アカバの市街地からバスで15分ほどのところにある砂浜に連れて行ってくれたのは、イマダブという青年だった。イスラエルの町を見ながら一緒に話をしたイブラヒムが、「友達に日本人と結婚した男がいる」と紹介してくれたのだ。しかし結婚はしているものの、一緒には暮らしていない訳ありの夫婦だという。
「本人から直接聞いてみたらいいけど、かなり変わった夫婦だよ」とイブラヒムは言った。

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流暢な英語を話すイマダブ

 明くる日の朝10時。約束した通りの時間に、イマダブは僕の部屋をノックした。彼はTシャツにハーフパンツというラフな格好で、人懐っこい笑顔を浮かべて立っていた。
「さぁ、僕の庭へ行きましょう!」
 イマダブは開口一番言った。彼はアカバ湾を巡るクルーズ船で欧米人観光客相手のガイドをしているだけあって、流暢な英語を話した。仕事がオフの日になると、彼はいつもサウスビーチという砂浜に出かける。そこが彼の「庭」なのだ。
「魚と一緒に泳いだり、海底に潜って貝殻を集めたり、パラソルの陰で昼寝をするんだ。きっと君も気に入ると思うよ」
 彼は嬉しそうに言った。

 アカバ湾は知る人ぞ知るダイビングスポットである。水の透明度が高く、魚の種類も多いのだそうだ。僕はまったくと言っていいほどダイビングに興味がなかったのだけど、イマダブにシュノーケリングセットを借りてほんの少し海を泳いだだけで、その素晴らしい水中パノラマに魅了されてしまった。
 色鮮やかな珊瑚礁から伸びる様々な種類の水草は、まるで小さな森のような広がりを見せている。その間をカラフルな衣装を身にまとった小さな熱帯魚が気ままに行き来している。海水はどこまでも透き通っていて、頭上から降り注ぐ硬い光線が海底を明るく照らしている。

6062 海で泳いだのは何年かぶりだった。正直言って泳ぐのは苦手だし、夏休みの海岸のうんざりするような人出も好きにはなれなかったのだ。でももし、家から20分のところにこんなビーチがあったら、僕だって毎週通っていただろう。

 イマダブの「庭」にすっかり魅せられた僕は、夢中になって遠浅の海を散策した。ところが調子に乗りすぎたのか、浅瀬で立ち上がろうとしたときに、ウニを踏んづけてしまったのだった。ウニのトゲは生け花の剣山みたいなもので、それをまともに踏んづけたのだから、痛さは半端じゃなかった。

「足下に注意しろよって、何度も言ったじゃないか」
 イマダブは呆れ顔で言いながら、ウニのトゲが刺さった場所ひとつひとつに煙草の火を押しつけていった。こうしておけばすぐに治る、と言うのである。しかしこれはかなりの荒療治だった。痛いところに熱いのがくるんだからたまらない。こんな「根性焼き」みたいなことで本当に治るんだろうか、という疑問が頭をかすめたものの、「海のことは任せておけ」と胸を張るイマダブを信じる以外に選択肢はなかった。

 昼食は持ってきたリンゴとバナナを二人で分けあって食べた。それから椰子の葉を編んで作ったパラソルの下で、しばらく昼寝をした。太陽は真上にあり、気温は40度近くまで上がっていたが、海から吹く風のお陰で過ごしやすかった。

6050 砂浜では、白いスカーフを被った3人の女性が、波打ち際に走っていく子供達を見守っていた。たとえ浜辺でも、貞淑なアラブ女性が水着を着るようなことはあり得なかった。ヨルダンはイランやパキスタンほど厳格なイスラム国家ではないけれど、人前で素肌をあらわにするようなことは、まだまだタブーなのだろう。
 男性でも海に入って泳いでいる人はほとんどいなかった。ヨルダンが海に接しているのは、このアカバ湾のわずか15kmだけだから、泳ぐという習慣がないのかもしれない。

「普通のヨルダン人は泳げないね」とイマダブは言った。「僕が泳げるのは、父に泳ぎ方を習ったからなんだよ。でも、その教え方っていうのが、ちょっと変わっていてね。父と僕が初めて一緒にプールに行ったときに、父は何も言わずいきなり僕を持ち上げて、プールに投げ込んだんだ。もちろんびっくりしたさ。泳ぎ方も全然わからないんだから、溺れそうになった。それでも父は助けてくれないんだ。だから、とにかく必死になって手足をバタバタ動かして、何とかプールサイドまで辿り着いたんだ」

「ライオンの親子みたいな話だね」と僕は笑った。
「その通り。僕の父はとても厳しい人なんだ。自分にも他の人にもね。父はヨルダン軍の兵士だったんだ。中東戦争では、レバノンに派遣されてイスラエル軍と戦った。でも、戦闘中に銃で足を撃ち抜かれて重傷を負ってね。その時、収容された病院で働いていたのが僕の母親なんだ。そこで二人は恋に落ちた。そして僕が生まれた。ねぇ、まるで映画のストーリーみたいだろう?」
「そうだね。じゃあ、君のお母さんはレバノン人なの?」
「そうさ。国境を越えた愛だね。僕らはしばらくレバノンで暮らしていたんだけど、内戦が激しくなったんで、ヨルダンに引き揚げてきたんだ」
「で、今は君が日本人と結婚しているってわけだ」
「面白いでしょ? もしかすると、僕の息子は南アフリカ人と結婚することになるかもね」
 イマダブはおかしそうに言った。

 
 

イマダブが日本人と結婚するまで

6073「君が奥さんと知り合ったときの話を聞かせてくれないかな」と僕は言った。
「長い話になるけど、いいかな?」
「もちろん。時間はいくらだってある」
「それもそうだね」とイマダブは言った。「彼女と出会ったのは三年前のことだ。僕は仕事を終えて、カフェでチャイを飲みながら海を眺めていたんだ。そこに一人の女の子がやってきた。後ろ姿がとても綺麗な人だった。彼女は着ていたシャツを脱いで、水着になって海に入っていったんだ。荷物をビーチに置いたままでね。不用心だなと思っていたんだ。そしたら案の定、ひとりの男がバッグに近づいて、中の財布を持ち去っていったんだ」

 海でひと泳ぎして帰ってきた彼女は、すぐに財布が無くなっていることの気が付いた。イマダブはすぐに彼女の側に行って、何かトラブルがあったんですかと英語で訊ねた。
「いいえ」彼女は硬い表情で言った。
「そんなはずはない。あなたは困っているはずですよ」
「どうしてそんなことを言うんですか?」
 彼女は目の前の男が犯人なんだと決めつけたような、疑いの眼差しを彼に向けた。それも無理のないことだと彼は思った。
「僕はあなたの財布が盗まれるのを、あのカフェから見ていたんです。大丈夫、犯人は僕の知っている男です。必ず取り返してあげます」
 彼が懸命に説明すると、ようやく彼女にも事態が飲み込めてきた。彼は彼女を落ち着かせようと、カフェに連れて行った。

「何か飲みませんか?」
「それじゃ、紅茶を砂糖抜きで」
 と彼女は答えた。彼はそれを聞いて、この人はきっと日本人だろうと思った。
「何か食べませんか?」と彼は訊ねた。
「パンをください」と彼女は答えた。
「『パン』とはなんですか?」と彼は訊いた。
「ああ、ごめんなさい。『ブレッド』よね。『パン』は日本語だったわ」
 彼女はようやく笑顔を見せた。キュートだな、と彼は思った。

 それからイマダブは犯人の男の家に行って、盗んだものを返すように言った。犯人はそんなものは知らないと突っぱねたが、俺は全部見ていたんだと言うと、急に態度を変えた。
「この財布には300ディナール入っている。お前が黙っていると言うんなら、150ディナールをお前にやってもいい。悪い話じゃないだろう?」
 しかし、イマダブはそんな話には乗らなかった。
「それは日本人の女の子のものだ。お前が返さないのなら、俺は警察に行く。それでいいんだな?」
 しばらく睨み合いが続いたが、最後には犯人は折れて、財布は彼女の元に返った。

 彼女は彼の行動に感激して、何度も礼を言った。そして、最初にあなたを疑って悪かったと謝った。それから二人は浜辺に並んで話をした。日が暮れるまでずっと話し続けた。夜になると星を眺めた。
 半日一緒にいただけなのに、彼は彼女のことを好きになっていた。お互いに英語が上手いわけではないし、育ってきた環境もまったく違うし、年だってずいぶん離れていた(彼女は彼よりも10歳近く年上だった)けれど、そんなことは気にならなかった。こんな風に人を好きになったのは、彼にとって生まれて初めてのことだった。

 その夜、イマダブは彼女にキスをした。彼女の方から「キスして」と言ってきたのだ。もちろん嬉しかったが、同時にひどく動揺した。当時20歳の彼にとって、これが初めてのキスだったからだ。
 その日から、二人はワディ・ラム砂漠やぺトラ遺跡を一緒に旅行した。その一週間は毎日が楽しくて仕方なかった。こんな日がずっと続けばいいのにと思った。でもそうはいかなかった。とうとう彼女が日本に帰る日がやってきた。
「どうして君は帰ってしまうんだ?」と彼は言った。「君を愛しているんだ。君と一緒にいたいんだよ」
 彼女は何も言わなかった。その代わり、目から大粒の涙をこぼした。涙は止まらなかった。彼はそれ以上何も言えなくなってしまった。女性に泣かれたのも、生まれて初めての経験だったのだ。

 彼女が日本に帰ってしまってから、イマダブは抜け殻のような日々を過ごした。仕事にも行かず、食べ物さえろくに食べずに、一日中彼女のことを考え続けた。恋の病に罹ったのも、生まれて初めてだった。
 ヨルダンと日本の間を、手紙が何度か往復した。何度か電話もかかってきた。そんな日々が数ヶ月続いた後に、とうとう二人は結婚することに決めた。彼女は飛行機に乗ってヨルダンにやってきた。そして首都のアンマンにある彼の実家で結婚式を挙げた。
 唯一の問題は、彼女がムスリムではないということだったが、それは一枚の書類で済んでしまった。つまり彼女がムスリムに改宗したという証明書だ。実際に彼女がイスラムに帰依したわけではなかったが、彼にとってはどちらでもよかった。

 
 

3ヶ月に1度の同居生活

6398「でも僕らは一緒に住まなかった」
 サングラス越しに穏やかな波を見つめながら、イマダブは言った。3ヶ月に1度、彼女は飛行機でヨルダンにやってくる。そしてしばらく二人一緒で暮らしてから、彼女だけがまた日本に帰っていく。
「そのことで親戚や友達からいろいろなことを言われたけど、気にしなかった。僕のおじさん連中なんて、いまだに『そんなのは夫婦じゃない。さっさと別れて、俺の娘と結婚しろ』って言ってくる。大部分のヨルダン人は今でも親が決めた相手と――たいていは自分のいとこと――結婚するものなんだ。でも正直言ってうんざりしている。奇妙な夫婦だってことは僕も認めるよ。でもこれは僕の人生であって、彼らの人生ではないんだ」

 ウニに刺された右足の痛みがいっこうに引かないので、僕は熱い砂の中に足を突っ込んで(これもイマダブ流治療法らしい)、しばらく体を休めることにした。イマダブは「また潜ってくるよ」と言って、海に走っていった。
 それにしても世界には不思議な夫婦がいるものだ。僕はイラン人の妻がいながら女遊びにも精を出すラオスのイーさんや、日本とバングラデシュに二人の妻を持つ強者・ビダンさんのことを思い出した。イマダブの夫婦生活もその二人に負けず劣らず奇妙なものだった。

 イマダブはとても純粋な男だ。彼は彼女に惚れ込んでいる。そのことははっきりしていた。きっと彼の頭の中には「恋愛=結婚」という図式しかなかったのだろう。だから中途半端な関係よりも、「結婚」という形を望んだのだ。
 しかし、この夫婦の行く末はどうなるのだろう。今の関係がいつまでも続くものでないことは、イマダブ自身がよくわかっているはずだ。彼の純粋さが、彼自身を傷つける結果にならなければいいのだけど。

 椰子で編んだパラソルの隙間から漏れてくる日差しが眩しくて、二度目の昼寝から目を覚ました。イマダブはパラソルの柱にもたれながら、ノートにペンを走らせていた。
「何を書いてるんだい?」
 僕が声を掛けると、彼はペンを置いて顔を上げた。
「妻への手紙だよ。僕はここへ来ると、手紙を書くことにしているんだ。そうだ。もしよかったら、この手紙を日本語に訳してくれないかな? 一度日本語で手紙を書いてみたかったんだ」
 お安いご用だ、と僕はノートを受け取った。

 

親愛なるユキコへ。お元気ですか? 僕の方は全く問題ありません。ただひとつ、君がそばにいないという事実を除いては。
毎晩僕は君の夢を見ます。僕は夢の中で君と話をします。夢の中で君を感じています。僕は君を愛しています。今も、そしてこれからも、ずっと変わらず。

 

「ストレートな言葉だね」と僕は言った。
「僕は文章を書くのが得意ではないから、他にどう書けばいいのかわからないんだよ」彼は照れ臭そうに言った。
「二人の会話は今でも英語なの?」
「そうだね。彼女はアラビア語が話せないし、僕も日本語が話せない。でもね、二人でこのビーチにいるときは、言葉なんて必要ないんだよ。彼女が何を望んでいるか、僕が何を考えているか、お互いの目を見ればわかるんだ」
「僕なんて日本人の女の子と日本語で話をしているのに、いつも誤解ばかりされている気がするけど」
 僕がそう言うと、イマダブはチャーミングに笑った。きっと冗談だと思ったのだろう。半分は本気なんだけどな。

6397「僕と彼女が喧嘩したことってほとんどないんだ。でも、レストランで僕が料理を注文して、食べきれないで残したりすると、彼女はものすごく怒るんだよ。『もったいないじゃない! どうして食べないのよ!』ってね。でもこっちではそれが当たり前なんだよ。料理もすごく安いんだから」
 確かにアラブ諸国の食堂では、たくさん注文して全部食べずに残す人が多かった。食べきれないぐらいの料理でもてなすというのが、アラブ流の礼儀なのだそうだ。僕がチャイハネでチャイを飲んでいるときも、まだ半分以上残っているグラスをウェイターは平気で下げようとするのだった。そんな場面に出くわすと、彼らには「もったいない」という感覚があまりないのかもしれないと思えてくる。

 アジアの農耕民族は「もったいない」という感覚を共通して持っていると思う。いくら日本が飽食の時代を迎えたといっても、出された料理を残すことへの抵抗感は、誰もがある程度は持っているはずだ。それに対して、古来から商人であるアラブ人には、食べ物を作る人や食べ物それ自体への感謝の気持ち――すなわち「もったいない」という感覚――が、希薄なのではないだろうか。

「それと、もうひとつ理解できないのは、彼女が僕と一緒に食事をしたりホテルに泊まったりするときに、必ず自分の分は自分で払おうとすることなんだ。ヨルダンでは、男が全て払うのが当たり前なんだ。僕だってそうしたいと思う。だけど彼女はそれを嫌がるんだよ。どうしてだと思う?」
「きっと君の奥さんは君と同じ立場でいたいんだと思う。つまり女が男に付き従うというのは、フェアーじゃないってことだ。日本ではそれが当たり前なんだ」

6400「君の言っていることはわかるよ」とイマダブは言った。「でも僕は男なんだ。父のように強い男ではないかもしれないけど、家族を守れるような男になりたいとは思っている」
 男らしくありたいという意識は、イスラムの国々に共通するものだった。しかし、それが現代の日本女性の価値観とは相容れないものであることは、容易に想像がついた。

「だけど今の僕は、そんなことを言える立場にはないんだ。僕の仕事は、この先ずっと続けていくようなものじゃない。でも彼女にはちゃんとした仕事がある。お父さんが経営していた会社――その内容は僕もよく知らないんだけど――を引き継いでいるんだ。彼女のお父さんは僕らの結婚に最後まで反対していて、そのことで彼女とは険悪な関係になってしまったらしいんだけど、それからすぐに亡くなってしまったんだ」
 イマダブはふーっと大きくため息をついて、エメラルド色の海に目をやった。

「観光船のガイドは楽しいし、給料だって悪くないんだ。日当は8ディナール。11ドルぐらいだね。週に3日も働けば、僕一人が暮らすのには十分な収入になる。でも、そろそろ人生を変えるべきじゃないかと思っているんだ。いつまでもこんな暮らしをしているわけにはいかないからね。やっぱり夫婦は一緒に暮らすべきだと思う。だけど今僕が日本に行ったところで、僕には何もできないし、結局は彼女の世話になるだけだと思う。それは絶対に嫌なんだ。彼女に養ってもらうわけにはいかないんだよ」
「君が男だから?」
「そう。僕が男だから」

6196 太陽が西に傾き、少し風が出てきたので、そろそろ帰ろうかと僕らは立ち上がった。イマダブは「お土産にあげるよ」と、ポケットの中から白い巻き貝の貝殻を取り出した。さっき海に潜ったときに見つけたのだという。
「この貝には、家を引っ越しする生き物が入っていたんだ。英語でなんて言うのか知らないけど」
「日本語だと『ヤドカリ』だね」と僕は言った。英語の名前は僕も知らなかった。
「君は半年以上旅を続けているって言っていただろう? だからこの貝がぴったりだと思ったんだ」

 なるほど。海の世界から見れば、旅人はヤドカリみたいな存在なのかもしれない。新しい土地に行き、新しい宿を見つけてそこにもぐり込んで眠り、次の日も新しい宿を探すために歩き続ける。
「そろそろ僕も新しい宿を見つけるときなのかもしれないね」
 イマダブは独り言みたいに言った。
 でもその時にはこの美しい「庭」を捨てることになるんじゃないのか、という言葉は僕の胸の中にしまっておくことにした。