映画のワンシーンのような別れ
バイカル湖の近くにあるシベリアの中核都市・イルクーツクへ向かう列車「バイカル号」は、深夜の11時30分にモスクワを出発する。僕はいわゆる「シベリア鉄道」に乗って、モスクワから一気にモンゴルのウランバートルまで行くつもりだったのだが、あいにくモスクワ発ウランバートル着の直通便は2週間先まで満席だったので、イルクーツクで乗り換えることにしたのだった。
僕の座席はコンパートメントになっていない安い方の寝台だった。二段ベッドが向かい合わせに置かれ、通路を挟んだ窓際にもう一組の二段ベッドがセットされている。僕の下は30歳前後の女性のベッドで、向かい側には彼女の二人の息子が座っていた。三人とも見事な金髪で、透き通るような青い目をしていた。兄弟はとても元気がよく、母親は反対に物静かな人だった。
窓の外には、その親子三人を見送りに来ている男がいた。おそらく一家の父親なのだろう。背が高くがっしりとした体格をしている。兵士なのかもしれない。何かの事情で父親はモスクワに残り、母と子供はシベリアの町に行かなくてはいけないのだ(後で聞いてみると、この男性はやはり一家の父親で、兵士だった。母親は子供の夏休みを利用して、単身赴任をしている父親に会いにモスクワにやってきて、これからイルクーツクの近くにある故郷の町に帰るところなのだという)。
発車時間が迫ってくると、親子は窓のそばに身を寄せた。そして母親と父親は窓越しに手の平を合わせた。彼女の目は赤く充血し、涙が溜まっていく。窓の向こうの夫は少し困ったような笑みを浮かべている。仕方ないじゃないか、俺だってほんとは別れたくないんだよ。彼の笑みはそう語っているように見える。沈みがちな気持ちを振り払おうと、努めて明るく振る舞っている。
やがて音もなくゆっくりと列車が動き出す。男は窓ガラスに手を置いたまま、列車と一緒に歩き始める。若い母親の目から涙がこぼれ落ちる。一粒流れ始めると、もう止まらない。次から次へと涙が頬を伝っていく。彼女は二人の子供の頭を両脇に抱く。弟の方は声を上げて泣き出す。兄の方は泣きたいのをぐっと堪えている。
列車は次第にスピードを上げていく。男はそれに追い付くために小走りに走り始める。走りながら彼は同じ言葉を何度か繰り返し叫ぶ。列車は更にスピードを上げる。彼はいったん僕らの視界から消えて、再び戻ってくる。全速力で走っている。彼は苦しそうに顔を歪めながら、それでも精一杯の笑みを作ろうとしている。しかし彼の全力疾走もプラットホームの端で終わる。彼は最後に右手を高々と上げる。列車はシベリアに向かって本格的にスピードを上げていく。母親は子供の頭を抱き寄せたまま、真っ暗な窓の外を見続けている。
僕はその別れの場面を親子の背後からずっと眺めていた。まるで映画のワンシーンみたいだった。それもありきたり過ぎて陳腐に思えるような、古い名作映画のラストシーンのようだった。でもそれを現実になぞっている彼らの姿は、全く陳腐ではなかった。とても美しかった。
本当に離ればなれになってしまうのだ。丸三日間列車に揺られて、ようやく辿り着くことが出来るほどの遠くの町に行ってしまうのだ。次に会えるのは一年後、いやもっと後になるかもしれない。
もしこれが東京駅の新幹線ホームでの出来事だったら、これほど真に迫ったものにはならなかったと思う。その気さえなれば、日本全国どこへでも半日で行くことができるわけだし、たとえ別れてしまっても、携帯電話でいつでも連絡を取り合える時代なのだ。物理的な距離が重い意味を持つ別れというのは、現代の日本にはもうほとんど存在しない。それで僕らがより幸せになったと言えるのだろうか。便利になることで失ったものも多いのではないだろうか。僕は自分が目の前の美しい別れのシーンに対して、羨望にも似た感情を抱いていることに気が付いた。
寝台に仰向けに寝転がって、今までに経験した様々な別れを思い返してみた。しかし思い出すことができるのは、中途半端に引き延ばされた別ればかりだった。「会おうと思えばいつだって会えるんだ」と思いながら、結局何年も音信が途絶えてしまって、最後には連絡先すらわからなくなってしまったような、アンチクライマックスでフェードアウト型の別ればかりだった。
チェコのプラハで出会い、駅のプラットホームで別れたキョウコさんにしてもそうだった。僕はあのとき彼女に何かを言うべきだったんじゃないか。今になってそんな風に思う。しかし全ては手遅れだった。列車はもう動き出してしまったのだ。
地球の丸さを実感できる列車
僕がモスクワを出発する数日前に、北朝鮮の金正日総書記がシベリア鉄道に乗ってモスクワにやってきたという話を聞いた。「彼は飛行機が怖いらしいんだ」とその話を教えてくれたロシア人は冗談めかして僕に言った。
でも冗談抜きで、よっぽどの飛行機嫌いでもない限り、平壌からモスクワまで列車で行こうなんて発想は生まれないと思う。実際に何日かかったのかは知らないけれど、いくら速く走っても一週間はかかる距離である。仮にも一国の最高権力者がそんな呑気なことをしていても大丈夫なのだろうか、と心配になってしまう。まぁあの国にはそれ以外にも心配することはたくさんあるけれど。
それにしても金正日氏は列車の中で何をして時間を潰していたのか、気になるところではある。マルクスの著作を読んでいたのだろうか。それともトランプ占いでもやっていたのだろうか。
金正日氏の性格はよく知らないけれど、せっかちな人にはシベリア鉄道はお勧めできない。シベリア鉄道は少なくとも僕が今まで乗った乗り物の中では、世界一退屈だと断言できるからだ。
まず乗車時間がとんでもなく長い。モスクワを深夜に出発して、シベリアの中継都市イルクーツクに到着するのは、四日後の朝である。モンゴルのウランバートルまでは更に一日半を要する。路線距離が恐ろしく長いのだから仕方ないのだが、それにしても長すぎる。
ロシアには「400kmは距離じゃない。マイナス40度は寒さじゃない。ウォッカ4本は酒じゃない」という諺があるらしいのだが、そのロシア人でもさすがにモスクワ・イルクーツク間の5152kmを「距離じゃない」とは言えないだろう。
車窓から見える景色も単調である。森、草原、森、草原。ひたすらその繰り返し。樹木の種類は東へ進むに従って徐々に変化する。西には白樺などの落葉樹が多く、東のシベリア深部ではカラマツなどの針葉樹の割合が増える。しかしいずれにせよ、くすんだ緑色をした深い森林が延々と続くことには変わりない。
人家の集まる集落はところどころにあるが、どれもしょぼくれた山小屋風の家ばかりで、見ていて楽しくなるものではない。どの家の壁も焦げ茶色に塗られていて、外見にこだわっている様子はない。夏の盛りの八月半ばではあったが、もう既に来るべき冬に備えて身を硬くしているようにも見える。
もちろんシベリア鉄道でしか体験できないこともあった。そのひとつが時差だった。シベリア鉄道は全線モスクワ時間を基準にして運行されている。だから東へ移動するに従って、列車内の時刻と現地時刻とのずれが大きくなっていくのである。例えばモスクワでの日没は9時過ぎだったが、イルクーツクでは午後5時頃に日が沈む、という現象が起こる。飛行機ではよくあることだけど、列車に乗っていながら地球の丸さを実感できる機会はそうはないと思う。
退屈を味わうための旅
僕は一日の大半を二段ベッドの上で寝転がって過ごした。持ってきた文庫本を読み、それに飽きると窓の外を眺め、時々うたた寝をした。しかしなかなか時間は進んでくれなかった。夏のシベリアは意外なほど気温が高く、暖房設備は万全でも冷房設備は全く無い車内はかなりの暑さだったので、昼間は上半身裸で過ごした。
向かいのベッドにいる二人の男の子と遊ぶこともあった。指相撲をしたり、一緒に絵を描いたり、日本語の本を見せてあげたりした。兄弟は人懐っこく、とても行儀がよかった。8歳のボーリャと6歳のアレクサンドルにとって、丸三日間の寝台車の旅はかなり退屈なものであるに違いなかったが、それについて母親に不平を言ったりすることは一度もなかった。
他のロシア人の乗客も、それぞれのやり方で退屈な時間をやり過ごしていた。ある人は分厚い本を読んでいたし、ある家族はトランプをしていた。クロスワードパズルに熱中する若者もいれば、窓の外をただぼーっと眺めている老人もいた。「暇人の見本市」というものを開くとすれば、ここほど最適な場所はないだろう。
しかし中には退屈さに耐えられない若者もいた。彼らはウォッカを一人一本ずつ空け、持ってきたギターを弾きながら大声で合唱し始めたのだが、すぐに車掌のおばさんがやってきて、ものすごい剣幕で怒鳴りつけて止めさせた。シベリア鉄道の車掌の多くは体格がよくて化粧の厚いおばさんである。そして何かあると乗客を怒鳴りつけるのを職務としているのだ。
太った車掌のおばさんに怒られて、ギターの若者はバツが悪そうに苦笑いしていたけれど、持て余したエネルギーを発散させたくなる彼らの気持ちは、僕にも十分理解できた。
普段は静かな車内も、食事時には賑やかになった。ロシア人の乗客の多くはソーセージやチーズやパンといった食材を大量に持ち込んでいた。中には鳥肉とジャガイモを煮込んだ本格的なシチューをホーロー鍋ごと持ち込んでいる人もいた。これはなかなか美味しそうだったけど、わざわざ重い鍋まで持ち込む必要があるのだろうかと首を捻らずにはいられなかった。
食料を準備してこなかった僕は、列車が駅に停車している20分ほどの間に、ホームに降りて食糧を確保する必要があった。ホームには地元農家のおばちゃん連中が野菜や干し魚やピロシキなんかを売りに来ている。キオスクで魚の缶詰やパンやカップラーメンなどを買うこともできる。でも値段は町の商店よりも幾分高めだった。
ある駅には「イクラ!イクラ!」と叫びながら、乾燥した魚の卵を売り歩くおばちゃんがいた。「イクラ」はもともとロシア語で「魚の卵」を意味する言葉で、それが大正時代に日本に入ってきたらしい。ちなみにシベリアのイクラはなかなか美味だった。お酒のつまみにもってこいという味である。
ロシア人がカップラーメン好きなのも意外だった。各車両にはサモワールが備え付けられていて、熱湯はいつでも使えるようになっているから、カップラーメンにお湯を注いで食べることもできるのだ。ボーリャとアレクサンドルの兄弟も、昼食にはだいたいカップ麺を食べていた。
そうこうしているうちに何とか一日が過ぎ去っていく。日が昇り、日が沈む。
シベリア鉄道は世界一退屈な乗り物だったが、だからといって僕がこの旅を楽しめなかったわけではない。何故なら退屈の質というのは、国によって全く違うものだからだ。インドにはインドの退屈があり、イランにはイランの退屈がある。そしてシベリア鉄道には、世界中探してもここにしかないオリジナルの退屈さがあった。
シベリア鉄道の退屈さは、広大で変わりばえのしないシベリアの大地に裏打ちされたものだった。列車は確かに前に進んでいるのに、窓の外の景色はいっこうに変化しない。まるで自分が回し車の中で懸命に走り続けるハムスターになったような気分だった。
そのような未知の退屈さを僕は楽しんだ。そしてその退屈さを通過することによって、僕はロシアという国のうんざりするほどの広さを、概念としてではなく体で知ることができた。
そういう行為を馬鹿げていると思う人もいるかもしれない。退屈を味わうために旅をするなんて、自虐的な思考でしかないと。
でも僕は長く旅を続ける中で、こう考えるようになった。旅というのは無駄な回り道をすることであり、その回り道の中に新鮮な驚きを見出すことにこそ、旅を続ける意味があるのではないかと。
「シベリアのパリ」という大嘘
バイカル号が終点のイルクーツクに到着したのは、モスクワを出発してから丸三日と4時間後のことだった。5時間の時差が加わるために、イルクーツクは朝の8時になっていた。イルクーツクは僕にとってあくまでも乗換駅であり、モンゴルのウランバートル行きの切符さえ手に入れられればそれでよかったのだが、一番早い列車でも出発は12時間後だということがわかり、結局この町で半日時間を潰すことになった。
イルクーツクは「シベリアのパリ」と呼ばれている。誰が最初にそんなことを言い出したのかは知らない。きっとすごく無責任な人か、あるいはものすごく想像力が豊かな人かのどちらかだと思う。ホラのレベルで言えば、ラオスの首都ビエンチャンが「東南アジアのパリ」と呼ばれていたのといい勝負である。
確かにイルクーツクは小綺麗で落ち着いた町だった。しかし僕の目にはただ単に閑散としているだけのように映った。メインストリートを行き交う人の姿もまばらだし、横道にそれると半分傾いた木造住宅や未舗装の荒れた道路などが目立つ。町の中で唯一活気があるのは野外市場で、ここには中国人やモンゴル人の姿ばかりが目立った。売られている生活雑貨の大半は、中国から輸入されてきたもののようだった。
ただの田舎町にしか見えないイルクーツクをパリだと言うのなら、シベリアにある他の町がどのようなものであるかは推して知るべしである。実際、列車に乗っている間も何度かシベリアの町を通過したのだが、どれも閉山間際の炭坑の町を思わせるような寂しいシルエットをしていた。
シベリアは地下資源の宝庫であり、今後のロシアの発展のためにシベリア開発は欠かせないという話はよく聞くのだが、冬にはマイナス40度を下回ることもざらだという厳しい自然環境の中でわざわざ暮らそうという人間はなかなかいないのではないかと思う。マイナス40度なんて、想像しただけで鳥肌が立ってきそうだ。
イルクーツクで最も印象に残ったのは、人々が川沿いにある公園に集まってダンスしている姿だった。15人ほどで編成されたオーケストラが演奏するゆったりとしたワルツに合わせて、ペアを組んだ老若男女(と言っても大半は老人だった)が思い思いのステップで踊る。難しいことは抜きにして楽しめばいいという雰囲気は、日本の盆踊りにも似ていた。
年老いた夫婦のステップはどことなくたどたどしかったけれど、その表情は満ち足りていた。空はぱりっと晴れ上がり、ワルツの調べを乗せた風が穏やかに吹き抜けていく。そこにはシベリアの短い夏の終わりの日曜日に相応しい、祝祭的な空気が満ちていた。