雨上がりの少女
ルーマニアではほぼ毎日のように雨に降られた。しとしと降り続く雨ではなく、ほんの2,30分だけ雨雲が空を覆う夕立タイプの雨だったから、その間は雑貨屋の店先や大木の下で雨宿りをした。
でも、雨上がりの町を歩くのはなかなか楽しかった。湿った石畳が日の光を反射してキラキラと光る様や、軒先で雨宿りしていた人々がほっとした顔で空を見上げる様子なんかが、町の表情を親密に見せてくれるからだ。アジサイの赤紫色の花弁に乗った水滴が宝石のように輝くのも綺麗だったし、思い出したように鳴き始める小鳥の声や、通りに漂う雨と土の混ざった濃密な匂いも、とても清々しい気分にさせてくれた。
農家の庭先でアジサイを手にした少女を撮ったときも、夕立が上がったばかりだった。まるで「赤ずきん」の世界から抜け出してきたようなかわいらしい女の子だった。人形のようにつるりとした肌と、はにかんだ表情が印象的だった。
隣にいたおばあさんが「あんれまぁ、この子ったらガイジンさんに写真撮ってもらってぇ」みたいなことを言って、大きなお腹を抱えて笑う。僕もそれにつられて笑う。少女のこわばっていた表情が少しだけ緩む。
それはなんてことない日常のひとコマだったけれど、かけがえのない特別な一瞬だった。
そんな一瞬に出会うことができたのは、きっと雨上がりの親密な空気のお陰なんだろうと僕は思った。
毎週月曜の家畜市
ルーマニア北部にある田舎町シゲット・マルマツィエイで家畜市に行った。ここは毎週月曜日に市が立つのだが、月初めの月曜日が特に大規模だという。僕がこの町を訪れたのは、ちょうどこの月初めの月曜日だったのだ。「あんたはラッキーだな。このチャンスを逃す手はないよ」と宿の主人は言った。
家畜市と聞いてすぐに頭に浮かんだのは、以前エジプトのカイロで見たラクダ市場のことだった。そこは頭にターバンを巻き付けたいかついアラブの男達が仕切る市場で、売り手と買い手が今にも掴み合いを始めそうなほど真剣な商談の場だった。売り物のラクダの方も興奮して暴れたり吠えたりしていた。
しかしシゲット・マルマツィエイの家畜市は、ラクダ市場のような喧噪とは無縁の実にのんびりした市場だった。商売という目的だけではなく、付近の村人達の情報交換や雑談の場にもなっているらしく、家族全員で馬車に乗り込んでピクニック気分でやってくる人達も多いようだった。
それでも敷地だけはやたら広く、野球場ぐらいの広さがある野原に牛や馬や豚が何百頭も集められている様子は壮観だった。売り手は近隣の村から荷馬車に乗ってやってくる農家の人で、それぞれが適当な買い手と直接交渉して自分たちの家畜を売り込んでいた。仲買人もいないし、家畜を整理するための番号札もない。貨幣経済が登場する以前からあるような原始的なかたちの市場である。
夏らしい日差しが照りつけ、夏らしい雲が空に浮かぶ、夏らしい一日だった。おばさん達は日傘を差し、牛達は気だるそうにその辺の草を食べている。暑さに弱い豚は、地面を掘り返して土の中で眠っている。大切な売り物である豚を直射日光から守るために、自分のスカートの裾を広げて影を作ってあげているユニークなおばさんもいた。
農家のおばさん達はみんな膝丈ぐらいの黒いスカートを履き、頭に頭巾を被るという伝統的なスタイルで、ほぼ例外なく太っていた(シルエットはガンダムに出てくる「ドム」にも似ている)。若い女の子はすらっとしてスタイルが良いのに、おばさんになると太るというのは、どの国でも共通の現象だったが、ルーマニアの農村ではそれが際立っていた。きっと食生活の問題もあるのだろう。
ちなみに家畜の値段を聞いてみると、子豚が100万レイ(4300円)、大人の豚が350万レイ(15200円)、牛は750万レイ(32600円)というところだった。家畜というのはだいたい体の大きさに比例して値段も高くなるものらしい。ルーマニアのおばさんはだいたい年齢に比例して体が大きくなるものみたいだけど。
子馬と交わす別れの言葉
家畜市の中でとりわけ印象残っているのが、家族とともに子馬を売りに来ていた少女だった。娘は子馬のことを自分のきょうだいのように感じているらしく、愛おしそうに頬をすり寄せたり、たてがみを撫でてやったり、鼻面にキスをしたりしていた。
でも、この子馬はあくまでも売り物で、買い手が見つかれば少女の元を去っていく運命にある。彼女もそのことは十分に承知しているのだろう。子馬を見つめる少女の眼差しは、どこか悲しげだった。子馬の方もそんな少女の気持ちがわかっているのか、濡れた鼻を熱心にすり寄せている。
そんな少女と子馬の姿を見ていると、「ガリバー旅行記」を思い出した。小人の国や空飛ぶ島を訪れたガリバーが最後に漂着したのが、言葉を話す馬の住む島だった。その島の支配者は「フーイナム」という馬の姿をした高潔で頭の良い生き物で、人間の姿をしているものの欲望丸出しで醜い姿の「ヤフー」という生き物とともに暮らしているのである。
ガリバーはフーイナムからヤフーと間違えられて大変な目に遭うのだけど、努力の末にフーイナムの言葉を覚え「高潔なヤフー」として認められるようになる。そして島を離れて故郷のイギリスに戻った後も、ガリバーは人間を遠ざけ、馬を可愛がって余生を過ごす。そういう話だった。
家畜市場の少女は子馬の頭をぎゅっと引き寄せて、耳元に何かを囁いた。ルーマニア語がわからない僕にも、それが別れの言葉だということは伝わってきた。もしかしたら、この子馬もガリバーと話をしたフーイナムのように少女の言葉が理解できるのかもしれない。ふたりの間にある特別な絆を見ていると、そんな風にも思えるのだった。