どこへ行けば旅が終わるのか

「一日中宿の中にいて、一体何をしているんですか?」
 ある夜、ミホちゃんが僕に言った。
「長く旅をしている人って、みんなそうなっちゃうんですか?」
 そんな風に言われて、僕は返す言葉が見つからなかった。
 旅をしない旅人。一日中ベッドの上でゴロゴロとしているだけの旅人。日本人宿に来たばかりの頃は、そんな旅人のことが全く理解できなかったのに、一週間後には自分自身がそうなっていたのだった。
「そろそろ旅を終えるべきだと思っているんだ」と僕は彼女に言った。「でも、その決心がなかなかつかないんだ。どこへ行けば旅が終わるのかが、わからなくなっているんだよ」

7498 東ヨーロッパに入ってから、僕は「既視感」のような感覚を何度も味わうようになった。どの町を歩いていても、以前に歩いたことがあるような気がしてしまうのだ。
 ブダペスト西駅の隣に建つショッピングモールに入ったときも、そのような既視感を感じた。そこは吹き抜けのエントランスホールには巨大な人口の滝が設置され、ガラス張りの天井から明るい日差しが差し込み、最上階にシネマコンプレックスと大型電気店がある、というようなモダンなモールだった。
 夏服を着たマネキンが明るいショーケースの中でポーズを決め、電気店の前に並べられた何十個ものブラウン管にはウィンブルドンを戦うアンドレ・アガシの顔が映し出される。その中をカップルが手を繋いでウィンドウショッピングを楽んでいる。

 そんな光景をベンチ座ってぼーっと眺めていると、自分が今どこにいるのかよくわからなくなってきた。近代化した町の洗練された消費文化というのは、国が違ってもほとんど同じに見える。日本でもハンガリーでも、同じようにGAPのショップがあり、ナイキのシューズが並び、ソニーのテレビが並ぶ。

 アジアの旅は言うなれば急流のような日々だった。目にするもの全てが新鮮で、毎日が一瞬のうちに過ぎ去っていった。アジアの日常は日本の日常とはまったく違っていた。その両者の水位があまりにも違っているために、旅は急流となり、そこで過ごす時間はあっという間に流れていった。
 しかしヨーロッパで目にするものは、日本の日常とそれほど変わらないものだった。少なくとも僕の目にはそう映った。アジアで感じた驚きや新鮮さは、ヨーロッパの旅では得られなかった。そして僕の旅は停滞を始めた。宿から外に出ることなく、だらだらと過ごすようになってしまったのだ。

 
 

「好奇心の摩滅」という病

 旅が停滞を始めたのは、ヨーロッパのせいだけではなかった。長期旅行者にとって宿命のような問題「好奇心の摩滅」という病に直面していたのだ。長く旅を続けていると、次第に新しいものへの興味が薄れてくる。目の前の世界が新鮮さを失い、既視感がその隙間を埋めていく。旅慣れていくにしたがって、感受性が鈍ってくる。

 以前にも「好奇心の摩滅」を感じたのはあった。インドでもイランでもギリシャでも、やはり退屈を感じ、旅することを意味を見失いかけた。そんな時、僕は移動スピードを上げることで、退屈さから逃れてきた。次々と見知らぬ土地に行き、新たな刺激を自分に与え続けることによって、旅に飽きることを避けていたのだ。
 しかし、同じクスリを繰り返し使うとその効き目が薄れてくるのと同じように、この方法にもやがて限界が訪れることになった。

 次の町に移動しなくてはいけないことは頭ではわかっている。でも体がそれに反応しない。それじゃ一体どこに行ったらいいんだろう。そんなことをベッドの上で考えているうちに、一日が終わってしまうのだ。自分の体から根が生えてきて、ベッドに絡みついているみたいだった。

 ヘレナハウスでミホちゃんに「ここで何をしているんですか?」と素直な疑問をぶつけられた日、僕はブダペスト市街を流れるドナウ川の流れを見に行った。それは流れているのか流れていないのか、よく見ないとわからないほどゆっくりとした流れだった。川幅は広く、水面はとても穏やかだった。その悠々たる流れは、ヨーロッパで停滞を始めた僕の旅の勢いそのもののように思えた。

 
 

もう一度アジアへ戻ろう

 これまでは、ただ流れに身を任せていれば良かった。なにも考えなくても、ブダペストまで流れ着くことができた。でもこれからは違う。自分の意志で旅を終えなくてはいけない。自分の足で日本に帰らなくてはいけない。そのことははっきりとしていた。
 僕が取るべき道はふたつあった。旅の終わりを素直に受け入れて西欧に向かうか。流れに逆らうようにして再びアジアへ戻るか。

 しかし、それは考えるまでもないことだった。答えは既に僕の中にあったからだ。僕は一度アジアを離れることで、自分がどうしようもなくアジアに惹かれているということを知った。あの匂い、あの混沌、あの瞳にもう一度出会いたいと思った。
 もう一度アジアへ戻ろう。ヨーロッパを北上し、ロシアからモンゴル、そして中国へ行こう。そのような「ユーラシア一周」のルートが僕の頭の中に浮かんだ。

 僕は適当な小石を掴んでドナウの流れに投げ込んだ。小石は緩い放物線を描いて落下し、水面に小さな波紋を作った。
 僕の「旅の終わり」は、こうして始まった。