インドの旅は、何をしてもうまく行かなかった。ツキというものにも恵まれていなかったし、体調も思わしくなかった。今までの旅が幸運に恵まれていた分、旅の女神様が試練を与えたのかもしれない。
まず、ブッダガヤで子供に電子辞書を盗まれた。次に、デリーに着いた翌日に激しい下痢に襲われて、丸二日間動くことができなかった。さらには、やっと下痢がおさまってきたので南のアーメダバードに行こうと列車を予約して、荷物を背負って駅まで行ったのに、見事に乗り遅れた。いつもならリクシャで15分もかからないような距離なのに、どういうわけか大渋滞が起こっていて40分もかかったのだ。僕がホームに駆け込んだときには、バウナガル行きの列車は既に走り始めていた。スローモーションみたいにゆっくりとホームを離れていく列車の後ろ姿を、僕はただ呆然と見送るしかなかった。
もっとも、列車に乗り遅れたのは旅の女神様のせいではなく、僕が余裕を持って行動しなかったのが悪いわけで、その辺を深く反省して、翌日の同じ列車には出発の30分前に乗り込んだ。
チケット片手に自分の座席を探していると、抱き合ってキスを交わしている欧米人カップルの姿が目に入った。彼らは周りのインド人の視線などまったく気にせずに、長く濃厚なキスを続けていた。僕はチケットの座席番号をもう一度確認して、それからため息を吐いた。それはキスカップルが座っている、まさにそのシートだったのだ。
「エクスキューズ・ミー」
遠慮がちに言うと、二人は顔を上げた。女の子は坊主頭で、男の方は長髪という不思議な二人組だった。
「この席は僕のなんだけど」
チケットを見せながら説明すると、二人は「ああ、ごめんなさい」と言って、向かいの座席に移った。しかし、彼らのキスはそんなことでは止まらなかった。すぐに男の方が顔を寄せ、再び激しく求め合った。
やれやれ、この二人はこんな風に一日中キスしながら旅をするつもりなんだろうか。そうなったらたまらないな、と僕は思った。でも、その心配は現実にはならなかった。発車間際になると二人は離れ、男が列車を降りていった。別れを惜しんでのキスだったのだ。
男がホームに降りてからも、二人は窓を挟んで見つめ合っていた。窓ガラスが溶けてしまいそうな熱い視線だった。やがて列車が音もなく発車し、男の姿が窓枠の外に消えてしまってからも、女の子はその視線を動かそうとしなかった。彼が再び現れるのを待っているかのように、窓の外を見つめ続けていた。
恋する旅人としない旅人
駅を出てしばらくの間、列車はデリーの貧民街を走った。線路沿いにあばら屋が延々と続き、裸の子供達が無表情に列車を見つめ、そこら中にゴミが散乱し、宿命的な便の匂いが漂っていた。それはバングラデシュのダッカに広がっていたスラム街と変わらない光景だった。デリーの中心地だけを見れば、近代的なオフィスビルやショッピングセンターが建ち並び、めざましい経済成長を遂げている印象を受けるけれど、都市の周辺に生きる数百万人の貧困層の暮らしは、今も昔もあまり変わっていないのかもしれない。
坊主頭の女の子は、虚ろな目でそのスラムを見ていた。彼と別れたのがよほどショックだったのか、彼女の目には生気がまるでなかった。彼女の放心状態がようやく回復したのは、列車がいくつかの駅を通過し、太陽が西に傾き始めた頃だった。
「あなたも一人で旅をしているの?」
と彼女は僕に声をかけた。そうだよ、と答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。僕らのコンパートメントにいたのは貿易商をしているインド人夫婦と、観光旅行に来たというバングラデシュ人の三人組の男達だったから、話の合いそうな人間は僕ぐらいだったのだ。
彼女はレイチェルという名前のカナダ人で、デリーで別れた長髪の彼はアルゼンチン人だった。レイチェルは1ヶ月前からインド各地を一人で旅していたのだが、夜行列車の中で彼と知り合い、それから行動を共にするようになった。彼女はまだしばらく旅を続けるつもりなのだが、彼の方は今日の飛行機でアルゼンチンに帰ってしまうのだという。
「あなたは3ヶ月も旅を続けていて、寂しくはないの?」と彼女は僕に聞いた。「私はたった1ヶ月なのに、一人で旅をしているのが時々嫌になる。特にこういう列車に乗っている時間が嫌いなの。何もせずにただ座っているだけでしょう?」
「僕は一人で旅することに慣れてしまったから、寂しいとはあまり思わないよ」と僕は言った。「ベトナムでもラオスでもバングラデシュでも、たいていは一人だった。もともと一人でいるのは嫌いじゃないんだ」
列車はラジャスタンの砂漠地帯を南に向けて走っていた。窓から見える風景は、麦畑の続く北インドとは全く違うものだった。畑の緑や森林の姿はどこにもなく、荒涼とした茶色の大地が果てしなく広がっていた。ワイン色の花をつけたサボテンや刺だらけの背の低い潅木がまばらに生えている以外には、ほとんど何もなかった。
レイチェルは地平線近くにまで降りてきた太陽を、しばらくのあいだ目を細めて眺めていた。5ミリほどの長さに切り揃えられた彼女の髪が夕陽を浴びて金色に輝き、彼女の小さな鼻と細い眉毛を飾っている三つのピアスがきらきらと光った。
「これ、インドで切ったのよ」
レイチェルは僕の視線に気が付いたらしく、笑って言った。
「前は肩まであったんだけど、バラナシでばっさり切ったの。あなたも知ってるでしょ? 川のほとりにある散髪屋。あそこで切ってもらったの。切ってくれたおじさんは、びっくりしてたけど」
さっぱりした髪の毛を右手で撫でながら、彼女はいたずらっぽく笑った。そうしている彼女は、最初の印象よりもずっと幼く見えた。たぶん僕よりも3つか4つ年下なのだろう。
「私と彼は、もう二度と会わないんじゃないかって思う」とレイチェルは小さな声で言った。「彼もきっとそう思っている。私にはわかるの」
「カナダとアルゼンチンは遠いから?」
僕がそう訊ねると、彼女は何も言わずに頷いた。
それっきり僕らは黙って、荒れた地平線の向こうに夕陽が落ちていくのを眺めた。日が落ちるのに合わせるように、二人組の芸人が僕らの側にやってきて、太鼓を叩きながら歌い始めた。目の前の荒涼とした風景にとてもよく似合う、もの悲しいメロディーだった。男女の別れを歌ったものだ、と貿易商の男が教えてくれた。レイチェルと僕は芸人に1ルピーずつ渡した。
旅先で燃え上がった恋は、たいてい長続きはしない。そういう話を何人かの旅人から聞いた。ある人は、「それは彗星のようなものなんだ」と言った。不意にやってきて、一瞬の輝きを見せて、また不意に去っていく。追いかけるにはあまりにも遠い。でも、そうとわかっていても、恋に落ちないわけにはいかない。たとえアルゼンチンとカナダであっても。
「あなたは旅している間に誰かを好きになったことはある?」
しばらくしてからレイチェルが訊ねた。
「ない」
と僕は答えた。一緒に旅を続けたいと思うほど好きになった相手はいないし、たぶんこれからもそういう相手に会うことはないんじゃないかな。
「あなたは一人でいることが好きなのね」と彼女は言った。
「そうかもしれない」と僕は言った。
野良牛の角が立派な街
列車は朝8時30分にアーメダバードの駅に着いた。レイチェルもこの駅で降りたが、彼女はディウという綺麗なビーチのある町を目指すのだという。僕がバウナガルに行くと言うと、彼女は怪訝な顔をした。
「そこには何があるの?」
「バウナガルにはたぶん何もない。でもその先のアランって町に行くつもりなんだ」
「そのアランには何があるの?」
「船の墓場がある。大きな船が解体される場所なんだ」
アランにある世界最大の「船の墓場」は、インドに行ったら絶対に訪れようと思っていた場所だった。僕はアランのことを、「太陽」という雑誌のグラビア記事で知った。アランの海岸には、老朽化して役目を終えた大型貨物船やタンカーなどが世界中から集まってくる。それらは大勢の労働者の手によって解体され、溶鉱炉で溶かされて再利用される。バラナシはヒンドゥー教徒にとって輪廻の苦しみから逃れられる聖地だが、アランは老朽船が再び生まれ変わる聖地なのだ――そんな記事だった。
何よりも、そこに載っている写真が強烈だった。鉄錆の赤茶色で埋め尽くされた海岸。油まみれ泥まみれになって働く無数の男達。巨大な墓標を思わせるタンカー。切り出されたスクリュー。トタン屋根の労働者住宅。それらの写真は、旅に出てからも鮮明に思い出すことができた。世界の隅っこにある鉄屑の町。そこにどうしても行ってみたい。その思いは、インドに入ってからいっそう強くなっていた。
しかし、レイチェルは「船の墓場」の話にはあまり関心がなさそうだった。「それは面白そうね」とたいして面白くもなさそうに言っただけだった。僕の目指す場所が、あまり一般受けしないことはわかっていたけれど。
「よい旅を」
これまで何度も繰り返してきたように、右手をあげて僕らは別れた。レイチェルはカナダの国旗を縫いつけた巨大なバックパックを背負い、しっかりした足取りでバスターミナルに向かって歩き始めた。
バウナガルへ向かうバスは、エアコンが利かなかったのでとても暑かった。日が高く昇るに連れて車内の温度もぐんぐんと上がり、汗が吹き出したそばからすぐに蒸発していった。用意していたミネラルウォーターもたちまち底をついた。インドの暑期は4月から始まると言われているのだが、南西部に位置するグジャラート州では、既に3月から最高気温が40度を超えるのだという。
「でも、40度なんてまだ涼しいほうですよ」
と僕の隣に座っている大学生がクールに言う。
「5月のホットシーズンには50度になる日もあるんですよ。それに比べたら、全然マシですよ」
彼の言っていることが決して強がりでないことは、その服装を見ればわかった。40度の暑さにもかかわらず、スリムのブルージーンズを履き、厚手の黒いシャツのボタンを一番上まで留め、それなのに汗ひとつかいていないのだ。人の体感温度というのは、住む土地によって変わるものなのだろう。
「そう言えば、何かの本で読んだロシアの諺にこんなのがあったよ」と僕は言った。「400kmは距離じゃない。マイナス40度は寒さじゃない。ウォッカ4本は酒じゃない」
「それでいくと、グジャラートでは40度なんて暑さじゃないってことですね」と彼はおかしそうに言った。
しかし、日本で育った人間にとっては、40度でも十分すぎるほどの暑さだった。もちろん、50度の世界なんて想像することもできない。この分だとせっかく治りかけていた体調がまたおかしくなりそうだな、と僕は思った。そして、実際にその通りになったのだった。
乾燥した平原を走ること4時間。バスは昼過ぎにバウナガルの町に着いた。そこは何の変哲もない、ただの田舎町だった。他の町と違うことといえば、野良牛の姿がやたらと多いことぐらいだった。
どうしてバウナガルに野良牛が異常に多いのか、その理由はわからない。でも、とにかく町のいたるところに十頭から二十頭ほどの牛の集団がいて、田舎のヤンキーの兄ちゃんみたいに何をするわけでもなく道端に座り込んでいた。交通の邪魔になるし、まき散らす糞尿だって相当なものだった。
この町ほどたくさんはいないけれど、野良牛はインド各地で当たり前に見ることができた。大都会のデリーであっても、路地裏に行けば野良牛がたむろしていた。ヒンドゥー教徒にとって牛は神聖な動物だから、殺すことも食べることもタブーとされている。しかし、乳を出す雌牛と違って、飼っていても役に立たない雄牛は単なる厄介者でしかなく、野良として生きていくしかないのだという。以前なら雄牛たちにも農作業や荷物運搬の働き口があったのだが、農業の機械化や都市化が進むにつれて使われなくなったのだ。つまり野良牛たちは、インド社会における構造改革の犠牲者というわけなのだ。
バウナガルの野良牛達は、ただ数が多いだけでなく、立派な角を生やしてもいた。他の町にいる雄牛の角はせいぜい2、30cmだったのに比べて、バウナガルの牛は50cmはあろうかという角を持っているのだった。まるでハーレーダビッドソンのハンドルみたいだった。品種が違うか、それとも南インドの土地が牛の角の成長に適しているかはわからない。でもその立派な角が、ごみ箱を漁る彼らの姿を余計惨めなものに見せているのも確かだった。
野良牛以外に、この町を特徴づけるものはなかった。町の中心にレンガ造りの大きな織物工場がいくつかあり、その周辺に工場に労働者のためのバラック小屋が建ち並ぶ地区がある。そこを抜けると、急に目の前が開けて、乾燥した不毛の大地が現れる。この土地は農業には適さないらしく、畑はどこにも見当たらない。干上がった川の跡が幾筋か見える。
視線を遠くへ移すと、周囲の景色とはまるで釣り合わない近代的な建物が見える。大きな煙突とコンクリート造りの白い建物。そこから伸びた太い送電線。おそらく火力発電所だろう。しかし、なんでまたこんなところに巨大な発電所があるんだろう、と不思議に思う。それほど多くの電力需要があるとは考えられないからだ。しかし、とにかくこれがバウナガルというきわめて退屈な町の概要である。
バウナガルの町があまりにも退屈だったので、床屋で髪を切ってもらうことにした。考えてみれば、日本を発ってから一度も髪を切っていなかったから、相当に暑苦しくなっていたし、レイチェルの涼しそうな坊主頭に触発されたというのもあった。料金も格安に違いなかった。
ぶらっと入ったのは、椅子が二つ並んだだけの小ぢんまりした床屋だった。主人は英語が全く話せなかったが、髪を切る以外の目的で床屋に入る人間なんていないから、特に問題はなかった。髪を切ってください、と身振りで伝えると、ああわかったよと椅子に座らされた。
インドの散髪屋といっても、基本的には日本のそれと同じである。正面に大きな鏡があり、テーブルには霧吹きや、ヘアスプレーや、シェービングフォームなどがたくさん並んでいる。日本と違うのは、洗面台がないことぐらいだ。インドの床屋は髪を洗わないらしい。
言葉が通じないので、ヘアスタイルは主人にお任せである。「メンズ・ヘアカタログ2000年版」か何かがあればいいのだが、あいにくそういうものはない。と言っても、僕は自分の髪型に強いこだわりがあるわけではない。とにかくさっぱりと切ってもらえれば、それでいい。
主人は霧吹きでシュッシュと水を吹きかけてから、ハサミを入れる。彼のハサミには迷いというものが全くない。僕が椅子に座った時点で、すでに目標とする髪形がはっきりとイメージされている。だから切るスピードはとても速い。多少スリリングではあるけれど、今更じたばたしてもしょうがないと覚悟を決める。主人はラジカセから流れるインドポップスに合わせて鼻歌を歌いながら、ハサミを動かし続ける。シャキシャキというハサミの音が、心地よく耳に届く。
気が付いたときには、僕のもみあげはばっさりと水平に切り落とされている。ああ、これでインド人の仲間入りだ、と鏡を見ながら思う。主人は鏡の中にニコッと笑いかけ、間髪を入れずに後頭部の刈り上げに取りかかる。刈り上げてくれと頼んだ覚えはないのだけど、当たり前のようにざっくりと刈り上げる。うなじの部分はバリカンを使って入念に仕上げる。最後にブラシを使ってぴっちりと七三に分ける。ああ、これで完璧にインド人の仲間入りだ、と鏡を見ながら思う。
「さぁ終わった。どうだい、ハンサムだろ?」
と主人は陽気に言う。そしてブラシで細かい毛を落としてくれる。スピード、テクニック、共に申し分ない。ただ、鏡に映った自分の髪型は、あまり見ないようにする。
「そうだね。元々がハンサムなんだ」
僕は適当に答える。値段は40ルピー。日本円で100円だから、まぁ安い。しかしインドの物価水準からすれば、ほどほどという値段だ。主人は床に散らばった大量の髪の毛を、ほうきを使って集める。
これだけの髪が伸びる間、旅を続けていたんだな。短く刈り上げられた後頭部を触りながら、僕はそんなふうに思った。
世界最大の「船の墓場」へ
バウナガルで一泊してから、いよいよアランの「船の墓場」に向かった。6時にホテルを出て、まずバスでトラポートという町まで行く。そこからアランの解体現場までは、ピックアップ・バイクという乗り物に乗る。ピックアップ・バイクはリアカーをアメリカンスタイルの大型バイクで引っ張るという、この地方独特の乗り合いタクシーである。一応腰掛ける場所はあるが屋根はなく、座る場所のない乗客は支柱に掴まってからだを支える。お世辞にも乗り心地がいいとは言えないが、解体現場へ通勤する人はみんなこれに乗って行くという。
新しく舗装された道路をしばらく行くと、道の両脇にベッドや衣装タンスや椅子などが並び始める。どうやら解体した船から運び出された内装品を売っているらしい。鏡や洗面台、それから便器なんかも売っている。
ずらっと並んだリサイクル商品の中で、一番目を引いたのが「扉」だった。客船で使われていた飾り付きの扉から、貨物船の二等船室の無骨な扉まで、様々な種類の扉が巨大なドミノ倒しのように何十個も並んでいるのだ。それはダリの絵に描かれていそうなシュールな光景だった。「自己主張する扉」とかいう名前が付いて、モダンアートの展覧会に出品したら受けるんじゃないだろうか。そんなことを考えていると、ピックアップバイクが停車した。ここから先は「船の墓場」の敷地に入るのだという。
さぁいよいよだ。扉の群れや便器の集団を目にして、旅のテンションはいつもにも増して上がっていた。眠気は吹き飛び、治りきらない下痢のことも忘れた。ところが、その盛り上がりは、一瞬にして崩れ去ることになったのだった。
「君は外国人だろう?」
警備員の男は僕に向かって英語で言った。それは明らかに何かを警戒する声だった。男は僕に向かって指を突き立て、その指を地面に向けた。外国人は降りなさい、その他の者は行ってよし、そう言いたいようだった。
これはまずいことになったな、と僕は思った。できることならインド人のふりをして通り過ぎてしまいたかったが、いくらヘアスタイルをインド風に変えたところで、僕がインド人ではないのは誰の目にも明らかだった。仕方なく、僕はピックアップバイクを降りた。
「ここは私有地なんだ。外国人が入るには特別な許可証がいる。君は許可証を持っているのか?」
と警備員は言った。
「許可証?」
僕は驚いて聞き返した。そんな話は全く知らなかった。
「そうだ。グジャラート州の許可証だ。持っていないのなら、君をここに入れるわけにはいかない」
「それはどこでもらえるんです?」
「アーメダバードでもらえるはずだ。でも今行っても、許可が出るまでに一週間はかかるだろう」
「え? 一週間ですか?」
と僕は聞き返した。男は「そうだ」と改めて頷いた。
寝耳に水だった。バスターミナルの職員も、ホテルの従業員も、「船の墓場」に行くために許可証がいるなんてことは言わなかった。おそらく彼らも知らないことなのだろう。
一週間。それを聞いて、僕は絶望的な気持ちになった。インドの事務手続きは煩雑で、とても時間がかかる。僕はそのことをビザ発給の際に痛いほど思い知らされていたのだ。だから許可書の発行に一週間かかるという話も、決して誇張ではないだろうと思った。
「許可証にはお金がかかるんですか?」
「私も詳しくは知らない。しかし、カメラを持ち込むんだったら、300ドルかそれ以上かかるはずだ」
「300ドル!」
僕はまたも声を上げた。インドで300ドルといえば、相当な大金である。なにしろ安宿の一泊がせいぜい2,300円、食事が50円で済むという世界なのだから。
僕はなにも最新技術を盗み見に来たわけではない。軍事基地に潜入取材しようとしているわけでもない。ただ老朽化した船が鉄屑に変わっていくのを見たいだけなのだ。それなのに300ドルも払えというのは、あまりにも理不尽だ。
「僕はここを見るために、デリーから列車とバスを乗り継いで、丸二日かけてやってきたんです。仕事の邪魔はしません。ただ、ここで働く人と解体される船を見たいだけなんです」
僕は持てるボキャブラリーの全てを使って、なんとか入れてくれないかと粘った。バクシーシを要求されたら、払ってもいいとさえ思った。しかし、警備員の素っ気ない反応は変わらなかった。
「そういう決まりなんだ。君だけを特別扱いはできない」
男は同情の気持ちを表すように、ほんの少し首を傾けて言った。しかし駄目なものは駄目なんだ。
僕はふーっと大きくため息を吐いた。そうすることしかできなかった。目指す「船の墓場」は、もう目の前だった。格納庫のような建物の陰から、解体される貨物船の船尾と、いくつかの大型クレーンが見えていた。美女の長い髪とワンピースの裾だけがちらっと見えているというのに、その美女の顔は絶対に見ることができない。そんなもどかしい気持ちだった。
デリーからの1000kmの道のりは、全くの無駄足だったのか。そう思うと、全身の力が抜けてきて、へなへなとその場に座り込んでしまいそうになった。
そのとき僕が感じたのは、ある種の諦観だった。「インドの旅は、何をしてもうまく行かない。だから諦めるしかないんだ」と悟ったのだ。
僕にとってのインドは、終始空回りだった。歯車の狂い、あるいはボタンの掛け違い・・・要するにインドの相性が悪かったのだ。
坊主頭のレイチェルが、列車の中でこんな風に言っていた。
「インドを嫌う者はインドに嫌われるの。そして、インドを好きな者はインドに好かれるのよ」
確かに、インドは旅人の間でも好き嫌いのはっきり分かれる国である。「インドが大好きで、はまってしまった」と言う旅人ももちろん多かったが、その一方で「インドなんか最悪だ。二度と来るものか」と言う旅人も多かった。僕自身は「最悪だ」とまでは思わなかったけれど、「大好きだ」とはとても言えなかった。インドで僕は濃い疲労を感じていた。そして、その疲労がまた新たな疲労を生み出していくという悪循環になっていたのだ。
「それじゃ、インドに嫌われてしまった旅人は、どうすればいいんだい?」
と僕はレイチェルに聞いた。彼女自身は自称「インド大好き人間」である。
「どうしようもないよ」と彼女はあっさりと言った。「嫌いなものを好きになろうとしたって、それは無理でしょう? インドを出るしかないんじゃない?」
彼女の言ったことは、おそらく真実なのだろう。長く旅を続けていると、どうしても自分に「合う土地」と「合わない土地」というものが出てくる。僕にとってミャンマーやバングラデシュは合う土地だったが、香港やタイは合わなかった。合わない土地に来てしまった場合、僕ら旅人がするべきなのは、さっさと気持ちを切り替えて、次の土地に駒を進めることなのだろう。
インドを出よう。そして西へ進むんだ。
40度を超えようという日差しの中で、僕は歩き始めた。だけど、また二日かけてデリーにまで帰ることを思うと、その足取りは重くなっていった。