少数民族カレン族が住むシュエタウン・ンウェタウン村の朝は、鶏の大合唱で始まった。どういうわけかこの村の鶏はやたら早起きで、まだ空が白み始めてもいない五時前から、一斉に「コケコッコー」と鳴き始めてしまうのだ。一羽が鳴くと、他の鶏も呼応するというのが鶏の習性らしい。しかし早起きなのは村人も同じで、鶏の合唱を合図にしてごそごそと起き出してくるのだった。
八時前になると、今度は軽やかな鐘の音が村中に鳴り響いた。ソーによれば、これは今から日曜礼拝が始まることを知らせる鐘だという。カレン族の多くはキリスト教を信仰していて、この村でも住民の八割が敬虔なキリスト教徒だという。
村の中心に建つ古びた木造の教会には、百人ほどの村人が集まっていた。男性は普段と変わらない服装だったが、女性はレースのショールを頭に被っていた。部屋の中はとても質素で、ここが教会であることを示しているのは、中央の祭壇に立つ小さな十字架と、聖母マリアの色褪せた肖像画だけだった。ここにはヨーロッパの教会に見られる荘厳さはないし、ミャンマーの仏教徒が好むキンキラキンの派手さもなかった。「祈りのための小さな山小屋」といった雰囲気だった。
説教台の前に立つ神父は、僕と同い年ぐらいの若い男だった。僕はカレン語が理解できないから、彼の説教の内容まではわからなかったが、生徒に好かれる小学校の先生のような優しい語り口には自然な親しみを感じた。後で聞いたところによると、彼は正式な神父ではなく、農作業をしながら村人に聖書の教えを説く「見習い神父」だということだった。本物の神父は遠くの村に住んでいるので、この村で説教するのは月に一度だけなのだそうだ。
見習い神父の説教が終わると、代表の女の子が聖書の一節を朗読し、その後に出席者全員で賛美歌を合唱した。ミャンマーの山村で聞く賛美歌のメロディーには、独特の美しさがあった。オルガンによる伴奏もなく、リズムも音程もきちんと揃っているとは言い難いのだけど、不思議に心打たれるものがあった。この歌の中には、村人が自分たちの手で織り上げる民族衣装のような、ざらっとした手触りの中にある手作りの温もりのようなものがあった。
礼拝が終わると、人々はそれぞれの家に戻って、家の中でのんびりと過ごす。日曜は安息日であり、外に出て働くことは極力避けるのだという。昼寝をしたり、パイプ煙草を吹かしながら世間話をしたりして、思い思いに休日を過ごす。
村人はヘビースモーカー
この村の人々は、老若男女を問わず竹で作ったパイプ煙草を吸う。仕事をしているときも、休んでいるときも吸う。しかも彼らが吸っているのは、相当に強い煙草らしい。ガイドのソーは、ミャンマーの男のほとんどがそうであるようにヘビースモーカーなのだが、その彼にとってもカレン族の煙草は強すぎてとても吸えないという。
「煙草を吸い始めたのは十四、五歳の頃だね」とマラソンランナーみたいに髪を短く刈ったおばさんは言う。「竹を取るために森に入ったときに吸い始めたんだよ。森には蚊がたくさんいるんだけど、煙草を吸っていると蚊が寄ってこないんだよ。煙草は美味いかって? さぁね、そんなの考えたこともないよ」
カレン族の人々にとって、蚊は生死に関わる問題である。この辺りは蚊を媒介して人に感染するマラリアが蔓延している地域なのだ。そのことは村の家屋がどれも極端な高床式(だいたい地上二〜四メートルほどの高さに床がある)なのを見てもわかる。蚊は地面近くを飛び回るので、高床の上にいれば刺される心配はないのだ。
その話を聞いて、僕は不安になった。マラリアの予防接種なんて受けていないし、たとえ受けたとしてもあまり効果がないと聞かされていたからだ。
「大丈夫、君がマラリアにかかることはないよ」とソーは僕を安心させるように笑顔で言った。「今は乾季だから蚊はほとんどいない。村人がマラリアにかかるのは雨季なんだ。蚊ってのは、地面が濡れて蒸し暑いときに大量発生するものだからね」
村人の死亡原因のトップは今も昔もマラリアだけど、最近では薬が簡単に手に入るようになったので、感染しても死ぬ確率は低くなったという。最も深刻なのは一度目の感染時で、ひどい高熱が二〜三週間続き、運が悪ければ死ぬこともある。しかし二度目以降は体内に抗体が作られているので、三日もあれば回復するという。
「だから村人はマラリアを怖がってはいないよ」とソーは言った。「怖がっていては、この土地で暮らしていけないからね。彼らがマラリアよりも恐れているのは、町に出ることかもしれないな」
「町に出ることが怖いの?」
「そう。カレン族の人々は滅多に自分の村の外には出ないし、町に出てたとしても、そこに住んで新しい仕事を見つけようって人はほとんどいないんだ。町で仕事を見つけること自体は、わりに簡単なんだ。サイカー(自転車タクシー)の運転手や建設現場の労働者なら誰にでもなれる。給料は安いけど、それでもこの村で働くよりは金になる。村に自動車はないけど、道を通りかかるトラックの荷台にでも乗せてもらえれば、半日で町に出られる。それでも村を出たがらないのは、怖いからだと思うよ。彼らは町に出た経験がないし、町がどういうものかもわからない。だから怖いんだろうね」
人は未知なるものを恐れる
カレン族の村で過ごす二日目の夜は満月だった。小さな蝋燭の明かりだけがそれぞれの家の中をぼんやりと照らし出す村にあっては、月光は眩しいぐらいに明るかった。椰子の葉の影が不自然なほどくっきりと地面に投影されていた。小さな村全部が青い染料で染め上げられたような幻想的な夜だった。
「僕はガイドの仕事を始める前に、ゲストハウスのマネージャーをやっていたんだ」とソーは話し始めた。「今から四年前に、一人旅をしている日本人の女の子が僕のゲストハウスにやってきたことがあった。僕と同い年の色白でかわいい女の子だった。僕らはすぐに仲良くなって、一緒にご飯を食べに行ったり、僕のバイクで町を案内したりした。とても楽しかったよ」
僕とソーは小さなちゃぶ台に向かい合わせに座って、やかんに入ったお茶を飲みながら話をした。村の男達はギターを弾きながら歌をうたっていた。この村には、どの家にも必ずギターがあった。何でも自分たちで作ってしまう村人にとって、外部から持ち込まれた数少ないもののひとつがギターだった。他に娯楽がないだけに、男達のギターの腕前はなかなかのものだった。月光に照らされた静かな夜に染み込んでいくような、心地良い音色だった。
「その日本人の女の子は、僕のゲストハウスに三泊したんだ。そして最後の晩に、彼女は僕に向かって突然こう切り出したんだ。『私と結婚してちょうだい』って。そりゃびっくりしたさ。彼女が僕のことを好きだってことは何となくわかっていたけど、いきなり結婚の話をするなんて予想できなかったからね。でも彼女は本気だった。日本に帰ってからも、彼女は何通も手紙を送ってきた。そこには『もしあなたが日本に来てくれるんだったら、私が旅費を出すし、生活の面倒を見てあげてもいい。仕事だって紹介してあげられると思う。だから心配しないで』と書いてあった。いい話だと思ったよ。僕は前から日本という国に興味があったし、彼女のことも好きだった。行くべきか、ここに留まるべきか、何ヶ月も悩んだよ。でも結局、僕は行かなかった」
ソーはそこで言葉を区切り、しばらく目を閉じて男達の奏でるギターの音色に耳を澄ませていた。四年前のことを思い出しているのかもしれない。
「どうして行かなかったんだい?」と僕は訊ねた。ソーは目を開けて、カレン族の村人の方に視線を向けた。
「この村の人達と同じだよ。僕は怖かったんだ。日本という全く知らない国に行って、違う仕事をして、違う生活を始めることが。ミャンマーを一度も出たことのない僕にとっては、それはすごく怖いことなんだ。いろんな国を旅している君には、想像がつかないかもしれないけど」
「人は自分が知らないものを恐れるんだ」と僕は言った。「僕だって初めて行く土地ではいつも緊張するし、不安だらけだよ」
「そうだね」とソーは頷いた。「人はみんな怖がりなのかもしれない。でも四年前の僕は、今よりもずっと臆病だったんだ。だからチャンスを逃してしまった」
「そのことを後悔しているの?」
「そうかもしれないな。もし今、同じようなことが僕の身に起こったら、今度は行ってみるだろうね」
「でも今は結婚もしているし、子供だっているんだろう?」
「そうだった。今思い出したよ」と言うと、ソーは声を上げて笑った。「人生はなかなか上手く行かないもんだ」
僕は蚊によるマラリア感染を恐れ、ジャングルに時折出没するという熊を恐れる。カレン族の人々は町で暮らすことを恐れる。ソーは生まれ育った国を出て、新しい生活を始めることを恐れていた。
人は未知なるものを恐れる——それは誰にとっても同じだけど、「未知なるもの」はそれぞれに違うのだと僕は思った。