アンコールワットは一大産業

ca04-3067 カンボジア随一の名所・アンコールワットを訪れる観光客の数は、ここ数年で大幅に増加した。ドイツ人や中国人も目立っていたが、一番多いのは日本人だった。2003年にカンボジアを訪れた外国人旅行者70万人のうち、日本人が8万8千人を占めて第一位だという。内戦が終結してかなりの年月が流れ、国内情勢も安定してきたので、「カンボジアは安全な国だ」という認識が一般にも広がったのだろう。

 観光客の質もがらりと変わった。今までカンボジアを訪れる旅行者の主流だった若いバックパッカーは目立たない存在になり、団体バスツアーでやってくるお年寄りばかりが目に付くようになった。この傾向は以前よりも遙かに多くのお金がこの土地に落ちるようになったことを意味している。なにしろバックパッカーというのは「いかに節約して旅をするか」が一大任務のような旅行者だからだ。

ca04-3184 観光客の増加に伴って、アンコールワット観光の根拠地であるシェムリアップの町は大きく発展していた。三年前にはひとつも見かけなかった信号機が新しく作られ(守らない人も多いから、効果のほどは疑問だけど)、郊外には高級ホテルの建設ラッシュが続いていた。道のいたるところに大きな穴ぼこが空いていて、そこを走る車が激しい縦揺れに襲われるために「ダンシングロード」と呼ばれていた国道6号線も、舗装が行き届いてずいぶん走りやすくなっていた。

 しかし経済的に発展し、豊かな消費生活が生まれつつある町とは対照的に、郊外の農村には昔と変わらないのどかな田園風景が広がっていた。水田と椰子の木が続く道を、ノロノロとしたスピードで進む二頭立ての牛車。井戸から汲んできた水をバケツに入れて家まで運んでいる子供。死んだように眠っているのか、眠ったように死んでいるのか、見分けのつかないような野良犬。そのような平穏で退屈な光景が延々と続いているのだった。

ca04-3030 モムとレアの住む家もそんな農村の一角にあるのだが、四人の娘のうちレアを除く三人が近くにあるバコン遺跡で観光客相手の物売りをして家計を助けているので、一家の暮らしは付近の農家によりもいくらか豊かだった。家屋は土台にコンクリートを敷いた二階建てだし、家の中には白黒テレビやラジカセなどの電化製品も揃っていた。村にはまだ電気が通っていないのだが、その代わりに各家庭のバッテリーを自家発動機を使って充電する「バッテリー屋」がいて、そこにお金を払って電気を買うというシステムになっているのだ。

 驚いたことにモムの家には携帯電話まであった。発展を続けるシェムリアップの町だけにとどまらず、携帯電話の普及は農村にまで及んでいるのだ。しかし電気も水道も通っていない村の中で、携帯電話を使って連絡を取り合っている姿は、僕の目にはかなり奇妙なものに映った。

 僕らは文明の利器の導入というものを、つい段階的なものとして考えがちだ。たとえば、まず最初に水道が来て、それから電気が来て、冷蔵庫が来て、テレビが来て、コンピューターが来て、携帯電話が来る、というように。しかしカンボジアの農村のように、ごく最近まで昔ながらの暮らしを続けていたところでは、大がかりなインフラを必要としない最新技術から先に普及していくのである。下水道が来る前にVCDカラオケが普及し、電気が通る前に携帯電話で話をする。

 こうした「間に合わせの」電化はあくまでも個人の現金収入に頼ったものだから、その恩恵に預かっている家庭はまだまだ少ないのだけど、アンコールワット観光の発展が農村の経済にまで影響を及ぼし始めているのは間違いなかった。

 
 

アンコールワットの物売りの本音

 シェムリアップに滞在している間、僕は貸し自転車であちこちを回って写真を撮る一方で、毎日のようにモム達の家を訪ね、彼女の仕事場であるバコン遺跡の売店にも顔を出した。遺跡の前には観光客相手の売店が五軒ほど並んでいるのだが、そこに行けば片言の英語を話す女の子が何人かいたし、彼女達を相手に他愛もないお喋りをするのはなかなか楽しかったのだ。

 バコン遺跡はアンコールワットからは十キロ以上離れた場所にあるので、それほどたくさんの観光客が訪れるわけではない。知る人ぞ知る隠れた名所、という扱いなのだ。

 お客が少ないだけに、売店の売り子達の客引き合戦は凄まじいものだった。観光客の姿が遺跡の出口に現れるやいなや、売り子達は100メートル走のスタートダッシュのような勢いで一斉に駆け出していく。ミニバスに乗り込むまでの僅かな時間で商談を成立させなければいけないから、みんな必死なのだ。

ca04-3457 売り子達は右手にコカコーラを持ち、左手にはココナッツを抱えて、お客の元へ駆け寄る。相手が欧米人だと「Do
you want cold drink?」と声を張り上げ、日本人に対しては「オニイサン ツメタイ ノミモノ イカガデスカ?」と話し掛ける。他にもイタリア語、中国語、ドイツ語の挨拶までマスターしているのだからたいしたものである。

 もっとも、物売り達の話す英語のレベルには、かなりのばらつきがある。日常会話を問題なく話せる子もいれば、挨拶と数字ぐらいしか理解できない子もいる。日常会話程度なら問題なく話せるモムにしても、英語での読み書きとなると全くのお手上げである。学校で習ったわけではないからだ。彼女達にとって英語というのは、外国人観光客と交渉する中で身に付けていった職業的スキルなのである。

ca04-3441 売り子の大半はモムのように近所に住む農家の若い娘であり、普段はおとなしい感じの子が多いのだが、いざ商売となったときには圧倒的な押しの強さを発揮する。押して押して押しまくる。買って買って買っての大合唱である。しかしそのような懸命の売り込みにもかかわらず、観光客の財布の紐はなかなか堅く、売り上げは伸び悩んでいるようだった。

「売り上げのほとんどは1200リエル(40円)のココナッツ・ジュースか、1000リエルのミネラルウォーターなのよ。これってもともとが安いものだから、あまり儲からないの」
 と教えてくれたのはリナという女の子だった。二十一歳のリナは売り子仲間の中でも一番元気がよく、一番流暢に英語を話すことができた。

ca04-3334「このバコン遺跡はアンコールワットから離れた場所にあるでしょう。だから旅行者がやってきたとしても、ほとんどが最終日なのよね。みんなお土産は既に買っているから、ここでは何も買わないのよ」
 リナはそう分析する。彼女の言う通り、ここに来る観光客は既に他の遺跡で物売りの洗礼を充分過ぎるほど受けているので、物売りを軽くあしらう術を身に付けてしまっているようだった。

「ほかの場所で商売するわけにはいかないのかい?」
「それはダメね」とリナは首を振る。「アンコールワットに行けば、もっとたくさん売れるってことは知っているのよ。でも私の家はこの近くだし、ここで商売をするしかないのよ」
 リナによると、売店をどこに構えるかという縄張りのようなものは既に決まっていて、今から変えるのは難しいということだった。

 しかし売り上げが伸びない原因は、場所の悪さだけではないように思う。アンコールワットの観光開発が進み、大きな利潤をもたらすようになったにもかかわらず、遺跡の周りの売り子達が売る土産物は以前とまったく同じものなのだ。遺跡のシルエットがプリントされたセンスの悪いTシャツ。どうやって使ったらいいのかわからない竹の笛。質の悪い絵はがき・・・。よほどの物好きか、押しに弱い人でなければ買わないだろうというチープな品々ばかりである。

ca04-3652「これはどこで仕入れてくるの?」
 僕はリナがいつも右手に抱えている「クロマー」という名前のカンボジア式スカーフの束を指さした。彼女には悪いけれど、生地もデザインもいかにも安物臭いものだった。

「シェムリアップの市場で買ってくるのよ」
 リナは青マンゴーの細切りを囓りながら、ぶっきらぼうに言った。スカーフの売値は一枚一ドルだが、卸値はもっと安いという。しかし「安かろう、悪かろう」が通用するのはお金のないバックパッカーに対してだけであって、今やアンコールワットを訪れる大部分は、安さよりも質の良さを求めている裕福な観光客なのである。その辺を考えて売り物を工夫すれば、まだまだ売り上げが伸びる余地があるように思う。実際、シェムリアップの町には、質の良いシルクを使った服を売る店や、手の込んだ民芸品などを高めの値段設定で売る店もちらほら現れているのだ。

「それはわかってるのよ」とリナはため息をついた。「だけど私には何もできないの。シェムリアップで仕入れてきた品物をここで売る。それが私の仕事なの」
 売れ行きが芳しくないことはわかっているけれど、末端の売り手であるリナが現状を変えることは難しい。今のところ彼女にできるのは、作り手の意識が変わるのをじっと待つことだけなのである。

 
 

カンボジア恋愛事情

ca04-3305 物売り達は十代後半から二十代の女の子ばかりだったが、ボーイフレンドがいる子はほとんどいない。恋愛に関してはまだまだ保守的なのである。リナとその姉妹にも今のところ恋人はいないという。

「姉さんにはいたんだけど、最近別れちゃったのよ」
 リナはそう言うと、小さなフォトアルバムを持ってきて僕に渡した。そこには色白でハンサムな若者が写っていた。

「これが姉さんの恋人だった男。顔だけはまぁ悪くないんだけど、性格がひどいの。姉さん以外にもたくさんのガールフレンドがいたらしいの。それがわかったんで別れたの。今までだって何人もの女の子が泣かされてきたのよ。本当に腹が立つわ。今度あいつを見かけたら、このナタで首をちょん切ってやるんだから!」
 リナはココナッツを割るための大ぶりのナタを振り上げながら叫んだ。姉のことなのに、まるで自分が裏切られたみたいな勢いである。またそういうことになると実によく喋る。聞いている方もついつい引き込まれてしまう。

 リナは何でも思いついたことを口に出さないと気が済まないタイプの女の子で、「あの日本人のおばさんは私の方を見ようともしない」とか、「あの太ったドイツ人はさんざん値切ったくせに、結局何も買わなかった」といったような仕事の愚痴も隠すことなく聞かせてくれた。リナとしても観光客相手に観光客の悪口を言うなんて機会は滅多にないから、僕との会話を楽しんでいるみたいだった。

ca04-3289「リナは本当によく喋るね」と僕は感心して言った。「君の性格は物売りにぴったりだと思うよ。ほら、モムは静かな女の子だろう? 彼女とは正反対だね」
 しかしその言葉を聞いた途端、リナは喋るのを止めて、ぷいとそっぽを向いてしまった。何故かはわからないが、僕の一言が彼女を怒らせてしまったらしい。

 リナは良くも悪くも感情がすぐに表情に出てしまう女の子である。お客が売り物を買ってくれたときには愛嬌たっぷりにニコニコと笑っているのだが、客からあからさまに無視されると、頭痛と生理痛と歯痛が一緒にやってきたような表情で店に戻ってくるのだった。そして今はまさにその「不機嫌モード」を全開にして僕を無視しているのである。

 僕はリナの機嫌を取るのを諦めて、ほとぼりが冷めるまで近くの村に写真を撮りに出かけることにした。怒りっぽい女の子は忘れるのもまた早い、という経験則を思い出したからだ。しかし夕方になってリナの店に戻ってみても、彼女の怒りはまだ収まってはいなかった。どうやら機嫌を直すのに時間がかかる性格らしい。

「まだ怒っているの?」と僕はリナの背中にそっと声を掛けた。
「誰が怒っているのよ?」
 リナはそっぽを向いたまま言った。やっと口を利いてくれたので、僕はほっとした。
「さっきからずっと僕のことを無視してるじゃないか」
「それはね、誰かさんが『リナはよく喋る子だ』なんて言ったから、その誰かさんとは喋らないことに決めたのよ。誰かさんはよく喋る子が嫌いみたいだから」
 彼女はいつもの早口でそうまくし立てると、またそっぽを向いた。それを見て、僕は思わず吹き出しそうになった。本当に感情がストレートな子だ。

ca04-4189「それは誤解だよ。リナはよく喋るけど、それが悪いなんて言ってない。ただモムとは違うって言っただけだよ」
「でも、あなたはよく喋る私よりも、あまり喋らないモムのような女の子が好きなんでしょう?」
「そんなことはないよ。君と話しているのは楽しい。だからこうやっていつも話しに来ているんじゃないか」
「嘘よ。みんな『お前は喋りすぎだ』って言うのよ。お前はそこを直さなきゃいけないって」
「そんなことはない。リナの話は面白いよ」
「それに私、日本の女の子みたいに綺麗じゃないもの。売り子をしていたらわかるわよ。日本人はみんな肌が白くて綺麗よ。それに比べて私は醜いわ。みんなそう言うの」
「誰がそんなことを言うの?」
「男友達がそう言うの。それで私傷ついているの」
「君は全然醜くなんてないよ」
 僕が見る限り、リナは美人とは言えないけれど、個性的でチャーミングな顔立ちをしている。全然醜くなんてない。

ca04-3779「本当に?」
「本当に」
 リナの表情が急に明るくなった。そして上目遣いで僕を見上げた。
「だったら、あたたは私のことを愛してくれるのね? そうでしょ? ドゥー・ユー・ラブ・ミー?」
「アイ・ライク・ユーだよ」
 僕は少しうろたえて言った。
「ラブじゃないの?」
「君のことをまだよく知らないからね」
「そんなの関係ないわ。やっぱりあなたも心の中では私を醜いと思っているのね。男なんてみんな嘘つきよ! こうなったらこのナタであなたの喉をちょん切ってやる!」

 リナはそう叫ぶと、再び手に持ったナタを大袈裟に振り上げた。僕が慌てて逃げ出すと、「待ちなさい!」と言いながら追いかけてきた。他の売り子達は僕らのやり取りを見て大笑いしている。大騒ぎして気が済んだのか、リナの顔にもようやく笑顔が戻る。
 こうして僕らは仲直りの握手をしたのだが、リナは最後まで悪態をつくことを忘れなかった。
「ふん。男なんて大キライ!」