4923 これでいくつめの国境を越えたんだろう。
 イラン側のイミグレーションオフィスに飾られたホメイニ師の写真に別れを告げて、トルコ側のケマル・アタチュルク像に迎えられながら、ふと思った。

 日本を発ってから、そろそろ半年になろうとしていた。その間、僕はアジアをひたすら西へ西へと進んできた。そのアジアもトルコで果てようとしている。その先にはヨーロッパがある。ギリシャがあり、イタリアがあり、フランスがある。旅の終わりもそこにあるはずだ。でも徐々にヨーロッパに近づくに連れて、僕の中に迷いが生まれていた。

 どうやって旅を終えればいいのだろう?
 旅のゴールはどこにあるんだろう?
 そんな誰も答えてくれない質問を、自分自身に投げかけることが多くなっていた。

 イラン側の税関はかなり執拗だった。バックパックの中身を全部開けさせて、ひとつひとつチェックするのだ。本のページまでめくる。どうせ日本語で書かれているのだから、中身なんてわからないと思うのだけど、一応検閲の対象なのだろう。税関の質問は僕の持っているノートパソコンのスペックにまで及んだ。

「CPUは233MHzでハードディスクは6Gバイトです」などと聞かれるままに答えると、
「俺のPCはペンティアム3なんだ」と言われた。
 どうも係官の男が自分のパソコンを自慢したかっただけのようだ。そんなこんなで国境越えには時間がかかったが、どうせ国境越えのバスは乗客が全員揃わないうちは出発しないから、焦る必要なかった。

 

4926 イラン同様にトルコも国民の大半がイスラムを信仰する国である。しかし、国が向かおうとしている方向はずいぶん違う。ホメイニ師が起こしたイスラム革命によって、イランは政治の中心にイスラム指導者を据え、コーランの教えを忠実に守ることで国民の結束を促した。西洋文明の流入を拒み、女性のチャドル着用を義務化した。しかしトルコ共和国初代大統領のケマル・アタチュルクが押し進めたのは世俗化と政教分離であり、脱イスラムと欧米化だった。

 バスに乗り合わせていた女達の表情も、イラン側にいる時とトルコ側にいる時では違っていた。イラン側では女性は皆、黒チャドルで全身を覆わなければいけない。しかし国境を越えてトルコに入るとその義務はなくなるから、そそくさと脱いでしまう。そして、用意していた明るい色のスカーフに着替える。スカーフの色が変わると、女達の表情も明るくなる。重い荷物を降ろしたときのように、ほっと顔が和む。少なくとも僕の目にはそんな風に見えた。中には煙草を吸い始める女性もいる。人前で煙草を吸う女性の姿は、イランでは一度も見かけたことがなかった。
 チャドルを脱ぎ、人目を憚ることなく煙草を吸う。そんなささやかな自由を手に入れただけでも、人の表情は変わるものなのだ。

 東部トルコはとても寒かった。季節は春から初夏へと向かっているというのに、空は鉛色の重たい雲に覆われ、細かくて冷たい雨が降り注いでいた。草原に放たれている羊たちが白い息を吐く。羊飼いの少年の息も白い。残雪が解けてシャーベット状になっている場所では、バスは速度を落として慎重に進んだ。

 

 

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今年初めて降った雨

4983 イランではTシャツ1枚で町を歩き、直射日光の降り注ぐ砂漠の中を移動してきただけに、あまりに急激な気候の変化に体がついていけなかった。僕が持っている防寒具といえば、薄手のウィンドブレーカー1枚きりなのだ。体の芯にまで染み込んでくるような寒さだった。

「でもあんた、この雨は今年初めて降った雨なんだよ」
 と食事休憩の時に入ったロカンタ(食堂)で給仕をしている男が言う。
「初めての雨?」
「そうさ。昨日までは雨じゃなくて雪が降っていたんだ。これでもだいぶ春らしくなってきた方さ」

 寒さに震えている僕を笑いながら男は言った。4月の終わりになるまで雪が降る。そんな厳しい気候のトルコ東部山岳地帯は、あまり人が好きこのんで住み着く土地ではないらしく、町の規模もとても小さかった。人々は昔ながらのやり方で牛や羊を放牧して、細々と生計を立てている。イスタンブールや地中海沿岸を中心とした「発展した西部」と、「取り残された東部」との経済格差はかなり激しいという。

 
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道ばたで将棋を指す男たちも寒そうだ

 そしてこの地域では、トルコからの分離独立を目指すクルド人がゲリラ活動を展開している。それを押さえ込もうとするトルコ政府軍との衝突もたびたび起こっていて、当然のことながら迷彩服を着たトルコ軍の兵士を頻繁に目にすることになる。

 国境からヴァンの町に着くまでに、僕らを乗せたバスは実に7カ所もの検問所で止められた。兵士が乗客全員の身分証(トルコ人はみんながこれを携帯しなくてはいけないらしい)をチェックして回り、場合によってはバスを降ろされてボディーチェックをされる。

 兵隊による検問は、干し草を満載した農家のトラックに対しても行われていた。3mほどの長さの鉄の棒を干し草の中に突き刺して、中に不審なものが入っていないかチェックするのだ。かなり長い時間それをやっているところを見ると、麻薬や武器を干し草の中にカムフラージュして運んだ例があったのかもしれない。

 検問所の脇には、場違いなほど立派な装甲車と対戦車砲が置かれている。対戦車砲の長い銃砲が、冷たい雨に濡れて艶やかに光っている。羊と羊飼い以外に何もない、一見するとのどかにも見えるこの草原も、実は緊張をはらんだ場所なのだろう。

 

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ヴァンの町にそびえる岩山

 僕はまずヴァンの町に立ち寄り、そこで一泊してからアララット山の麓にあるドウバヤジットに行き、そこからエルズルムの町に向かった。どの町もこじんまりとしていて、いかにも辺境の地方都市という雰囲気だったが、建物も行き交う人々の姿もすっかりヨーロッパ風なことに驚いた。モスクから礼拝を呼びかけるアザーンの声が聞こえてこなければ、ここがイスラムの国だとは気が付かないかもしれない。

 エルズルムの町では、大学生の女の子に道を教えてもらった。バスを降ろされた場所がどこなのかわからなくて困っていると、「何かお困りですか?」と遠慮がちに声をかけてくれたのだ。
 町の中心はどこかと訪ねると、私が案内しましょうと一緒に歩いてくれた。大きな黒い瞳と艶やかな黒い髪を持つなかなかの美人だった。黒いレザージャケットを着て、スリムな体のラインを強調するようなジーンズをはいている。

 

 

トルコは美人の多い国

5034 「トルコは美人の多い国だ」という旅行者の評判は本当だったんだなと、僕は一人で納得した。ヨーロッパ的なものとアジア的なものが混ざり合っているのがトルコの特徴だとすれば、それを一番端的に表しているのが、トルコ美人ではないかという気がする。彼女の黒い瞳はエキゾチックで、人を惹きつけるものがあった。

「昼食がまだだったら、一緒にどう?」
 そう誘ってみると、彼女は快く「イエス」と答えた。僕らは近くのロカンタに入って、ランチを食べながら話をした。彼女はこの町にある大学に通う学生で、英語を専攻しているのだという。でも、こんな田舎町に住んでいると外国人と直接話す機会は滅多にないから、僕を道路で見かけてつい話しかけてしまったんだそうだ。

「イランやパキスタンでは、女性が見ず知らずの男性に話しかけるなんてことはあり得なかったから、驚いたよ」
「トルコでもそれは同じよ。特にこのあたりは、まだまだ保守的なんです。女は家の中で子供を育てるのが仕事、と考えている人が多いの。でもイスタンブールは違います。あの町はヨーロッパに近いから、考え方もヨーロッパ的なの」
「君はスカーフを被っていないんだね」
「母親や祖母はスカーフを被って、花柄のロングスカートをはいています。トルコの伝統的なファッションね。でも私はジーンズの方が好き」
「とても活動的に見えるよ。君に似合っている」
 僕が言うと、彼女の大きめの口から白い歯がこぼれた。チャーミングな笑顔だ。

 

「大学を卒業したら、イスタンブールに出るつもり。この町で生まれたのだから、この町のことは好き。でももっと広い世界を見てみたいんです。うちの両親は絶対に反対するだろうけど」
 将来の夢を語るとき、彼女の大きな目はいっそう大きく見開かれた。女性の生き生きとした表情を目にしたのは本当に久しぶりだったから、こっちまで気持ちが浮き立ってくる。

 僕は「女性は磨かれてこそ美しくなる」という言葉を思い出した。イランの大学生ヤヒヤ君の母親から聞かされた言葉だ。
 彼女はこれからもっと磨かれていくだろう。そしてもっと美しくなるだろうと思った。