ミャンマーの観光スポットは4カ所に限られている。首都のヤンゴン、第二の都市マンダレー、バガン遺跡、インレー湖、の4つである。それ以外の町に行けないわけではないのだが、交通機関も宿泊施設も整ってはいないから、訪れる旅行者は少ない。
ターズィは、この「ツーリスト・スクエア」と呼ばれる4カ所のちょうど真ん中に位置して、交通の要衝となっている町である。しかし、さしたる見所があるわけでもなく、地図を見て何となく思い付きでやってきたような旅人――つまり僕のような人間――以外は、まず誰も訪れないような町だった。
そんなターズィの町にも、外国人旅行者が泊まれる宿は一応ある。「ワンダフル・ゲストハウス」は、中国人のおかみさんと彼女の母親が切り盛りする安宿で、部屋は全部で十ほどあるのだが、泊まり客は僕だけだった。
「確かに、この町には鉄道の駅があるんだけど、みんな素通りして行っちゃうのよ」とおかみさんは言った。
みんなが素通りする町――ターズィとは、要するにそういう町なのだ。
ターズィには一泊だけして、またバスに乗って移動するつもりだったから、次の朝僕は「午後のバスの時間までには帰ってくるから」とおかみさんに言って、自転車を借りた。
お祭りへの長い道のり
町を出て、どこへ行くともなく田舎道を走っていると、子供達の健康診断を行っているパゴダがあった。仏像の前に白衣の医者が座り、上半身裸の男の子達が20人ほど列を作っていた。
ミャンマーの健康診断は、日本のやり方とはかなり違っていた。医者は身長体重を計ったり、聴診器をあてて心音を聞いたりはしない。その代わりに、子供の胸骨の辺りをぽんぽんと叩いたり、お尻をペロンとめくってつねったり、両腕を後ろに引っ張ったりした。お尻をつねることが何の状態を調べることになるのか、僕にはもうひとつわからなかったが、医者は「ふむふむ」という様子で記録用紙に何かを書き込んでいたから、おそらく意味のある行為なのだろう。
一見すると、いい加減なようにも見えた健康診断も、実はWHO(世界保健機構)が行う全ミャンマー人を対象にした健康調査の一環として行われているものだった(という説明書きを医者が見せてくれた)。もっとも、子供達はみんなよく日に焼けていて、とても健康そうに見えたけれど。
「あんた、この村に何しに来た?」と医者が英語で聞いた。
「たまたま通りかかっただけです」
「この先の、シェーズージィー・パゴダで、お祭りをやってる。あんた、行くか?」
「どこですか?」
「あっちだ」と医者は指さした。「自転車ですぐに行ける。ここから2マイル」
2マイルはおよそ3kmだから、自転車だと15分もあれば辿り着けそうな距離である。祭りと聞いて、行かない手はない。僕は医者に礼を言って、彼が指さした方向に向けて自転車を走らせた。
ところが、30分走ってもそれらしいパゴダは現れなかった。途中いくつかのパゴダの横を通り過ぎたが、どこも閑散としていて、祭りをやっている様子などなかった。道を間違えたのか、それとも医者の勘違いなのか。諦めて帰ろうとする頃になって、後ろからバイクに乗った男がやってきた。
「おーい、あんたどこ行くんだ?」男はカタコトの英語で聞いた。
「シェーズージィー・パゴダで、お祭りがあるって聞いたんだけど」
「おー、シェーズージィーな。すぐ近くだよ。ここから4マイル」
さっきは2マイル先だって言われたのに、さらに4マイルも先だって? ミャンマー人の距離と時間感覚は、一体どうなっているんだろう。
「ほんとに近くですか?」
「あー、近くさ。自転車なら30分だ。この道をまーっすぐ行けばいいさ」男は自信たっぷりに言うと、バイクで走り去っていった。
ところがそれから30分経っても、目的のパゴダには辿り着かなかった。それどころが途中で自転車の前輪がパンクしてしまい、自転車を押しながら歩く羽目になってしまった。
30分の間にすれ違ったのは、トラック3台と牛車10台。一本道の両側には雑草だらけの乾いた畑が延々と広がるのみ。空には雲ひとつ無く、日差しは強烈で、汗が止めどなく吹き出てきた。
「いい加減な医者の言葉を簡単に信用した俺が馬鹿だったんだ」などとぶつくさ独り言を言いながら歩いていると、一軒の路上カフェが現れた。店主に聞くと、自転車の修理もやってくれるという。
捨てる神あれば、拾う神あり。パンクする自転車があれば、修理屋も必ずある――これはアジアの町を自転車で走った僕の経験則だったのだが、この法則はミャンマーでも健在だったのだ。
「あんたどこ行く?」と店主が身振りで聞いた。
「シェーズージィー・パゴダですよ」
僕はやかんに入ったお茶を、がぶがぶと飲みながら答えた。
「シェーズージィーかい?」彼はそれは大変だという顔をした。「ここから5マイル先だ」
「・・・5マイル?」僕は乾いた声で聞き返した。
「そうだ」と彼は頷いた。
どうやらシェーズージィー・パゴダは、逃げ水のようにどんどん遠ざかっていくらしい。
それでも僕は諦めなかった。こうなったら意地でもシェーズージィー・パゴダに辿り着いてやる、と決意を新たにした。
そして路上カフェから自転車を漕ぐこと30分。やっと目的地に近づいてきたとわかったのは、道を行く牛車の数が増え始めたからだった。この辺りの農民は、みんな牛車に乗ってお祭りに向かうのである。お父さんが幌付き牛車の手綱を握り、女子供は荷台でごとごと揺られる。その姿は西部の街へ向かう「大草原の小さな家」のインガルス一家みたいだった。
真田広之は千葉真一の弟子?
シェーズージィーのパゴダ祭りは、予想以上に大がかりなものだった。まず驚いたのが、牛車の数だった。500台、あるいはそれ以上の牛車と雄牛とが、会場の周囲をぐるりと取り囲んでいるのだ。そしてそれぞれの牛車の周りには、鍋や食器が並べられ、煮炊きをする煙が上がっていた。
「シェーズージィーのパゴダ祭りは一週間続くからね。食べ物も持ってくるんだ」と説明してくれたのは、麦わら帽子を被ったチュンウェイという中年の男だった。「今日は祭りの3日目だから、盛り上がりはまだまだだ。最後の日には、この何倍もの人が集まるからね」
ハナンカンという村からやってきたというチュンウェイさんは、農家の出身ながら独学で英語を勉強したという。すごいですね、と僕が言うと、俺は勉強が好きなんだ、と笑って言った。僕がターズィの町から自転車でここまでやってきたんだと言うと、彼は目を丸くした。
「だってあんた、ターズィから10マイルはあるだろう?」
僕が「すぐ近くだよ」と言われ続けながら、1時間以上かけてやってきた経緯を話すと、彼は「ミャンマー人は、いい加減な奴が多いからな」と同情してくれた。
チュンウェイさんの一族は、3台の牛車に分乗して祭りに来ていた。昼下がりのミャンマーはとにかく暑いので、人々は木陰で昼寝をしたり世間話をしながら、日が傾くまでの時間をのんびりと過ごしていた。僕は昼食に作ったのだという魚のカレーをご馳走になり、デザートにスイカまで出してもらった。
「あんたの顔はデューク・サナダに似ているって、ワイフが言っているんだ」とチュンウェイさんが言った。
「誰ですか? それ」
「知らないのか? 映画に出てるデューク・サナダだよ。サニー・チバの弟子だ」
サニー・チバこと千葉真一なら僕も知っているが、彼の映画は一度も見たことがないし、もちろんデューク・サナダなんて弟子がいることも知らなかった(後でわかったことだけど、デューク・サナダというのは真田広之のことらしい。もちろん僕は真田広之似ではない)。意外なことに、ミャンマーで一番知名度がある日本人はサニー・チバだった。さすがは国際派スターである。
「私達のハナンカン村には1500人が住んでいるんだが、テレビは2台しかないんだ」
とチュンウェイさんは言う。その2台も誰かの個人所有ではなくて、村人が集まって見るためのものだということだった。そこで上映されているのが、古い香港アクションやサニー・チバの映画なのだ。
村にテレビが2台しかないというのは驚きだった。というのも、首都のヤンゴンやバガンの街を歩いた限りでは、ミャンマーは思ったよりモノが豊富で、ラオスやカンボジアよりも豊かな国ではないかという印象を持っていたからだ。でも、それはあくまでも町の中の話であって、農村の生活はとてもつつましいもののようだった。そこではトラックの代わりに牛車が走り、テレビはまだ個人の手には届かない存在なのだ。
ミャンマーは思いのほか自然環境の厳しい国である。特に中部地方は、死者まで出るという夏の酷暑と、慢性的な水不足に悩まされていて、暮らし向きは決して楽ではない。
「だからこのパゴダ祭りは、一年で一番の楽しみなんだよ」とチュンウェイさんは言った。
人気アトラクションはビデオ館と写真館
年に一度のパゴダ祭りを一番楽しみにしているのは、やはり子供達だった。女の子はこの日のためにおろした新しいワンピースを着て、リボンの付いた 帽子をかぶり、入念に白粉と口紅を塗っていた。僕がカメラを向けると、記念撮影と勘違いしたのか、きちんと整列して表情を硬くする姿が、なんともおかしかった。
子供達にとってお祭りは、お小遣いを貰って好きなものを買える特別な日なので、屋台の中にも子供の気を引くような駄菓子やおもちゃを売る店が目立った。女の子に人気なのは着せ替え人形、男の子はおもちゃの鉄砲やミニカーに群がっていた。
仏像や聖人のポスターなどの仏教グッズを売る屋台も繁盛していた。あのポッパ山の親分「ボー・ミン・ガウン」氏も、ここではキムタク並みのアイドル的人気を誇っていた。
農家の女達が作ったゴザや籠などを産地直売する店や、牛車用の車輪や車軸などのメンテナンス用品を並べている店(さながら牛車の「オートバックス」だ)など、祭りとは直接関係ない店もたくさん出ていた。
祭りには、いくつかのアトラクションも用意されていた。大きなスピーカーで客を呼び込んでいるのは、映画館ならぬビデオ館だった。客は入場料50チャット (12円)を払い、ゴザの上に座ってテレビドラマを見る。ただそれだけなのだが、チュンウェイさんが話してくれたように、この辺りの農村にはテレビが全く 普及していないから、テレビを見るのも貴重な娯楽なのだ。
部屋の中央に据えられた17インチのブラウン管に映し出されるのは、都会的な生活を送る男女の恋愛ドラマ、つまりミャンマーのトレンディードラマだった。登場人物達は、リーバイスのジーンズを履き、スポーツカーに乗り、スーパーマーケットで買い物をしていた。ドラマよりも、そういう「憧れの都会生活」 を描き出すことに重点が置かれているようだった。まるで資本主義のプロパガンダ映画みたいだった。
ビデオ館の隣は写真館になっていた。テレビと同様に、個人でカメラを持っている人はまずいないから、こういう場所でハレの衣装を着て、記念写真を撮ってもらうのである。写真館の中にはホンダの 中古バイクが二台並んでいた。高嶺の花であるモーターバイクにまたがる姿を写真に撮ってもらうのだろう。
バイクの他にも、様々な背景が用 意されていた。イチョウ並木やロンドンのビッグベンなど、異国情緒を感じさせる書き割りもあったが、謎だったのが牛車である。本物の牛車がこの近くに何百 台と止まっているというのに、わざわざ学芸会の大道具のような安っぽい書き割りの牛車に乗って、写真を撮る必要がどこにあるのだろう? ちなみに写真一枚 の値段は、サービス版大で100チャット(24円)ということだった。
アトラクションの中で一番人気があるのは、毎晩夜の9時から夜通しで行われるというダンスショーだった。まだ日の高いうちから、場所取りの人が何人も座っているほどの人気である。チュンウェイさんも「ダンスショーはぜひ 見ていきなよ」と言ったのだが、日が暮れるまでには宿に帰っておきたかったので、諦めることにした。
村のサッカー大会になぜ軍人がいるのか
パゴダから少し離れた広場では、村対抗のサッカー大会が行われていた。これも祭りの呼び物のひとつで、一応スタジアム(といっても原っぱを高さ2mほどのついたてで囲んだだけのものなのだが)があって入場料(10円)を取る。
僕がチュンウェイさん一家と試合会場に入ったときには、ゲームは既に始まっていた。黄色いユニフォームがカミュ村代表チームで、ブルーがイングナー村チームだった。
「ミャンマーで一番ポピュラーなスポーツは、サッカーなんだよ」とチュンウェイさんは言った。しかしその言葉とは裏腹に、試合のレベルはかなり低いように見えた。30度を超える暑さのせいもあるのだろうが、選手達の動きは緩慢で、シュートにも力がなかった。でも自分の村を応援する観客にとっては、プレーの質は あまり問題ではない様子だった。
驚いたのは、軍服姿でライフル銃を肩に下げた男達が、フィールドの外を巡回していることだった。
「どうして軍人がいるんですか?」と僕がチュンウェイさんに訊ねると、彼はしーっと口に指をあてた。
「このサッカーの試合は、軍隊が主催しているものだからね」と彼は僕の耳元で囁いた。「審判も全員軍人なんだ。だから銃を持った兵士もいるんだよ」
しかし、ワールドカップ予選とか南米のプロリーグじゃあるまいし、観客が熱狂のあまり暴動を起こすようなことは全く考えられなかった。何しろここで一番熱狂的な応援をしているのは、シュートが外れるたびにキャーキャーと黄色い声をあげるお姉さん連中で、しかも彼女たちが一番盛り上がっていたのは、どこかからすごい勢いで駆け出してきた白い犬が、カミュ村のゴールに飛び込んだシーンだったのだから。
「軍隊というのは、外の敵から国を守るためにあるものだろう?」とチュンウェイさんは言った。「でもミャンマーの軍隊は違うんだ。銃口を自国の民衆に向けているんだよ」
平和な草サッカーにライフル銃を持ち込むのは、治安維持というよりも、軍事政権が人々に力を見せつけるためなのだろう。しかし、場違いな格好をさせられている兵士にしても、まさか本気で銃が必要だとは思っていないようで、何とも居心地の悪そうな顔をしていたのだが。
前半の30分は1対1で終わり、ハーフタイムに入った。カミュ村の選手達は用意された水を飲みながら作戦会議を行っているのだが、イングナー村はそれとは対照的に、くたびれたなぁーという感じで煙草を回し飲みしていた。果たして、後半はカミュ村が一方的に押す展開となり、相手ゴールキーパーのミスにも助け られて、3対1で勝利を納めた。
終了のホイッスルが吹かれると、カミュ村の女性達は日傘を放り投げて喜びを表した。生真面目な兵士の表情も、このときばかりは少し緩んだように見えた。
日本兵が死んだ地
サッカーの勝敗を見届けると、ターズィの町に帰ることにした。帰り道を再び自転車で1時間かけて戻るのは、さすがに気が重かったので、ターズィに行く乗り 合いピックアップトラックを見つけて、自転車ごと屋根の上に乗せてもらうことにした。女性や老人は下の座席に座り、男性は屋根の上に乗るというのが、混み合ったピックアップでのルールだった。
ピックアップの屋根は、人の乗れるように金属の手すりが渡してあるものの、舗装などされていないデコボコの牛車道を行くわけだから、かなり激しく揺れる。慣れない僕は、振り落とされまいと必死の思いで手すりにしがみついているわけだが、他の男たちはコオンを噛みながら、あるいは煙草を吹かしながら、悠然と揺られていた。
ピックアップの屋根の上から見えるのは、乾ききった土地と、少しうなだれたヒマワリだけだった。そんな荒涼とした地平線の向こうに、夕陽が沈もうとしていた。
「ジャパン ソルジャー」
隣にいた男が、不意に僕の肩を叩いて言った。彼は「ソルジャー」と言いながら、地平線の向こうを指さした。
「ジャパニーズ ソルジャー?」
僕が言うと、男は大きく頷いた。そして「キル」と言って、銃で撃たれて倒れるジェスチャーをした。どうやら彼は、かつてここで日本の兵隊が大勢死んだということを、日本人である僕に伝えたかったようだった。
第二時大戦末期、ミャンマー中部では連合軍と日本軍との間で激しい戦闘が行われ、数十万人が死傷したという。それが軍事的にどれほど重要な作戦だったの か、僕にはわからない。とにかく、故郷から遠く離れた南方の土地で、大勢の人間が殺し合いをしていたのだ。ヒマワリ以外には何もないようなこの土地で。
ターズィのゲストハウスに帰ったのは7時過ぎだった。僕が宿の前に自転車を止めていると、中からおかみさんとおかみさんの母親が飛び出してきた。
「あなた、こんな時間まで、一体どこに行ってたのよ!」
「午後のバスの時間には帰るって言ってたのに、いつまで経っても帰ってこないじゃない!」
二人は大声で、一体どこで何をしていたのかと僕を問い詰めた。二人が僕のことを心配しているだろうとは思っていたけれど、ここまで真剣だとは考えていなかった。
「今、二人で『警察に行こうかしら』って相談していたところなんだから」とおかみさんが言った。
「警察?」
「そうよ。これは何かアクシデントに巻き込まれたに違いないって」
僕はパゴダ祭りに向かった経緯を、順序立てて二人に話した。近くで祭りがあると言われて行ってみると、実はものすごく遠かったこと。連絡しようにも電話もなければ、電話番号も知らないこと。
「連絡できなかったのは悪かったけど、心配するようなことはなかったですから」と僕は言った。ミャンマーの片田舎のお祭りは、どちらかというと「危険」という二文字の対極に位置するものだった。
「でも、あなたは外国人なんですからね。一人で知らないところに行って、何か危ない目に遭うことだってあるかもしれないじゃないの」
おかみさんの言い方は、母親が小さな子供をたしなめている時とそっくりだったので、僕は苦笑いしてしまった。アットホーム過ぎる宿というのも、ちょっと考えものである。
「まぁ、とにかく無事で戻って来てよかったわよ」
小言を言い終えて一息つくと、僕ら三人は食卓に座って、おかみさんが入れてくれたインスタントティーを飲んだ。ミャンマーのインスタントティーはコンデンスミルクがたっぷり入っていて甘過ぎるのだが、この長い一日の終わりには、ちょうどいい甘さに感じられた。