遊牧民の一日は羊の屠殺で始まった。
羊の解体には人手も時間もそれほどかからない。若い男が一人と小刀一本と三十分程度の時間があれば十分である。
男はまず群れの中から引き離してきた羊に馬乗り(というのも妙な表現だけど)になり、小刀を腹に刺して10cmほど縦に切り裂く。そしてすぐさまその裂け目に右手を差し込み、素早く心臓を探り当てて、動脈を引きちぎってしまう。時間にして10秒ほどの早業である。その間、羊は鳴き声ひとつ上げない。たぶん自分の身に何が起こっているのか考える余裕もないままに、息絶えてしまったのだろう。
羊が死んだことを確認すると、今度は皮剥ぎに取りかかる。小刀で何ヶ所かに切り込みを入れてから、手で剥いでいく。まるで夏みかんの皮でも剥くように、羊の皮はするすると肉から離れていく。
皮を完全に剥がしてしまうと、腹を縦に切り裂き、内臓だけを先に切り取って鍋に入れる。切り分けられた心臓は、まだぴくぴくと動いている。血液はひしゃくで掬い取って別の鍋に入れる。血も肉も骨も、一片たりとも無駄にされることはない。男の手つきにも一切の無駄はない。
男の解体作業を手伝っていたのは、まだ5歳の娘だった。彼女は言いつけ通りに羊の前足を持って、父親が肝臓や腸が切り取っていく様子を見ていた。顔をしかめることも目を背けることもなく、黙ってその作業を見守っていた。
この子は自分が何を食べて生きているのか、ちゃんとわかっているんだ、と僕は思った。ひとつの命が生まれ、育ち、死んでいく。そのことによって自分たちが生かされているということを、彼女は実感として知っているのだ。
草原の朝の直線的で硬い光が、かたちあるもの全ての輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。30分前までは四本の足で歩き回っていた羊は、今ではひとかたまりの毛と、鍋一杯分の内蔵と、一家の数日分の食料となる肉に変わっていた。
女たちの朝は忙しい
遊牧民の女達の朝はとても忙しい。朝食の支度をしなくてはいけないし、牛と馬の乳を搾らなければいけない。搾った乳から乳製品を作るのも女の仕事である。
「マサシ、ちょっと手伝ってよ」
とニャンダルチに呼ばれた。なにしろ猫の手も借りたいぐらい忙しい朝に暇そうにしているのは、赤ん坊と僕ぐらいなのである。
「何をしたらいいの?」と僕は訊ねた。
「仔牛を柵の外に出して。ただ柵を開けて、追い出してやるだけでいいから」とニャンダルチは言った。
お安いご用だと僕は請け合った。子牛と母牛を別の柵の中に分けて入れているのは、仔牛が余分な乳を飲んでしまわないようにするためらしい。柵の木戸を開けて、「こら、行け!」とか適当なことを言って尻を叩いてやると、仔牛達はどたばたと草原に駆け出していった。
ゲルの周囲を歩いてみると、そこらじゅう糞だらけだということに気が付く。牛や馬や羊の糞が、焦げ茶色の絨毯のように一面に広がっているのである。最初は糞を避て歩こうとしていたのだが、すぐにそれが無駄な抵抗だとわかった。どこに足を置いたって、結局糞を踏むことには変わりないのだ。
やがて糞のことは気にならなくなった。汚いと思うから汚いのだ。糞は分解されて土に還り、それが養分となって草が育ち、その草を家畜が食べ、再び糞をする。そのような大きな循環の中に、人の営みも含まれている。そういう世界にあっては、「汚物」なんてものはひとつも無いはずだ。
男達が草原に出かけてしまうと、女達の仕事も一段落する。女同士で世間話をしたり、川に行って髪の毛を洗ったりして、のんびりと過ごすひとときだ。僕もニャンダルチが通訳してくれたお陰で、女達の会話の輪に加えてもらうことができた。
ニャンダルチのお姉さんはまだ20歳なのだが、すでに2歳の女の子の母親であり、子育ても家事もテキパキとこなす立派な大人だった。モンゴルでは女性は22歳ぐらい、男性は24歳ぐらいで結婚するのが普通だという。きっと気ままに旅を続けている26歳の独身男の姿は、彼女達の目には奇妙に映っていることだろう。
相撲はモンゴル人にとっても重大な関心事になっていた。モンゴル人力士の草分け的存在である旭鷲山の名前は、遊牧民達の間にも広く知れ渡っていた。
「もしモンゴル相撲のチャンピオンと、横綱のタカノハナが戦ったら、どちらが勝つと思いますか?」という難しい質問もされたが、「ルールが違うからわからないよ」とお茶を濁しておいた。
人馬一体となって草原を駆ける
遊牧民は意のままに馬を操っていた。「操る」というよりは、体のちょっとした動きやかけ声だけで馬に意志を伝えている、という感じだった。まさに「人馬一体」という言葉がぴったりである。
羊や牛は食糧を供給してくれる家畜に過ぎないけれど、馬はそうではない。乳を出してくれる母親でもあり、機敏な乗り物でもあり、心を通わせる友達でもある。だから遊牧民は馬をとても大切にしている。
しかし全てを馬に頼っていた昔とは違って、モンゴルの遊牧民の生活も徐々に機械化されている。僕が泊まったゲル集落には、1台のロシア製トラックと2台のジープと1台のバイクがあり、大人の男はそれを使って移動していた。馬に乗るのは主に子供の役割だった。モンゴルの馬は比較的小型なので、大柄な大人が乗ると負担が大きいのかもしれない。
それでも広大な草原には、バイクよりも馬の方が似合う。土煙を上げながら草原を駆け抜け、あっという間に丘の向こうに消えていく馬と遊牧民の姿は、自然と人が一体となった印象的な光景だった。そこには大帝国を築き上げたチンギス・ハーンの時代から変わることのない命の躍動感がみなぎっていた。
僕も初めて乗馬に挑戦してみたのだが、これは惨憺たる結果に終わった。
乗馬初心者の僕のために、わざわざおとなしい気質の馬を選んでくれたのだが、そのことが逆に災いしたのか、僕が背に乗ってもちっとも動いてくれないのだった。前に進ませるためには「チョー」と言って、馬の腹を蹴ってやればいいというのだが、その通りにやってみても微動だにしない。完全にサボタージュされている。馬も乗っている人を見る、ということなのだろう。
仕方がないので、別の馬に乗った少年が僕の馬の手綱を引っ張って、放牧地まで連れて行ってくれた。これはかなり間抜けな状態だった。
それでも30分ぐらい乗っていると、僕も馬もお互いの存在に慣れてきて、前に進んだり、止まったりすることはできるようになった。しかしいつまで経っても、自分の行きたい方向に馬を進ませることはできなかった。外国人には簡単に心を許すまい、という強い意志みたいなものを馬の背中に感じた。
結局、遊牧民のように馬を駆って大草原を疾走することは、僕には不可能だということがわかった。遊牧民は赤ん坊の頃から馬に乗って生活しているわけで、その彼らと比べる方がおかしいとは思うのだが、それにしても自分の乗馬センスの無さにはがっかりしてしまった。
男達の仕事は放牧だけではなかった。食料の乏しくなる冬場に食べさせる干し草を作っておくのも、彼らの仕事だった。男達は刈り取った草をトラックの荷台に目一杯に積んで、倉庫にしている小屋のある場所まで運ぶ。僕も手伝わせてもらったのだが、草の積み下ろしだけでも大変な重労働だった。
遊牧民の暮らしは「男の役割」と「女の役割」がはっきりと分かれていた。男は家畜を連れて放牧に出かけたり、力仕事を担当する。女はゲルの周りで炊事や洗濯や子育てをする。
「冬になると、この草原は真っ白な雪に覆われてしまうんだ」
とシャウワさんは額の汗を拭いながら言った。シャウワさんは普段はウランバートルで教師の仕事をしているのだが、夏の時期だけはいつも故郷に戻って農作業の手伝いをしているという。彼のような「兼業遊牧民」はかなり多いのだそうだ。
「本当に何もかも凍りついてしまう。だからそうなる前に働かなくちゃいけないんだ。夏はいい季節だよ。みんな夏を心待ちにしている。でもとても忙しいんだ」
美しい夏と厳しい冬
シャウワさんの話を聞きながら、僕はパキスタンの山間の村フンザのことを思い出していた。春のフンザはアンズの花が咲き乱れ、暖かい日だまりの中で人々が日光浴をする、とても穏やかで平和な村だった。まさに「桃源郷」そのものといった風景だった。しかしそれがフンザの全てではなかった。
「ここの冬は長くて厳しいんだ」とフンザに住む老人は僕に言った。「冬の間、わしらは家の中に閉じこもって過ごす。春が来て雪が溶けると、表に出てのんびりと話をする。今が一番いい季節だ」
夏のモンゴルも春のフンザも、一年の中で最も豊かで最も鮮やかな季節である。しかし、その美しさの裏側には長く厳しい冬がある。モンゴルという国は、日本の4倍もの面積があるのに、わずか240万の人口しかない。人口密度で言えば、何と日本の200分の1である。その数字を見るだけでも、この土地で暮らすことの厳しさがわかる。農耕ができないから、遊牧をするしかないのだ。
パキスタンの山岳地帯も、ヨルダンやシリアの砂漠も、シベリアの深い森も、人を簡単には寄せ付けない土地だった。僕はユーラシア大陸を陸路を旅しながら、豊かな実りをもたらしてくれる土地は、地球全体から見ればごく僅かでしかないのだということを実感した。そして、厳しい自然に裏付けられた人間のささやかな営みほど美しいものはない、ということを知った。
旅を始めてから9ヶ月、僕は様々な国の様々な表情にカメラを向けてきた。絵になる国もあったし、ならない国もあった。写真を撮ることが楽しくて仕方がないという国もあれば、ほとんどファイダーを覗かないまま通り過ぎていった国もあった。
モンゴルは今まで旅した国の中でも、最も絵になる国のひとつだった。雄大な自然と、その中で力強く生きる遊牧民のささやかな営みが、見事に溶け合う場所。それがモンゴルだった。僕はただそこにあるもののあるべき姿を切り取るだけで良かった。
遊牧民の暮らしの中には、「生きる」ということの厳しさと喜びが、非常にシンプルなかたちで存在していた。空と大地だけが作り出す世界で、人々は自然が与えてくれる恵みに感謝し、血の一滴も無駄にせずに暮らしていた。
僕が遊牧民と生活を共にしたのは、わずか二日ばかりの間だったけれど、それは僕にとってかけがえのない時間になった。自然と共に生きる人間の根元的な逞しさに触れることのできた二日間だった。