ne04-2340 マオイストの青年バサンタが持っていたのは小さなショルダーポーチひとつだけだった。その中にはマオイストの指導者が書いたという分厚い本と、手製の手榴弾が入っていた。
「僕は戦闘員ではないけれど、政府軍がいつ襲ってくるかわからないからね。自分の身を守るためにいつもこれを持っているんだ。もちろん大きな破壊力がある。今ここで爆発させれば、君も僕もそこにいる水牛もみんな死んでしまうだろうな」

 彼はポーチの中から手榴弾を取り出して、テニスボールでも扱うような気軽さでひょいと僕に手渡した。それはキウイフルーツほどの大きさで、小さいながらもずっしりとした重みがあった。水道管らしき金属製の管を繋ぎ合わせて、緑色のビニールテープを貼り付けただけのシンプルな爆弾である。バサンタと一緒に行動している戦闘員の男(結局彼は一言も話さなかった)は手榴弾二つの他に、刃渡り十五センチほどの短剣を腰に差していた。戦闘時にはマシンガンも携帯するという。

 しかし、バサンタは「命懸けの武装集団」というテロリストのイメージとはかけ離れた男だった。最初の口振りこそ高圧的でシリアスだったが、しばらくすると笑顔を交えながら話をするようになった。たぶん最初は彼の方も僕の存在に戸惑い、緊張していたのだと思う。このような取り立てて特徴のないトレッキングルートからも外れた村で、外国人に出くわすなんて思ってもみないことだったのだろう。

ne04-0931 僕が見る限り、バサンタはごく普通のネパールの若者だった。どちらかというと気が弱そうにも見えた。彼が「我々を助けてはもらえないだろうか?」と遠慮がちに寄付を求めてきたことがあったのだが、僕が即座に「ノー」と答えると、「アイム・ソーリー。気にしないでもらいたい」と言ってすぐに諦めてくれた。通行料という名目で半ば強制的に外国人からお金を取るマオイストもいるらしいのだが、バサンタにはそういう押しの強さはなかった。

 たぶん断られるだろうと思いつつ、「君の写真を撮ってもいいだろうか?」と訊ねてみたときも、彼はかなり考え込んだ末に「うーん、それはダメなんだ。アイム・ソーリー」と申し訳なさそうに言った。撮られた写真が政府軍の手に渡れば大変なことになるわけだから、彼が断るのはむしろ当然なのだが、それでも「アイム・ソーリー」と謝ってしまうところに彼の気の弱さと人の良さが表れているような気がした。

 彼はネパール西部にあるという故郷の村のことを懐かしそうに話した。
「とても貧しい村だけどね、収穫の頃には田んぼの稲穂が黄金色に輝くんだ。美しい眺めだよ。でもこの三年間故郷には一度も帰っていないし、この戦いが終わるまで帰ることはないだろうな」

ne04-0948 マオイストと政府軍との戦いが今後どのように決着するのかはわからない。しかしマオイストが単なる少数のテロリストではなく山岳部を広範囲に渡って勢力下に収めている武装ゲリラである以上、この混乱が当面は続くのではないかと思われる。

 ひとつはっきりしているのは、争いが長引けば長引くほどネパール経済が停滞するということだ。これといった輸出品のないネパールにとって観光収入は重要な外貨獲得源なのだが、「テロリストが跋扈する危険な国」というマイナスイメージによって、外国人観光客の数は二年前の約半分にまで激減しているのだ。

 都市部では大規模なゼネストも頻発していて、それが経済の混乱に拍車をかけている。また地方の村々では、道路や電力といった政府主導のインフラの普及がマオイストの妨害を理由にストップしている。マオイストは「農村と都市との貧富の差の解消」を謳い文句に台頭してきたのだが、皮肉なことに彼らの存在自体が貧富の差を拡大する原因になっているのだ。

 教育事情も悪化している。マオイストは金持ちしか通えない私立学校の存在を敵視していて、地方にあるハイスクールを次々と閉鎖に追い込んでいるのだ。そのようなマオイスト支配に嫌気がさして、田舎から首都カトマンズに逃げ出す人も続出している。

ne04-0995「ネパールにとって、今はとても暗い時代です」と医者のヤンバハドゥールは悲しそうに言った。「ラジオや新聞はマオイストと政府軍がお互いを何人殺し合ったかというニュースばかりです。分厚い雲によってエベレストの頂が隠されてしまうように。今の私たちには未来が見えないんです」

 僕とバサンタは道端の石垣に座って一時間ほど話をした。晴天に恵まれた穏やかな午後だった。僕らの目の前を山羊の群れを連れた老婆や、井戸から汲んできた水を運ぶ少女が無言で通り過ぎていった。そのような命のやり取りをする危険とはおよそ対極にある平穏な日常の中で、バサンタの革命の話はとても遠くの国の架空の出来事のように響いた。それは「悪い王様がいい王様に倒され、領民はその後幸せに暮らしました」というような古いおとぎ話のようにリアリティーがなかった。共産主義でも共和制でも王政でも、どんな政治形態になろうとも農村が農村であることに変わりはないし、農民の日常生活が大きく変化することはないだろう。僕にはそのようにしか思えなかった。

ne04-4058 しかし、マオイストによる武装闘争と人民革命が古いおとぎ話などではないことは、バサンタの手に握られた手榴弾を見ればわかる。その金属の塊が放つ鈍い光と、ずっしりとした重みはとてもリアルなものだった。何かの拍子でこれが爆発したら、彼も僕も老婆も山羊もこの場にいる全員が一瞬にして吹き飛んでしまうのだ。彼らはその力を使って政府軍と戦っているし、これからもその戦いを続けようとしている。手榴弾の持つ重みは、彼の手の中にあるただ一つの確かなものなのだ。

ne04-0588「マオイストのことをわかってもらえただろうか?」
 バサンタは別れ際に僕に訊ねた。
「半分はわかる。けれど半分はわからない」
 僕は正直に言った。
「それで十分だ」と彼は言って笑った。「君と話が出来て良かったよ。よい旅を」

 彼は右手を差し出し、僕はそれを握り返した。最後に何という言葉をかけるべきなのか迷ったが、結局僕はありきたりのフレーズを口にした。
「グッドラック」
 バサンタはにっこりと笑って、森の方へ歩き始めた。