4156 国境を越えてインドからパキスタンに入ったとき、僕は心の底からほっとした。他の国なら、やり残したことや行けなかった場所を思い出して、少なからず後ろ髪引かれる気持ちになるのだが、インドはそうではなかった。やれやれ、ようやくこの広い国を横断することができたんだな、と思った。

 午前10時のオープンと同時にアターリーの国境を越えようとする外国人は、僕以外にも数人いた。韓国人の女子大学生と、ドイツ人とタイ人の夫婦、それにフランス人カップルだった。イミグレーションの係官によれば、ここを通る外国人旅行者は一日に20人ほどで、一番多いのは日本人なのだという。

 インドとパキスタンの両国はカシミール地方の領有権を巡って、長年軍事的な衝突を繰り返している。2年前にパキスタンが核実験を強行したこともあって、最近は再び緊張が高まっているという話だったが、この国境に限って言えば、剣呑な雰囲気は全く感じなかった。むしろ両国の貿易が活発に行われていない分、人や車の行き交う量が少ないので、他国の国境よりのんびりしているようにも見えた。

 
 

イスラムのルール

 国境を越えてから、まずラホールに向かった。いつものことながら、僕はパキスタンという国の予備知識はほとんど持っていなかったので、とりあえず手近の都市に一泊してから、今後のことを考えようと思ったのだ。

4196 ラホール行きのバスは、国境を越えてすぐのところに待っていた。外で煙草を吸っている車掌らしき男が、もうすぐ発車するぞと急かすので、慌てて前のドアからバスに乗り込もうとしたのだが、その車掌が「ノー!」と叫んで僕を制止した。
「このバスはラホールに行くんじゃないのか?」
 僕はもう一度車掌に確認したが、彼は英語が上手く話せないらしく、ただ「ノー! ノー!」と繰り返すばかりだった。金を先に払えと言っているのかと思って、国境で両替したばかりのパキスタンルピーを財布から出してみたが、またも「ノー! ノー!」と繰り返す。

 すると、近くにいた学生風の若者が、助け船を出してくれた。
「あんたはここから乗ることはできないんだ。あっちから乗ってくれ」
 若者は後ろのドアを指さして言った。
「どうして?」
「とにかく、俺についてきなよ」
 言われるままに後ろのドアから乗ってみて、はじめて状況が飲み込めた。バスは真ん中の扉で仕切られていて、前半分には女性ばかり、後ろ半分には男性ばかりが座っていたのだ。

「男は前に乗ってはいけないし、女は後ろに乗ってはいけない。これが決まりなんだ」
 若者は僕に説明してくれた。イスラムの国では男女の区別が厳格に行われている、という話をこれまでにも耳にしたことはあった。だけど、実際にこうした光景を目にすることではじめて、自分がインドとは違う文化圏に踏み込んだのだということを実感することになった。

 
 

忍者屋敷もびっくりの泥棒宿

 バスがラホールの駅前に到着すると、さっそくホテルの客引きの男に声を掛けられた。どの国でも客引きというのは一度食いついたらなかなか離れてくれない連中なので、捕まると厄介なのだが、相場を知るためには便利な存在でもある。
「一泊いくらだい?」と僕が訊ねると、
「シングルルームなら100ルピーだ」と男は答えた。
 100パキスタンルピーは200円だから、予想以上に安い。物価はインド並みだと考えていいだろう。しかし、安かろう悪かろうという宿はインドでさんざん見ていたから、値段だけを信用するわけにはいかなかった。

4233「オーケー。それじゃ案内してくれよ。部屋を見て決めるから」
 僕がそう言うと、客引きの男は「着いてきなよ」と言って、すたすたと歩き始めた。ラホールの繁華街には「HOTEL」という看板を掲げているビルがいくつかあったが、男はそれを無視して狭い路地を奥へ奥へと進んでいった。建設中なのか取り壊し途中なのかわからないような廃墟をいくつか通り抜け、ようやくたどり着いたのは、コンクリート剥き出しの陰湿な建物だった。

「こっちだよ」
 と男が指さした先には、「SWAT INN」という小さな看板があったが、それがなければ誰もホテルだとは気が付かないような建物だった。男は暗い階段を上っていき、三階にある部屋に僕を案内した。そこはほぼ予想していた通りの部屋だった。ベッドは硬く汚く、壁はぼろぼろでシミだらけだった。

「共同だがホットシャワーだって使えるんだ。それで100ルピー。グッドプライスだろう? ほらこの宿帳を見てくれよ。三日前にはジャパニーズも泊まっている。人気なんだ」
 確かに値段は安かったし、部屋も汚いが我慢できる範囲だった。でも、僕はこの宿に泊まる気にはなれなかった。旅人のセンサーが、「ここはやめておけ」と告げていたのだ。

 まず、部屋のドアの立て付けが悪かった。一応南京錠はあるのだが、蝶番がガタガタなので、鍵が無くても扉は簡単に開きそうだった。それに、客引きの男とレセプションに座っていた男の顔が、どうも怪しかった。二人とも表面上はフレンドリーなのだが、その言葉の裏で何か別のことを考えているような胡散臭さがあった。

 はっきりした証拠があるわけではない。ただの思い過ごしなのかもしれない。でも、こういうときは直感を信じて行動した方がいい。
「他を探すよ」
 僕がそう言うと、客引きの男は当然ごとくしつこく食いついてきた。もともと格安だった値段をさらに下げてもいいと言ってきた。でも、たとえタダでもいいと言われても、もうこの宿に泊まる気にはなれなかった。

4224 その日の夕方に、食堂で夕食を食べていると、国境越えの時に一緒になったフランス人カップルと再会した。僕が彼らに客引きに連れて行かれた安宿の話をすると、二人は驚いたように顔を見合わせた。

「そこは危険な宿だったかもしれないよ」と男の方が言った。「ある旅行者が言っていたんだ。『ラホールには客のお金やものを盗む宿があるから、注意した方がいい』って。安い料金で誘っておいて、外出していたり、シャワーを浴びている隙に、財布の中身を取ったりするらしいんだ」

「これはインドにいた日本人から聞いたんだけど」と今度は女の方が言った。「ラホールのある安宿には、部屋の壁が回転する仕掛けになっているところがあるんだって。そして、夜になると壁の中から人が出てきて、旅行者を襲うそうなのよ。あれ、なんて言ったっけ?」
「ニンジャ・ホテル」と男が言った。「日本のニンジャの家にも、そういう仕掛けがあるらしいね。でも、そんな宿に泊まったらたまらないよな」

 そう言いながら、二人はおかしそうに笑った。彼らはその宿の話を「よくある旅人のホラ話の類だ」と思っているみたいだった。旅人というのは、自分の体験談や人づてに聞いた話を誇張して話す傾向があるのだ。
 僕にしても、忍者屋敷もびっくりの泥棒宿なんてものが、本当にこの町にあるとは信じていなかった。さすがにラホールの警察だって黙っていないだろう。でも、僕はつい数時間前に、あの「SWAT INN」の怪しい雰囲気を感じて逃げ出してきたところだったから、笑い話にはできなかった。

 あのホテルも泥棒宿のひとつで、夜になると壁の中から髭の濃い男がぞろぞろと現れるのかもしれない。もし、僕が今晩あのホテルに泊まっていたら、どうなっていたんだろう。そんなことを想像すると、背筋の辺りが寒くなるのだった。