1859 日が沈んで暗くなると眠り、鶏の声で目を覚ます──ラオスを旅していると、誰もがこんな健康的な生活を送るようになる。実際、僕も毎晩9時には床に就き、毎朝6時には目を覚ました。発電所からの送電がストップする夜9時以降は、部屋の明かりも消えてしまうから眠るしかないのだ。
 唯一眠りを邪魔するのは、天井に張り付いてキーキーと気味の悪い声で鳴いているヤモリだったが、それも慣れてしまえば気にならなくなった。

 ベッドから起き上がって、窓を開け、大きく伸びをして肺の奥にまで新鮮な空気を送り込んだ。ヤモリは天井に張り付いたまま、じっと息を潜めている。さて、今日は何をしようか、と天井のヤモリに聞いてみたが、もちろん返事はなかった。

 宿のオーナーは「ノンキャウに行きたいのなら、俺の車で送ってやろうか?」と言ってくれたが、結局僕はこのナンバに留まることにした。勘違いから偶然に辿り着いた村だったが、風に吹かれる木の葉のような成り行き任せの感覚を、どこか心地良く感じてもいたのだ。
 目的もなく、予定もない。だけど、これが旅ってものじゃないか。そう考えると、自然に足取りが軽っていくのだった。

 僕はまず、朝食を食べるために、市場の前にある村唯一の食堂に入った。食堂の壁には「コンドームで明るい家族計画を」という図柄のポスターが張られていた。あまり食堂にはそぐわない気もするのだが、中には麺をすすりながら「やっぱり子供は二人にしとくか」と考えるラオス人もいるのかもしれない。

 

1898 しかし僕の見る限り、ラオス政府の進める家族計画の成果はあまり上がっていないようだった。北ラオスでもベトナムやカンボジアなどと同様に子供の数がとても多く、貧しい地域ほどその傾向が顕著になった。平均すると5人きょうだいというのが、一般的な農村の家族構成だった。

 朝食を食べ終わると、両替のために銀行へ向かった。ナンバのような田舎の村にも、ちゃんと銀行があること自体驚きなのだが、その中は予想通り田舎の無人駅のようにがらんとして、客は誰一人いなかった。為替レートを表示する黒板には、ドル以外にもユーロやマルクやフランのレートも書かれていたが、こんなところでユーロを両替する必要のある人間がいるのかは疑問だった。

 僕が「現金20ドルを両替したい」と言うと、行員はまずパスポートを確認し、名前や住所を申請書に書かせた上で、二種類の鍵を使って重そうな金庫の扉を開け、中からラオスキップ札を取り出した。たった20ドル両替するだけなのに、ずいぶん大袈裟である。それとも単に暇なだけなのだろうか。

 10ドル札2枚は2000キップ札80枚に化けた。僕はその分厚い札束をポケットにねじ込んで、銀行を出た。ラオスはインフレーションが進んでいるから、財布はほとんど役に立たないのだ。

1918

 

田植えの速さは年齢に比例する

 村からまっすぐに延びた道をしばらく歩くと、田植えをしている女達の姿が見えてきた。この辺りの田んぼのほとんどが、まだ枯れたままになっていたから、かなり早い田植えである。水に恵まれているのか、あるいは土が違うのだろうか。

1832 田植えは機械の力を借りず、全て手作業で行われていた。水牛に犂を引かせて土をおこした田んぼに、20人ほどの女性が入り、苗を一株づつ手で植えていく。腰を90度曲げるきつい仕事だが、彼女たちはそれを忘れるように陽気な歌をうたい続けていた。田植え作業の速さは年齢に比例するものらしく、年配のおばさんが若い娘の倍ほどのスピードで、どんどん苗を植え込んでいた。年の功というやつだ。

「どうだい、今日はもうこれだけ植えたんだよ」
 おばさんが誇らしげに、僕に向かって手を広げてみせる。隣にある二枚分の田んぼは、既に規則正しい稲の列で埋まっていた。きっと早朝から、集落の女性が総出で植えているのだろう。

 僕はあぜ道にしゃがみ込んで、苗が植えられる様子を黙って眺めた。しばらくすると、山間に立ちこめていた霧が少しずつ晴れ、水田の表面が日光を浴びて白く輝き始めた。女達の田植え歌は、薄れつつある霧の中に柔らかく溶けていくようだった。

 

 

竹で編んだポシェットの中身は?

1801 つつましい生活──それがラオスの山村を歩いていて、最も強く感じたことだった。峻険な山に囲まれた痩せた土地では、田畑から得られる作物にも限りがある。だから人々は山や川に分け入って、燃料や材木や動物の肉を得ている。彼らは文字通り、自然と共に暮らしているのだ。

 「川海苔作り」は農家の軒先でよく見られる光景だ。子供達が近くの川で採ってきた川海苔を、母親がざるの上に敷いて、木の棒で何度も叩いて伸ばしていく。座布団ぐらいの大きさにまで伸ばしたら、粗塩を振りかけて天日で乾かす。市場ではこれを一枚1000キップ(15円)で売っていた。塩味が強いことを除けば、味も匂いも日本の海苔とほとんど同じである。宿のオーナーは「こいつはラオラーオ(焼酎)によく合うんだ」と言っていたが、確かにつまみには良さそうだった。

 少数民族の「モン族」や「ランテン族」の集落では、ほうき作りが盛んだった。ほうき作りは年老いた女の仕事である。お歯黒をした老婆が、山奥で集めたススキを担いで山道を下ってくる。もちろん車やバイクなどは使わない。全て歩きである。山岳民の女は、年齢を問わず誰もがよく歩く。採ってきたススキは家の前に干し、煙でいぶした後、手で束ねて一本のほうきにする。単価も安いだろうが、元手もタダである。

 ラオスでも女性は働き者だった。10歳そこそこの少女が幼い弟や妹の面倒を見る光景は、どの家でも見られた。もう少し大きくなると、畑に出て仕事を手伝ったりもする。彼女たちは、竹で編んだポシェットを肩から下げたお揃いのスタイルで畑に向かう。

 僕は歩いてきた少女の一団に「サバイディー(こんにちは)」と声を掛け、「その中には何が入っているの?」と籠を指差した。外国人が突然話しかけてきたので、少女達はびっくりして目を丸くしていたが、僕が覚えたてのラオス語をいくつか披露すると、表情が少し和らいだ。なんとか「このガイジンは危険ではない」ということを理解してもらえたようだった。

 

1812

 竹のポシェットの中に入っていたのは、一本のナタだった。少女は全部で5人いたのだけど、5人ともナタしか持っていなかった。「これは何に使うの?」と身振りで訊ねると、すげ笠を被った14、5歳の少女が、「畑の雑草を刈るのよ」と教えてくれた。

 女の子らしいもののひとつでも入っているかと期待していたのだけど、彼女たちの所持品は極めて実用的なものだった。もちろん、ポシェットの中身が携帯電話や化粧道具やシステム手帳や生理用ナプキンであるとは思っていなかったが、しかしナタである。ところ変われば、女の子のバッグの中身も変わるものなんだな、と僕は思った。

 

 

一度でいいから、海が見てみたい

1914 ありていに言えば、彼らは貧しかった。家の中にあるのは最低限の炊事道具ぐらいで、余分なモノはほとんど持っていなかった。
 しかし何はともあれ、人々はその中で逞しく生きていた。女達の働く姿はいつでも力強く、子供達のはにかんだ笑顔の中には、まだ何ものにも邪魔されない純粋な輝きのようなものが見えた。それは時として、とても眩しかった。

 生まれたときからモノに囲まれて育ってきた僕らの世界と、生まれたときからモノのない生活を送っている彼らの世界は、明らかに違っていた。でもそれは、どちらか一方が幸せで、もう一方はそうではない、と単純に言い切れるものではない。僕に言えるのは、「そこに違いがある」ということだけである。

 もちろん、現代文明から遠く離れたラオスの奥地であっても、グローバル化の波と無関係ではない。テレビやビデオCDを持つ家が増えているのは事実だし、それに伴って外の世界から入ってくる情報の量も増えていく。それが彼らの伝統的な生活スタイルを少しずつ変えていくのは、間違いないだろう。

 モン族の集落でも、民族衣装をきちんと身につけているのは年輩の人ばかりで、若い人たちはTシャツやジャージのような動きやすい格好を好んで着ているようだった。中には「ピカチュウ」がプリントされたシャツを着ている女の子もいた。

 僕を自分の家に招いてくれたソンフォー君の部屋の壁にも、ブロンド美女のピンナップポスターが貼ってあった。黒い下着だけの姿で挑発的な視線を投げかける金髪モデルの写真は、ラオスの小さな木造家屋の薄暗い部屋には全くそぐわないようにも見えたが、異文化というものは案外こういうところから入り込んでくるのかもしれないな、とも思った。

「これは兄が貼ったんです」
 ソンフォー君は恥ずかしそうに言い訳した。僕より5歳年下のソンフォー君は、首都ビエンチャンのハイスクールで学んだことがあり、今は農業事務所に勤める公務員だということだった。英語を話せるソンフォー君は、この村ではかなりのエリートだと思われるのだけど、つつましい暮らしぶりは他の家と変わらなかった。二間しかない小さな家に、義理の兄弟を含めた15人が住んでいるのだという。ものすごい人口密度である。

 

1805 僕がこれからビエンチャンに行く予定だと言うと、彼は棚の中から一冊の古びた本を探し出して、僕に渡した。それはラオスの伝統文化を紹介した英語のガイドブックだった。
「これを持っていってください。きっと役に立つでしょう」
 大切な本をもらうわけにはいかないよ、といったんは断ったが、彼はあなたに使って欲しいのだと言って、半ば強引に僕のバッグに入れてしまった。モノが少ないにもかかわらず、彼はモノを所有することにこだわらない。モノをたくさん持っている僕らの方が、むしろモノに執着しているのかもしれない。

 夕方になると、ソンフォー君が上司の家で開かれる宴会に誘ってくれた。僕はルアンナムタでの新築祝いの時と同じように、乾杯に次ぐ乾杯でもてなされ、ビールと焼酎をたらふく飲むことになった。ラオス人は本当に宴会好きで、もてなすのが好きな人々のようだった。そしてここでも、人々は歯を使ってビール瓶を開けていた。この習慣は村落を越えて、広く伝わっているものらしい。

「ねえ、君が一番欲しいものは何?」
 宴会から帰る道すがら、僕はソンフォー君に訊ねた。
「欲しいものですか・・・」
 彼は少しの間考え込んだ。
「欲しいものというのはあまり思い浮かばないけど、僕もいつかあなたみたいに外国を旅してみたいですね。これは叶わない夢かもしれませんが」

「じゃあ、もし行けたとしたら、まずどの国に行ってみたい?」
「そうだなぁ、外国ならどこでもいいですね。でも、一度でいいから海が見たいな。知っていますか? この国には海がないんです」

 彼はそう言って、空を見上げた。いつものように、澄み渡った夜空には無数の星々が輝いている。でも、彼が今見ているのは満天の星空ではなく、想像上の海なのだろう、と僕は思った。